涙を流されたイエス 2010年5月09日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

涙を流されたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章28節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。ヨハネによる福音書 11章28節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第11章28節から37節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 28節に、「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした」と記されています。イエスさまがベタニアに来られたと聞いて、迎えに行ったのは姉のマルタでありました。妹のマリアはイエスさまが来られたことを聞いても、家の中に座っていた。喪に服していたのです。しかし、イエスさまは深い悲しみの中にあるマリアの名をも呼ばれるのです。イエスさまはそのマリアの傍らにいることを望まれるのです。ここに「耳打ちした」とありますけども、これはおそらくマリアがイエスさまと落ち着いて話せるようにとのマルタの心遣いであったと思われます。愛する者を失った深い悲しみの中に座り込んでいたマリアは、イエスさまが自分を呼んでおられることを聞いて、すぐに立ち上がり、イエスさまのもとへ行ったのです。マルタはマリアが落ち着いてイエスさまと話せるように計らったのでありましたが、それは適いませんでした。と言いますのも、家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追ったからです。ここでの「ユダヤ人たち」は、ベタニアに住んでいたユダヤ人たちのことであります。42節で、イエスさまは彼らを「群衆」と呼んでいます。前回も申しましたけども、ユダヤ人たちは共に嘆き悲しむことにより遺族を慰めたのです。

 しかし、ユダヤ人たちの予想に反して、マリアが向かった先は墓ではなく、イエスさまの御もとでありました。マリアはイエスさまを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに」と言いました。ここで「ひれ伏し」とありますが、これは「崩れる」とも「倒れる」とも訳せる言葉であります。マリアはイエスさまを見るなり、足もとにくずおれたのです。そして、姉マルタと同じように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言うのです。マルタとマリアが同じ言葉を口にしたことは、彼女たちがイエスさまが来られるまでの間、ことあるごとにこの言葉を口にしていたことを示しています。マリアは、イエスさまが病を癒すことができることを知っていたゆえに、イエスさまがラザロの傍らにいてくださらなかったことが悔やまれてならないのです。それゆえ、マリアはイエスさまを見るなり足もとにくずおれ、わっと泣き出したのです。33節に、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」とありますが、ここで「泣く」と訳されている言葉は、声を出して泣くことを表しています。しおしお泣くのではなくて、声を出してわっと泣くのです。そして、そのように泣くマリアとユダヤ人たちを見て、イエスさまは心に憤りを覚えられたのです。なぜ、イエスさまはマリアとユダヤ人たちが泣いているのを見て、心に憤りを覚えたのでしょうか。一つの解釈は、イエスさまは嘆き悲しむマリアとユダヤ人たちとの不信仰に対して憤られたという解釈であります。私たちは前回、イエスさまが復活であり、命であることを学びましたけども、そのイエスさまの足もとにひれ伏しながら、過去だけに思いを向けて嘆き悲しむマリアとユダヤ人たちの不信仰にイエスさまは憤られたと言うのです。ユダヤ人たちは、マリアが墓に泣きに行くのだろうと思って来たのであり、イエスさまの弟子でもありませんから、彼らが過去にとらわれて絶望的に泣くのは分かる。しかし、それと同じように弟子であるマリアが嘆き悲しむのを見て、イエスさまは心に憤りを覚えられたのです。この所を読みまして、わたしが思い描くのは、キリスト教葬儀の場面であります。私たちはイエス・キリストの名による葬儀に何を求めて集うのでしょうか。愛する者を失った遺族と共に泣くために葬儀に集うのでしょうか。そうではないと思います。愛する者を失った遺族と共に復活であり、命であるイエス・キリストを礼拝するためであります。神を礼拝し、イエス・キリストにある復活の希望をもう一度確かめるために、私たちはイエス・キリストの名によって葬儀をするのです。しかし、このときのマリアにそのような信仰は見られないわけです。彼女はイエスさまを礼拝しながら、絶望的な悲しみの中にあったのです。もちろん、イエス・キリストを信じる者であっても、愛する者を失って悲しむことは当然です。愛する者の失った悲しみを十分に悲しむことはむしろ必要なことであり、大切なことであるとさえ言われます。しかし、私たちが死の力にとらわれて、絶望的な悲しみの中に座り込んでしまうならば、イエスさまは心に憤りを覚えられるのです。なぜなら、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われるお方でもあるからです。

 また33節で「興奮して」と訳されている言葉は、「騒がせる」、「動揺する」とも訳すことができます。第12章27節に、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこのときに来たのだ」というイエスさまの御言葉が記されていますが、ここで「騒ぐ」と訳されている言葉が、第11章33節で「興奮して」と訳されている言葉であります。なぜ、イエスさまは、マリアが泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのを見て、心を騒がせたのか。それは、このときイエスさまが御自分の死を明確に意識されたからではないかと思うのです。わたしがそのように考える一つの根拠は、第12章27節の「今、わたしは心騒ぐ」という言葉の前に、イエスさまが御自分の死をお語りになっているからです。第12章23節、24節にこう記されています。「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。このように、心騒ぐという言葉は、イエスさまの死と結びついているのです。また、このときイエスさまが御自分の死を明確に意識されたと考えるもう一つの理由は、その前の「心に憤りを覚えられ」たのは、マリアの不信仰だけではなく、マリアとユダヤ人たちを捕らえていた死そのものに対してであったと考えるからです。イエスさまが見ておられたのは泣いているマリアやユダヤ人たちだけではなくて、その悲しみをもたらした死そのものでありました。イエスさまは、その死を滅ぼすためにこれから御自分が死ぬことを明確に意識され、心を騒がせたのです。

 イエスさまは心に憤りを覚え、興奮して、「どこに葬ったのか」と問われましたけども、この所はもとの言葉を直訳すると「あなたがたは彼をどこに置いたのか」となります。イエスさまは弟子であるマリアと群衆であるユダヤ人たちをひとまとめにして、「あなたがたは彼をどこ葬ったのか」と尋ねられたのです。そして、福音書記者ヨハネは、マリアとユダヤ人たちをひとまとめにして、「彼らは、『主よ、来てご覧ください』と言った」と記すのです。ここに先程指摘したマリアの不信仰が暗示されているわけです。

 35節に、「イエスは涙を流された」と記されています。ここで「涙を流された」と訳されている言葉は、マリアやユダヤ人たちが泣いたというのとは別の言葉です。マリアやユダヤ人たちが泣いているというとき、それは声を出してわっと泣くことを意味しておりましたけども、イエスさまが涙を流されたというときは、瞳に涙が溢れて、こぼれ落ちるといった泣き方であります。なぜ、イエスさまはこのとき涙を流されたのでしょうか。涙の意味を問うなど野暮なことだと思われるかも知れませんが、やはりわたしはこのことを問わずにおれないと思います。ベタニアに住んでいたユダヤ人たちは、イエスさまが涙を流されたのを見て、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。これはイエスさまの涙に対する一つの解釈であります。そして、このようにイエスさまの涙を解釈する人が多いのではないかと思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。ユダヤ人たちは、イエスさまが涙を流されたのを見て、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。しかし、5節、6節には何と書いてあったでしょうか。5節、6節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と書いてあったのです。ユダヤ人たちイエスさまの涙を見て、その涙をラザロを愛していたしるしであると考えました。そして、私たちもしばしばそのようにイエスさまの涙を解釈するのです。しかし、果たしてそうなのでしょうか。もしそうならば、私たちは5節、6節をどのように理解すればよいのか。また、もしそうならば、私たちもユダヤ人たちのように、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにできなかったのか」と言いかねないのではないでしょうか。しかし、私たちはイエスさまが14節で、はっきり次のように言われたことを知っています。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」。このようにこれまでに記されていたイエスさま御言葉とユダヤ人たちの言葉を比べるとき、このユダヤ人たちの言葉は、イエスさまの御心を正しく解釈していないことが分かるのです。ですから、わたしはイエスさまの涙を、イエスさまがラザロを愛しておられたしるしと解釈するのはどうも違うのではないかと思っているのです。わたしとしてはイエスさまが涙を流されたのは、ラザロの死に御自分の死を重ねられたからであったと思うのです。心に憤りを覚え、心を騒がせたイエスさまはラザロの死に、これから死なねばならない御自分の死を重ねて涙を流されたのであります。なぜなら、イエスさまはラザロに死んでも生きる永遠の命を与えるために、十字架に上げられねばならないからです。

 ユダヤ人たちは、イエスさまの涙に、ラザロを愛しておられたことのしるしを見ました。しかし聖書は、イエス・キリストの十字架こそが、ラザロへの、そして私たちへの愛のしるしであると語るのです。イエスさまは第15章13節、14節で次のように仰せになりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。イエスさまの私たちへの愛のしるし、それは涙ではなく、涙の向こうに見据えておられる十字架であります。そして、この十字架こそ、私たちに対する神の愛のしるしでもあったのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す