イエスは良い羊飼い 2010年3月14日(日曜 朝の礼拝)
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イエスは良い羊飼い
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 10章7節~21節
聖書の言葉
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」ヨハネによる福音書 10章7節~21節
メッセージ
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はじめに.
先程はヨハネによる福音書第10章7節から21節までを読んでいただきました。7節から18節までにはイエスさまの講話、説教が記されておりますけども、それは1節から5節までに記されているたとえ話を受けてのものであります。イエスさまはファリサイ派の人々に次のようなたとえを話されました。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。
イエスさまは、このたとえ話の言葉や概念を用いて御自分が何者であるかを7節以下において示されたのです。すなわち、イエスさまは御自分が羊の門であり、また御自分が良い羊飼いであることを示されたのであります。前回私たちは、7節から10節までを中心にしてイエスさまが羊の門であることを学びましたので、今朝は11節から13節を中心にして、イエスさまが良い羊飼いであることを学びたいと思います。
1.わたしは良い羊飼いである
11節から13節までをお読みいたします。
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。-狼は羊を奪い、また追い散らす。-彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
1節から5節までに記されているイエスさまのたとえ話にも「羊飼い」が出て来ましたけども、ここでイエスさまは御自分が良い羊飼いであると言われています。この「わたしは何々である」という言い回しは、ヨハネによる福音書において、イエスさまが御自分がどのような者であるかをお示しになる決まった言い回しです。これまでもイエスさまは「わたしは命のパンである」とお語りになりました(6:48)。また「わたしは世の光である」ともお語りになりました(8:12)。さらには「わたしは羊の門である」「わたしは門である」とお語りになりました(10:7、9)。そして、今朝の御言葉でイエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と語られるのです。イエスさまが「わたしは羊飼いである」とは言わずに、「わたしは良い羊飼いである」と言われたことは、御自分を当時のユダヤの指導者たちから区別するためであったと考えられます。前回、前々回にも申し上げたことですが、1節から5節までのイエスさまのたとえ話は当時の聖書であった旧約聖書を背景として語られたものであります。旧約聖書の中でも特にエゼキエル書第34章を念頭に置いて語られたものであると考えられているのです。そのエゼキエル書第34章15節、16節に次のような御言葉があります。
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。
飛んで23節から25節までには次のように記されています。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする。」
イスラエルの牧者たちが自分自身を養い、群れを顧みないゆえに、主なる神自らが「わたしの群れを養い、憩わせる」と仰せになりました。そして、それは彼らのために一人の牧者を起こすことによって実現されるのです。「それはわが僕ダビデである」とありますけども、エゼキエルが預言した時代には、ダビデはすでに死んでおりましたから、これは「ダビデのような人物」という意味でありましょう。ダビデとは、紀元前10世紀に活躍した人物で、イスラエルに統一王国を建設し、エルサレムを首都に定めた王様であります。ダビデは、イスラエルの理想的な君主と考えられておりました。神さまはそのダビデのような人物をイスラエルの牧者、イスラエルを治める王としてお与えになることを預言されたのです。この預言を念頭に置きつつ、イエスさまは今朝の御言葉で「わたしは良い羊飼いである」とお語りになられたのです。イエスさまは「わたしが良い羊飼いである」とお語りになることによって、御自分こそ、主なる神がイスラエルに約束された牧者であることを宣言されたのです。このことは前回学んだイエスさまの「わたしは羊の門である」と重ねて考えるならば、明かであります。イエスさまは1節、2節で「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」と仰せになりました。また、イエスさまは7節、8節で、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」と仰せになりました。イエスさまは羊である神の民のもとへと至るただ一つの門なのです。そして、その門から羊のもとに来る良い羊飼いはイエスさま御自身に他ならないのです。7節から18節までには、イエスさまが羊の門であることと、イエスさまが良い羊飼いであることの2つのことが教えられているのでありますが、この2つを切り離して考えてはなりません。イエス・キリストは「羊の門」であると同時に、「良い羊飼い」でもあるのです。イエスさまが羊である神の民のもとへと至る門であるがゆえに、イエスさまは羊である神の民にとって良い羊飼いであるのです。イエス・キリストこそ、私たちを養い、憩わせてくださるまことの羊飼いであるのです。
2.良い羊飼いは羊のために命を捨てる
続けてイエスさまは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。-狼は羊を奪い、また追い散らす。-彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」と仰せになりました。先程御一緒に読んだエゼキエル書に、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである」とありましたけども、ダビデ王は文字通りの羊飼いでありました。旧約聖書のサムエル記上の第17章に少年ダビデがペリシテ人の勇士ゴリアトと一騎打ちをするいう有名なお話しが記されています。その経緯が31節から37節までに次のように記されています。
ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を奪い取ることがあります。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
このようにダビデは父の羊を飼う者であったのですが、自分の命を掛けて、獅子や熊から羊を守るこのダビデの姿こそ、良い羊飼いの姿であると言うことができます。しかし、私たちは今朝の御言葉、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉は、このダビデの姿とかけ離れていることを認めずにはおれないのではないでしょうか。イエスさまは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。しかしよくよく考えてみますと、良い羊飼いの条件が命を捨てることならば、残された羊の群れはそれこそ、狼に奪われ、また追い散らされてしまうことになるわけです。ダビデのように獅子や熊に打ちかかり、その口から羊を取り戻すようでなければ、良い羊飼いとは言えないのではないかと思うのです。ある研究者は、ここで「命を捨てる」と訳されている言葉がギリシア語訳旧約聖書では「命をかける」と訳されていることを指摘しています(士師記LXX12:3)。確かにこのところを「命を捨てる」ではなく「命をかける」に置き換えると、11節から13節はすんなり読むことができますが、しかしそれでは、イエスさまが言わんとしていることを聞き逃してしまうと思います。そもそも「捨てる」という言葉には「大切なものを投げ出す」という意味があります(『広辞苑』)。イエスさまは「わたしは羊たちのために命を投げ出す良い羊飼いである」と言われているのです。もうこなってきますと、地上の羊飼いとの類比を超えた良い羊飼いの姿がここに描かれていることが分かります。前回わたしは10節後半の「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」というイエスさまの御言葉を「わたしは門である」という御言葉とつなげて読みました。しかし、イエスさまが門であると同時に、また良き羊飼いであることを考えるならば、10節後半の御言葉は、11節の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とつなげて読むことができるのです。つまり、良い羊飼いであるイエス・キリストは、私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるために、御自分の命を捨ててくださるのです。
3.自分の羊を持たない雇い人
良い羊飼いが羊のために命を捨てるのに対して、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」とイエスさまは言われました。ここで「良い羊飼い」が「自分の羊を持たない雇い人」と対比されていることに着目したいと思います。このことは、良い羊飼い、まことの羊飼いはただイエス・キリストだけであることを教えています。なぜなら、万物は御子イエス・キリストにおいて造られたからです(コロサイ1:16)。すべての人がイエス・キリストにおいて造られた者である以上、すべての人が羊であり、羊飼いはただイエス・キリストお一人であるのです(イエスさまの羊であるかどうかは別として10:26参照)。
イエスさまは、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」と言われましたけども、その理由を「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」と言われました。狼が羊を奪い、追い散らすことが分かっていながら、羊を置き去りにして逃げるのは、彼が雇い人で、羊のことを心にかけていないからであると言われたのです。すなわち、狼が来るのを見て、羊を置き去りにし逃げ去ることによって、その人は自分が羊を持たない雇い人であることを暴露してしまうのです。そして、それは彼の関心が羊よりも、自分自身の命にあることを物語っているのです。
むすび.命を捨てるほどに心にかけてくださるイエス
しかし、良い羊飼いであるイエスさまは、そうではありません。イエスさまは羊のことを心にかけているがゆえに、自らの命さえも投げ出してくださるお方なのです。このことを身近に考えていただくために、一つのたとえを語ってみたいと思います。ある中年の男性と幼いの女の子が並んで歩いていたとします。見るからに親子に見えるのですがはっきりしたことは分かりません。その二人に向かって車が突っ込んできたとします。この中年の男性がその子を横に突き飛ばし、自ら車の方に進み出て自分の命を投げ出すなら、その人は女の子のことを心にかけている父親です。しかし、この中年の男性が、女の子を置き去りにして、自分だけ横に逃げるならば、その人は女の子のことを心にかけていない他人であるのです。イエスさまが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたとき、そのようなことを言われたのではないでしょうか。そして、事実、イエスさまは私たちのために自ら十字架のうえで死んでくださったのです。イエス・キリストは私たちを救うために自ら命を投げ出されることによって、御自分こそ私たちを心にかけてくださる良い羊飼いであることを事実としてお示しくださったのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という御言葉は、私たちがイエス・キリストの十字架のもとに立つときはじめて、正しく聞き取ることができるのです。イエスさまが命を捨てられたほどに、私たち一人一人を愛してくださたこと、そして今も愛してくださっていることを、私たちは胸に刻みたいと願います。