復活であり、命であるイエス 2010年5月02日(日曜 朝の礼拝)
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復活であり、命であるイエス
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 11章17節~27節
聖書の言葉
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」ヨハネによる福音書 11章17節~27節
メッセージ
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はじめに.
ヨハネによる福音書の第11章に記されているイエスさまがラザロを生き返らせた話を学んでおります。前回は16節までお話ししましたので、今朝は17節から27節までを中心にしてお話しをいたします。
1.イエスが行って御覧になると
17節から19節までをお読みいたします。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
イエスさまは7節で、「もう一度、ユダヤへ行こう」と言われ、さらに11節では「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われたのでありますが、17節にはイエスさまがヨルダン川の向こう側からラザロの出身の村ベタニアに到着したことが記されております。前回も申しましたように、イエスさまがおられたヨルダン川の向こう側からユダヤのベタニアまではおよそ一日の道のりでありました。ここに「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」とあります。ユダヤでは死んでから八時間以内に墓に葬られたと言いますから、ラザロが死んだのは四日前となります。この「四日」を遡りますと、四日目はイエスさまがヨルダン川の向こう側からユダヤのベタニアに移動した日にあたります。そして、三日目、二日目は、イエスさまがヨルダン川の向こう側に滞在された二日間にあたります。さらに一日目はマルタとマリアによって遣わされた人がユダヤのベタニアからヨルダン川の向こう側に移動した日にあたります。このように考えますと、姉妹たちがイエスさまのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた時には、すでにラザロは死んでいたと考えられるのです。ラザロは、姉妹たちがイエスさまのもとに人を遣わしたその日のうちに死んでしまったのです。イエスさまはそのことを神の子の力によってご存じのうえで、なお二日同じ所に滞在され、そして生き返る望みのないと言われていた四日目にユダヤのベタニアに向けて出発したのです。
17節に「行って御覧になる」とありますが、元の言葉を見ますと、「行く」という動詞と「見る」という動詞が別々に記されております。そして、「見る」という動詞の目的語は「彼」ラザロであるのです。17節には、イエスさまは行って、墓に葬られて既に四日もたっていた彼、ラザロを見た」と記されているのです。もちろんこれは肉の目において見たということではありません。なぜなら、イエスさまは34節で「どこに葬ったのか」と問われるからです。また、38節にありますように「墓は洞穴で、石でふさがれていた」からであります。新共同訳聖書の翻訳だけを読んでも、17節は実はよく分かりません。イエスさまが御覧になったと書いてあるけども、何を御覧になったかは書いてないのです。けれども、元の言葉を見ますと、イエスさまが彼、ラザロを御覧になったと書いてあるのです。イエスさまは神の子のまなざしをもって墓に葬られて既に四日もたっていたラザロを見ておられたのです。
18節、19節に「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とあります。「十五スタディオン」とありますけども、聖書巻末の「度量衡」によれば、1スタディオンは185メートルと記されております。よってベタニアとエルサレムは三キロメートル弱しか離れていなかったわけです。時間にすれば30分ほどの距離しか離れておりませんでした。そのようなベタニアに行くことは、弟子たちが心配しましたようにイエスさまの身に死を招く恐れがあったのです。現にマルタとマリアのところに来ていた多くのユダヤ人の中には、エルサレムから来たユダヤ人もいたようであります。このようにイエスさまは御自分に迫る危険をいとわず、ユダヤのベタニアへと来られたのです。
2.あなたが神にお願いになることは
20節から22節までをお読みいたします。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスさまが来られたとの知らせを受けて、迎えに行ったのはマルタでありました。聖書からはどちらが姉でどちらが妹であるかは分かりませんけども、多くの人がマルタを姉、マリアを妹と考えております。また、死んだラザロも兄であったか、弟であったか分かりませんけども、わたしとしては弟ではなかったかと思っております。両親の名前は出て来ませんので、もうすでに亡くなっていたのかも知れません。そうすると、マルタ、マリア、ラザロという三兄弟で生活をしており、そして四日前に弟のラザロが死んでしまったことになるわけです。このような姉妹たちを慰めるために多くのユダヤ人たちが来ていたわけですが、彼らはどのようにして姉妹たちを慰めたのでしょうか。それは彼女たちと共に泣くことであったのです。マルタがイエスさまを迎えに行ったのに対して、「マリアは家の中で座っていた」とありますけども、マリアは家の中に座って、喪に服していたのです。
迎えに行ったマルタはイエスさまにこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに」。このマルタの言葉は、彼女がイエスさまの到着を今か今かと待ちわびていたことを伺わせます。イエスさまが多くの病人を癒されたことはマルタも知っておりましたから、そのイエスさまがラザロの傍らにいてくださったら、ラザロは死ぬことがなかった。どうしてイエスさま、もっと早く来てくださらなかったのですか。そのような非難の思い、無念の思いをここに読み取ることができるのです。このような思いは、私たちにもよく分かるのではないかと思います。愛する者が死んでしまった。死に至らなくとも、愛する者が重い病を担って苦しんでいる。そのようなとき、私たちはイエスさまが、ここにいてくださって病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえも生き返らせてくださればよいのにと思うのです。しかし、マルタの言葉はそこで終わりませんでした。マルタは続けてこう言うのです。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。ここでマルタが知っていることは、イエスさまの願うことを神さまは拒まれずに、何でも与えてくださるということです。このマルタの言葉を理解するための助けとなるのは、第9章に出てきた生まれつきの盲人であった人の言葉であります。彼はユダヤ人たちに対して第9章30節以下で次のように述べておりました。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目をあけてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
ここで生まれつきの盲人であった人はイエスさまが自分の目を開けることができたのは、イエスさまの祈りを神さまがかなえてくださったからだという前提で話をしております。それゆえ、生まれつきの盲人の目を開けることができたイエスさまは、神をあがめ、その御心を行う人であり、神のもとから来られた方であると結論するのです。このような信仰のゆえに、今朝の御言葉にでてきますマルタも、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言ったのです。この言葉によって、マルタが墓に葬られて既に四日もたっていたラザロをイエスさまに生き返らせていただこうと願っていたかどうかは分かりません。といいますのも、39節で、イエスさまが「その石を取りのけなさい」と言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と拒もうとするからです。しかしはっきり言えることは、このマルタの言葉には、ラザロが死んで墓に葬られてから既に四日たったこの時においても、イエスさまは最善をなしてくださるという信仰が言い表されているということであります。前回、3節の「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」という御言葉についてお話ししたとき、ここにはイエスさまに「すぐに来てください」という願いの言葉はない。事実を事実として告げる言葉だけが記されていると申しました。そして、それはイエスさまが最善のことをしてくださるに違いないという信仰のゆえであったのです。それと同じように、マルタはイエスさまが自分たちの思いを越えて最善をなしてくださることを今でも信じてるのです。このマルタの信仰はイエスさまの祈りが必ずきかれることを信じる信仰であります。現代の私たちに当てはめるならば、イエスさまの御名による祈りが必ず聞かれることを信じる信仰であると言えるのです。なぜなら、イエスさまは第14章12節以下で次のように仰せになっているからです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
わたしは先程、21節のマルタの言葉、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉は、私たちもしばしばそのように思うことがあると申しました。しかし、その後はどうでしょうか。私たちはイエスさまの御名によってささげる祈りを神がかなえてくださることを承知して祈っているでしょうか。もちろん、イエスさまの御名によってささげられる私たちの願いが必ずしもその通りにきかれるわけではありません。私たちがイエスさまの御名によって病の癒しを願えば必ずその病は癒されるというわけではありません。それはなぜかと言えば、病がイエスさまの御心として、神の栄光をあらわすために与えられるということがあるからです。しかし、一つだけ必ず聞かれる祈りがあるとすれば、それは次のような祈りであります。「主イエスさま、あなたの御心をなしてください。イエスさまの御名前によってお祈りします。アーメン」。そのように祈りつつ、病も、そして死さえもイエスさまの御手から受け取るのが私たちキリスト者の信仰であると思うのです。
当然のことでありますけども、イエス・キリストを信じているから病気にならないということはありません。イエス・キリストを信じている人も信じていない人と同じ病気になります。しかし、そこには大きな違いがあるのです。それは私たちキリスト者は、その病を祈りつつ、イエス・キリストの御手から受け取るということです。そして、そのとき私たちは自分の病が、また兄弟姉妹の病が、決して死で終わらないことを信じることができるのです。その病が神の栄光のためであることを信じることができるのです。
3.わたしは復活であり、命である
23節から27節までをお読みいたします。
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
イエスさまはマルタの言葉を受けて、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタはこれを慰めの言葉と受け取ったのでしょう。彼女は「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。これは旧約聖書のダニエル書第12章などに見られる、当時のユダヤ人たちが持っていた信仰であります。しかし、このような復活信仰は愛する者を失った深い悲しみの中にあるマルタを慰めるものとはならなかったようです。彼女にとってそのような復活信仰は今を生きる力を与えてくれるものではなかったようであります。そのようなマルタに、イエスさまは言われるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
「わたしは復活であり、命である」とありますけども、この所は「わたしが復活であり、わたしが命である」と翻訳した方が分かりやすいかも知れません。はるかかなたにぼんやりと復活や命を見ていたマルタに対して、イエスさまはあなたの目の前にいる「わたしが復活であり、わたしが命である」と言われるのです。ある研究者は、この復活と命の順番に着目して、これはひっくり返すことはできないと述べております。なぜなら、イエスさまの命はただ復活を通して明らかとされるからです。イエスさまは、御自分が復活であることを先ず語ることによって、続く「命」が死に勝利する「永遠の命」であることを私たちに教えてくださっているのです。さらに、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタと私たちをさらなる信仰へと招いてくださるのです。
26節に「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とありますけども、ここで「決して死ぬことはない」と訳されている言葉は、直訳すると「永遠に死ぬことはない」となります。キリスト者であっても世の人々と同じように肉体の死を死にます。けれども、キリスト者は永遠の死を死ぬことは決してないのです。なぜなら、復活であり、命であるイエスさまが私たちの手をしっかりと握っていてくださるからです。この地上において、復活であり、命であるイエスさまとの交わりが始まっており、私たちはすでに復活の命、永遠の命に生かされているからです。ですから、イエスさまは「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われたのです。この説教の始めに、イエスさまが、墓に葬られて既に四日もたっていたラザロを御覧になったと申しました。イエスさまは墓の中に横たわるラザロの遺体を神の子のまなざしをもって見ておられた。それはなぜかと言えば、復活であり、命であるイエスさまを信じる者は、死んでも生きるからです。それゆえ、イエスさまはラザロの死を眠りと言われたのです。永遠の眠りではありません。復活であり、命であるイエス・キリストにあって、死はやがて目覚めるひとときの眠りとなったのです。
イエスさまの問いかけに対して、マルタは次のように答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。これはまことに堂々とした信仰告白であります。マタイによる福音書の第16章にペトロの信仰の告白が記されておりますけども、それに匹敵するものであります。愛する者を失った深い悲しみの中にあったマルタがここではしっかりと自分の足で立ち、イエスさまへの信仰を自分の口で言い表すのです。このとき、マルタにとって復活ははるかかなたのぼやけたものではもはやなかったと思います。彼女はイエスさまとの対話を通して、生き生きとした復活の希望を持つことができたのです。そのようにしてイエスさまから本当の慰めをいただくことができたのです。復活であり、命である主イエス・キリストだけが、私たちを本当に慰め、力づけてくださるださるお方であるのです。