死で終わらない病 2010年4月25日(日曜 朝の礼拝)

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死で終わらない病

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。ヨハネによる福音書 11章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝からヨハネによる福音書の第11章に入ります。第11章はイエスさまがラザロを生き返らせたことを伝えておりますけども、今朝はその1節から16節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.この病気は死で終わるものではない

 1節から4節までをお読みいたします。

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 聖書は「ある病人がいた」と語り始めます。そして、その病人が「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」と記すのです。マルタとマリアという姉妹は、ルカによる福音書の第10章にも登場しておりました。そこにはマルタとマリアがイエスさま御一行を迎え入れて、もてなしたことが記されておりました。またラザロという名前もルカによる福音書の第16章でイエスさまが語られたたとえ話の中に出てきました。今朝の御言葉に出てきます病人であるラザロと、ルカによる福音書第16章のたとえ話に出てくるラザロは別人でありますけども、同じラザロという名前を持つことは興味深いことであります。ちなみにラザロという名前は「神は助けられた」という意味であります。ともかく、ベタニアにマルタとマリアとラザロという兄弟が住んでおり、以前からイエスさまの弟子であったようであります。2節に「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と記されておりますが、そのことは第12章3節に記されております。福音書記者ヨハネはそれをわざわざこの所で言及しているのです。マルタとマリアとラザロがおりましたベタニアは、18節にありますように「エルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった」ベタニアであります。このようにわざわざ言いますのも、イエスさまがおられる所もベタニアであったからです。第10章40節に「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」とありました。そして、第1章28節を見ますと、「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」と記されています。紛らわしいのですが、イエスさまがおられる所もベタニアであり、マルタとマリアとラザロがいた所もベタニアであったのです。同じ地名ではありますけども、その距離はおよそ60キロメートル、一日分の距離であったと言われています。姉妹たちはそのベタニアにいるイエスさまのもとへ人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。私たちはここからイエスさまとマルタたちがどれほど親しい交わりを持っていたかが分かります。ここでは「ラザロ」という名前ではなく、「あなたの愛しておられる者」と言われています。マルタとマリアから「あなたの愛しておられる者」と聞けば、ラザロを思い起こすほどに、そこには親しい交わりがあったのです。また、ここにはイエスさまにすぐに来て欲しいという願いの言葉がありません。ただ事実を事実として伝える言葉だけであります。そしてそこにはイエスさまが主として最善のことをしてくださるに違いないという彼女たちの信仰があったのです。イエスさまはそれを聞いて、弟子たちにこう言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。

 イエスさまは「主よ、あなたの愛する者が病気なのです」という言葉を受けて、「この病気は死で終わるものではない」と言われました。これはもとの言葉を直訳しますと「この病気は死に至るものではない」となります。19世紀のデンマークの思想家キルケゴールは、この所にちなんで『死にいたる病』という書物を著しました。キルケゴールはイエスさまの「この病気は死に至るものではない」という言葉をひっくり返して、「死に至る病とは絶望のことである」と言ったのであります。

 さて、イエスさまは「この病気は死に至るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と仰せになりましたけども、これは第9章3節のイエスさまの御言葉と似ております。弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねたのに対して、イエスさまはこうお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。生まれつき目が見えない人を通して神の業が現わされたように、病の中にあるラザロを通しても神の栄光が現されるとイエスさまは言われたのです。病という望ましいとは思えないことを通しても、イエスさまは神の栄光をあらわしてくださるお方なのです。

2.昼間は十二時間あるではないか

 5節から10節までをお読みいたします。

 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

 5節、6節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記されています。これを読むとおそらく多くの方が違和感を覚えるのではないでしょうか。イエスさまがマルタとマリアとラザロを愛しておられたならば、すぐにでもエルサレムに近いベタニアへ行ってもよさそうなものだと私たちは考えるからであります。しかし、聖書は「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記した後で、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記すのです。そして三日目になってようやくイエスさまは弟子たちに、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われたのであります。イエスさまはマリアとマルタとラザロがいる村の「ベタニア」ではなくて、それよりも広い地域を表す「ユダヤ」という言葉を用いられました。ですから弟子たちは、「もう一度、ユダヤに行こう」というイエスさまの言葉をラザロの病気のことと結びつけて考えることができなかったのかも知れません。むしろ、弟子たちがユダヤと聞いて思い起こしたことは、イエスさまを石で打ち殺そうとしたユダヤ人たちの姿であありました。そして、このことはイエスさまの弟子たちにとって人ごとではありませんでした。自分たちの先生であるイエスさまがもし神を冒涜する者として石で打ち殺されることがあれば、自分たちの身にも同じことが起こりかねないからです。8節の「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」という言葉は、イエスさまの身を案じる言葉であると同時に彼ら自身の身を案ずる言葉でもあるのです。そのような弟子たちにイエスさまはこう仰せになりました。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。

 「昼間は十二時間あるではないか」。このイエスさまの御言葉は、ユダヤ人が夏でも冬でも日の出ている時間を12等分していたことを前提としています。弟子たちが「ユダヤに行くなどとんでもない。そんな余裕などありません」と言うのに対して、イエスさまは「昼間は十二時間あるではないか」「時間はまだたっぷりとあるではないか」と言われたのです。続けてイエスさまは「昼のうちにあるけば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われました。ここでの「この世の光」とは太陽ばかりではなくて、イエスさまご自身を指しております。第8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われましたけども、イエス・キリストこそ世の光であるのです。この所は、ユダヤ人が人の目の中に入った光はその人に留まり、その人を照らすと考えていたことを前提としております。つまり、イエスさまは弟子たちが世の光である自分を見ているならば、つまずくことはない。しかし、世の光である自分を見ていないのであれば、その人は夜歩く人のようにつまずくと言われたのです。私たちは忙しく、危険の多い現代社会に生きているのでありますが、イエスさまはそのような私たちにも「昼間は十二時間あるではないか。この世の光であるわたしを見つめているならば、あなたはつまずくことはない」と言われるのであります。

3.あなたがたにとってよかった

 11節から16節までをお読みいたします。

 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 イエスさまはユダヤに行こうとされる目的を語られます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。このラザロは、マルタとマリアが人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えた人のことであります。3節で「愛しておられる」と訳されているギリシア語はフィレオーであり、10節で「友」と訳されているギリシア語はフィロスであります。「友」フィロスは、「愛する」フィレオーを語源とする言葉であり、「愛する者」とも訳すことができます。イエスさまの愛する者は、弟子たちにとっても愛する者であったのです。それゆえイエスさまはラザロを「わたしたちの友」と呼ばれたのです。このイエスさまの御言葉に対して弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。眠りは回復をもたらす良い兆候だと弟子たちは考えたのです。わたしは弟子たちがただの眠りについて話されたと思ったのも無理はなかったと思います。なぜなら、イエスさまはラザロが病気であることを伝え聞いたとき、「この病気は死に至るものではない」と言われたからです。そして、すぐにラザロのもとに駆けつけることもなく、二日間も同じ所に滞在されたからです。そのようなイエスさまから「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われたとき、弟子たちがそれをただ眠りについて話されたと思っても無理はなかったのではないかと思います。しかし、そのような弟子たちにイエスさまははっきりとこう言われたのです。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」。

 ここに「あなたがたにとってよかった」とありますが、これは元の言葉を直訳しますと「あなたがたのゆえにわたしは喜ぶ」となります。それゆえ新改訳聖書はこのイエスさまの御言葉を次のように翻訳しています。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう」。イエスさまは、弟子たちのために、弟子たちが信じるようになるために、御自分がラザロの傍らにいなかったことを喜ぶと言われたのです。

 今日は読みませんでしたけども、17節に「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と記されております。イエスさまが滞在していたヨルダンの向こう側のベタニアからラザロの住んでいたエルサレムに近いベタニアは一日分の距離であったと言われますから、この「四日」を遡りますと四日目はイエスさま御一行が移動した日となります。三日目、二日目はイエスさまがヨルダンの向こう側のベタニアに留まられた日となります。そして一日目はマルタとマリアから遣わされた人が移動した日にあたるのです。このように遡って考えますと、わたしが推測しますに、マルタとマリアから遣わされた人がイエスさまに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」と伝えたときには、もうラザロは死んでいたのではないでしょうか。マルタとマリアが人を遣わしてからしばらくして、ラザロは死んでしまったと考えられるのです。そして、イエスさまはそれをご存じのうえで、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と言われたのではないかと思うのです。そのように考えますと、マルタとマリアとラザロを愛していたイエスさまが、なお二日同じ所に滞在された理由が分かってきます。イエスさまはすでにラザロが死んだことをご存じのうえで、二日間同じ所に滞在されたのです。それによって、ラザロが墓に葬られて既に四日もたってからベタニアを訪れることを良しとされたのです。墓に葬られて四日も経つとその遺体はどうなるのでしょうか。39節で、死んだラザロの姉妹マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言っているように、その遺体は腐敗し始めるのです。ユダヤ人たちの俗信によれば、死んだ人の魂は三日間は遺体の周りをうろついても、四日目には陰府に行くと信じられておりました。ですから、墓に葬られて既に四日たっていたラザロは完全に死んでいたわけです。人間的に考えるならば生き返る可能性は1パーセントもない、完全な死人であったのです。

 イエスさまが死んでいた人を生き返らせるというお話しは、ヨハネによる福音書にはラザロのお話しだけでありますけども、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を見ますと、イエスさまが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたことが記されています。イエスさまは息を引き取ったばかりの娘の手を取り、「タリタ、クム」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われ生き返らせたのでありました。これは驚くべき奇跡でありますけども、意地の悪い見方をすれば、死んでからすぐのことであって、まだ娘は昏睡状態にあったのではないかと言うこともできます。ルカによる福音書だけが記しているナインという町のやもめの一人息子を生き返らせるというお話しも、ひつぎが担ぎ出されるところ、墓に葬られる前でありましたから、これも意地の悪い見方をすれば昏睡状態にあっただけだと言うこともできましょう。しかし、今朝の御言葉が伝えるラザロの場合はそのように言うことはできません。ラザロは墓に葬られて既に四日も経っており、その遺体は腐敗し始めていたのです。そのようなラザロを生き返らせることができるお方がいるならば、その方こそ、生と死を御支配なさる神その方であられるのです。イエスさまがラザロを生き返らせるという物語はまさにそのことを私たちに教えようとしているです。それゆえ、イエスさまは、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるおうになるためである」と言われたのです。

 イエスさまの「さあ、彼のところへ行こう」という言葉を受けて、ディディモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。このトマスの言葉は勇ましいようでありますけども、悲壮感に満ちた言葉であります。トマスは「ユダヤ人たちがついこの間もイエスさまを石で打ち殺そうとした」ことにまだとらわれています。そして、「わたしたちも先生と一緒に死のうではないか」と言うのです。このトマスの言葉は、弟子たちのイエスさまへの無理解を見事に暴露しております。彼らは世の光であるイエスさまが共に歩んでくださっているにも関わらず、光を持たない夜のように歩んでいるのです。次週詳しく学ぶことになりますが、25節に「わたしは復活であり、命である」とイエスさまの御言葉が記されております。復活であり、命であるイエスさまが共にいてくださるのに、彼らは死を見つめ、死の力のとりことなってしまっているのです。そして、それはトマスだけではない、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。聖霊と御言葉においてイエスさまが共にいてくださるのに、イエスさまにあって全能の神さまが私たちの父となってくださっているのに、私たちは絶望するのです。そして、キルケゴールはその絶望こそ、私たちの罪であり、死に至る病であると語ったのであります。トマスは復活であり命である方が共に歩んでくださっているにも関わらず、死の力にとらわれておりました。そのように私たちもすべてが可能であるお方と共に歩みながら、しばしば絶望にとらわれるのです。世の光であるイエスさまと共に歩みながら、夜歩いている人のようにつまずいてしまうのです。しかし、それは何度も申しますように不信仰という罪なのです。

 私たちが病を得て臨終の床にありましても、復活であり、命であるイエス・キリストをしっかりと見つめているならば、私たちは決して死に至ることはありません。けれども、私たちがいくら健康でありましても、復活であり、命であるイエス・キリストから目をそらしているならば、私たちは死に至るのです。そして、イエス・キリストは誰も御自分から目をそらすことがないように、ラザロを起こしに行くのであります。

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