わたしと父は一つ 2010年4月11日(日曜 朝の礼拝)
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わたしと父は一つ
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 10章22節~30節
聖書の言葉
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」ヨハネによる福音書 10章22節~30節
メッセージ
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はじめに.
受難週、イースターと、しばらくヨハネによる福音書から離れておりましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を御一緒に読み進めていきたいと思います。
1.神殿奉献記念祭
22節に、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と記されています。新共同訳聖書が「神殿奉献記念祭」と訳している言葉を新改訳聖書は「宮きよめの祭り」と訳しています。この祭りの起源については実は旧約聖書には記されておりません。ではどこに記されているのかと申しますと、旧約聖書と新約聖書との間の中間時代に記された、いわゆる『旧約聖書続編』に記されているのです。新共同訳聖書を出版している日本聖書協会では、旧約聖書続編つきの聖書も販売しております。また、旧約聖書続編がついていない聖書でも、その序文の2頁の3段落目に、「旧約聖書続編」について次のように記しています。
旧約続編は従来、第二正典、アポクリファ、外典などと呼ばれてきたもので、紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。それらは、現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていませんが、初期のキリスト教徒は、これをギリシア語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継ぎました。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していません。
そもそも新共同訳聖書に、なぜ旧約聖書続編つきのものがあるのかと言えば、新共同訳聖書がプロテスタントとカトリック両教会の共同事業として公にされたものであるからです。「この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが」とありましたけども、旧約聖書続編の目次の前のページには、「以下の13書は、教会によってはアポクリファないし外典としている。カトリック教会においては、最初の10書を第二正典としている」と記されています。旧約聖書続編はカトリック教会においては第二正典であり、聖書と同じように霊感された神の言葉として重んじられているのです(『カトリック教会のカテキズム』38頁)。
では「プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していません」と言われるプロテスタントの教会である私たちはどうでしょうか。私たち日本キリスト改革派教会が前文を付して採用しているウェストミンスター信仰基準は、その信仰告白の「第一章 聖書について」の三で、次のように告白しています。
普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の正経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたり使用されてはならない。
カトリック教会が旧約聖書続編を第二正典と呼び、聖書と同じ霊感された神の言葉として重んじるのに対して、宗教改革の総決算とも言われるウェストミンスター信仰告白は、旧約聖書続編は、神の霊感によるものではないので、正典の一部ではなく、教会内では何の権威もない。ほかの人間的な文書と同じであると言い表しています。そして、これが私たちの教会の「旧約聖書続編」に対する立場であるのです。それでは、「旧約聖書続編」を読む価値は何もないかと言えば、そうではないのです。日本キリスト改革派教会創立四十周年記念宣言である「信仰の宣言 聖書について」は、旧約外典を学ぶ益について次のように記しています。
しかし、旧約外典は、ほかの人間的な文書と同様の使用には耐えうるので、たとえば、旧約と新約との中間時代の空白を埋める歴史的資料としては、益がある。
このように、旧約聖書続編は霊感された生ける神の言葉ではありませんが、中間時代を知るための歴史的資料としては学ぶ益があるのです。そのことをよく踏まえたうえで、旧約聖書続編のマカバイ記一第4章36節から59節までをお読みいたします。
ユダと兄弟たちは言った。「見よ、我らの敵は粉砕された。都に上り、聖所を清め、これを新たに奉献しよう。」そこで全軍が集結し、シオンの山を目指して上って行った。彼らは荒れ果てた聖所を見、汚された祭壇、焼け落ちた門、雑木林あるいは山の中のように草むした中庭、崩れ落ちた祭司部屋を見て、衣服を裂き、激しく胸を打ち、灰をかぶり、地面に顔を伏せ、合図のラッパを吹き鳴らし、天に向かって叫んだ。それからユダは兵たちに、聖所を清め終わるまで、要塞の中の者たちを相手に戦うよう命じ、律法に忠実で、とがめられるところのない祭司たちを選んだ。祭司たちは聖所を清め、汚れの石を不浄の場所に移した。それから汚されてしまった焼き尽くす献げ物のための祭壇の処置をめぐって協議し、それを引き倒すことが最善ということになった。異教徒がそれを汚したので、そのことで自分たちが非難されないためである。こうして彼らはその祭壇を引き倒した。そしてこの石を神殿の丘の適当な場所に置き、預言者が現れて、この石について指示を与えてくれるまで、そこに放置することにした。そして祭司たちは、律法に従って、自然のままの石を持って来て、以前のものにならって新しい祭壇を築いた。こうして、聖所および神殿の内部を修復し、中庭を清めた。また聖なる祭具類を新しくし、燭台、香壇、供えのパンの机を神殿に運び入れ、香壇には香をたき、燭台には火をともして神殿内部を照らした。また机には供えのパンを置き、垂れ幕をたらした。かくしてなすべきことはすべてなし終えた。
第百四十八年の第九の月-キスレウの月-の二十五日に、彼らは朝早く起き、焼き尽くす献げ物のために新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを供えた。異教徒が祭壇を汚したのと同じ日、同じ時に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて、その日に祭壇を新たに奉献した。
民は皆、地に顔を伏して拝み、彼らを正しく導いてくださった方を天に向かってたたえた。こうして祭壇の奉献を八日にわたって祝い、喜びをもって焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物と感謝の献げ物のいけにえを屠った。彼らはまた神殿の正面を黄金の冠と小楯で飾り、門と祭司部屋を再建し、戸を取り付けた。民の間に大きな喜びがあふれた。こうして異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。
ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした。
ここに、今朝の御言葉の神殿奉献記念祭の起源が記されています。旧約聖書はユダヤ人がバビロン捕囚から解放されて、神殿が再建された所で終わっておりますが、その後ユダヤを支配したのはギリシア帝国でありました。マカバイ記一はそのギリシア帝国の王アンティオコス・エピファネスによる迫害に対して、マカバイと呼ばれるユダとその兄弟たちが宗教的・政治的自由のために戦った歴史を記しております。ギリシア帝国の王アンティオコス・エピファネスは、ユダヤ人に律法を捨てさせ、他国人の慣習に従って歩むことを死刑をもって強要しました。また、神殿の祭壇の上に、「憎むべき破壊者」であるゼウスの像を置き、いけにえをささげたのです。マカバイと呼ばれるユダは、このようなアンティオコス・エピファネスの圧政に対して、軍事力をもって抵抗し、紀元前164年にエルサレム神殿を取り戻し、これを清めて、新たに奉献したのです。それゆえ、神殿奉献記念祭は、宮清めの祭りとも呼ばれるわけです。
2.もしメシアなら、はっきりそう言いなさい
神殿奉献記念祭について長くお話ししましたけども、それは今朝の御言葉にあるユダヤ人たちのイエスさまに対する問いの背景となっているからです。23節、24節をお読みいたします。
イエスは神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
ここでユダヤ人たちは、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と言っておりますけども、第7章から第10章21節までには秋の祭りである仮庵祭の出来事が記されておりました。今朝の御言葉は冬の神殿奉献記念祭のことでありますから、イエスさまが何者であるかについての議論は2か月、3か月と続いていたようです。イエスさまについてユダヤ人たちの間に意見の対立が続いていたわけです。そこで、ユダヤ人たちはイエスさまを取り囲んで、かつてマカバイと呼ばれるユダがエルサレム神殿を清め、奉献したことを祝うこの祭りのときに、もしメシアなら、はっきり言いなさいと迫ったわけです。神殿奉献記念祭を祝うユダヤ人たちが思い描くメシア、救い主とは軍隊を組織して武力によってユダヤの国をギリシア帝国から開放したマカバイたちのような人物であります。わたしはこれまでに、当時のユダヤ人たちは武力によってローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるメシア、救い主を待ち望んでいたと申してきましたが、それはかつてマカバイたちが軍事力によってギリシア帝国からユダヤの国を独立させた記憶によるものであったのです。福音書記者ヨハネは、神殿奉献記念祭が行われたときに、ユダヤ人たちが「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と記すことによって、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアは軍事力をもってローマ帝国からのユダヤの国を開放する救い主であったことを教えているのです。またそれゆえに、イエスさまは「もしメシアならはっきりそう言いなさい」というユダヤ人たちの問いに、イエスかノーかで答えることができないのであります。
ユダヤ人たちの「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉は、6節の「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」と対応する言葉であります。つまり、たとえではなくて、はっきりと言いなさいとユダヤ人たちはイエスさまを取り囲んで迫ったのです。それに対して、イエスさまは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と言われるわけですが、このユダヤ人とイエスさまの問答は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書における最高法院での裁判を思い起こさせるものであります。特に似ているのはルカによる福音書が描く最高法院での尋問の場面です。ルカによる福音書第22章66節、67節をお読みいたします。
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。」
このように今朝の御言葉は、共観福音書が記すところの最高法院での尋問と重ねて読むことができるのです。イエスさまを取り囲んだユダヤ人たちは、ユダヤの指導者たちでありまして、24節の「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉は指導者たちからの尋問であり、25節以下のイエスさまの答えはそれに対する答弁であると読むことができるのです。いずれにしても、ヨハネによる福音書においてユダヤ人たちが直接イエスさまにメシアかどうかを問うているのはここだけであります。そのことを心に留めて25節以下のイエスさまの御言葉に耳を傾けたいと思います。
3.わたしと父とは一つである
25節から30節までをお読みします。
イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
イエスさまは「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている」と言われましたが、ここでの「業」はいわゆる奇跡だけを言うのではなくて、イエスさまの御言葉を含むものであります。ですから、イエスさまは続けて、「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言われたのです。イエスさまが父の名によって行う業とは、言葉をも含むイエスさまの啓示の働き全体を指しているのです。イエスさまは御自分が父の名によって行う業をユダヤ人たちが見ても信じないのは、わたしの羊ではないからであると言われました。このイエスさまの御言葉について、ある説教者は興味深いことを言っております。ユダヤ人たちが神の声を聞いても聞き分けることができないのは、神に代わるものを自らの神として、それに聞き従おうとしているからだと言うのです。私たちはイエスさまの「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」という言葉を聞くと、神さまがイエスさまの羊かどうかを決められるのだから、その人にはどうしようもないことのように思うのではないでしょうか。しかし、ある説教者が言うには、イエスさまの御言葉に聞く従うことができないのは、イエスさま以外のものを自分の主人としてそれに聞き従っているからだと言うのであります。そのことを考えますとき、このイエスさまの御言葉は、ユダヤ人たちを突き放す言葉ではなくて、「わたしを羊飼いとして迎え入れなさい」というイエスさまの招きの言葉であると読むことができるのです。そして、イエスさまは御自分に従う羊たちに永遠の命を与えることを約束してくださるのです。イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言われました。ここで「彼らは決して滅びず」とありますが、これはもとの言葉を直訳すると「彼らは永遠に滅びず」となります。イエスさまを信じるキリスト者であっても、誰もが死を迎えます。けれども、それは永遠の滅びではありません。なぜなら、私たちの命は御自分のうちに命をもっておられるイエス・キリストの御手のうちにあるからです。ここで「奪う」という言葉が出て来ますけども、これは12節の「狼は羊を奪い、また追い散らす」の「奪う」と同じ言葉です。命を捨てる権能とそれを再び受ける権能を持つイエスさまが私たちの羊飼いである以上、だれも私たちをイエスさまの手から奪うことはできないのであります。
29節に、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」とありますが、この所は写本によって少し本文が異なっております。例えば新改訳聖書を見ると「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です」と記されています。新改訳聖書では、「わたしに彼らをお与えになった父がすべてにまさって偉大である」と記されているのです。確かに、この本文ですと、「だれも父の手から奪うことはできない」という文とスムーズに繋がります。また、イエスさまが、すべてにまさって偉大な方、すなわち神さまを父と呼び、御自分を同一視されたゆえに、ユダヤ人たちから石で打ち殺されそうになったことともスムーズに繋がります。けれども、新共同訳聖書が採用している本文にも大切なことが教えられていると思いますので、今朝は最後にこの所からお話しをして終わりたいと思います。
イエスさまは、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大である」と仰せになりました。「わたしの父がわたしにくださったもの」とは、イエスさまの羊である私たち一人一人のことであります。イエスさまは御自分に聞き従う私たちを、すべてのものより偉大であると言ってくださるのです。このようなイエスさまの御言葉を聞くと、多くの人が思い起こすのは旧約聖書のイザヤ書第43章の「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という御言葉であると思います。イザヤ書の第43章1節から7節までをお読みいたします。
ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の身代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。
4節に、「わたしの目にあなた価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え」とありますけども、神さまは私たちを価高く、貴い者と見なして、私たちを愛し、私たちの身代わりとして愛する御子を人としてこの地上に遣わしてくださったのであります。また、御父から遣わされたイエスさまも、私たちを価高く、貴い者と見なして、私たちを愛し、私たちの身代わりとして御自分の命を捨ててくださったのです。イエスさまは、「わたしと父とは一つである」と言われましたけども、私たちをすべてのものより偉大であると見なしてくださる点において、イエスさまと父なる神は同じであられるのです。そして、そのようなイエスさまと御父の御手に私たちの命が握られているがゆえに、だれもイエスさまと御父との交わりから私たちを奪うことはできないのです。イエスさまの羊である私たちはイエスさまの御手と御父の御手によって、守られているわけですね。私たちはそのイエスさまと御父の愛を、十字架と復活を通してはっきりと示されたのです。イザヤ書の「あなたは、わたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という主の御言葉が、私たち一人一人に向けられていることを私たちは今朝はっきりと聞き取りたいと願います。