イエスは羊の門 2010年3月07日(日曜 朝の礼拝)
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イエスは羊の門
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 10章7節~21節
聖書の言葉
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」ヨハネによる福音書 10章7節~21節
メッセージ
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はじめに.
先程はヨハネによる福音書第10章7節から21節までをお読みいたしましたけども、今朝は7節から10節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
前回私たちは1節から5節までに記されているイエスさまのたとえ話について学びました。今朝の御言葉である7節以下には、このたとえ話を受けてのイエスさまの説教が記されております。たとえ話の解き明かしというよりも、たとえ話に出て来た言葉を用いてイエスさまは御自分が何者であるかをお示しになられたのです。そのことはヨハネによる福音書に特有の「わたしは何々である」という言葉に着目すると分かります。7節から18節までのイエスさまの説教には「わたしは何々である」という自己を啓示する言い回しが4回記されています。7節に「わたしは羊の門である」と記されています。また9節に「わたしは門である」と記されています。さらに11節に「わたしは良い羊飼いである」と記されており、14節にも「わたしは良い羊飼いである」と記されています。このように7節から18節までで、イエスさまは御自分が羊の門であること、また御自分が良い羊飼いであることを示されたのです。私たちは今朝、その最初のイエスさまが羊の門であることについて学ぼうとしているのです。
1.わたしは羊の門である
7節、8節をお読みいたします。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」
たびたび申しますようにここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉はもとの言葉を直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。これはイエスさまが神の御子としての権威をもって教えられるときの決まった言い回しでありました。イエスさまは神の御子としての権威をもってファリサイ派の人々を含むユダヤ人たちに「わたしは羊の門である」と言われたのです。1節から5節までに記されていたイエスさまのたとえ話にも「門」という言葉が1節と2節に(3節の「門」は新共同訳聖書の補足)、「門番」という言葉が3節に用いられています。1節から3節にこう記されておりました。
はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
前回、イエスさまのたとえそのものについてあまりお話ししませんでしたが、ここで「囲い」と訳されている言葉は建物に囲まれた「中庭」とも訳される言葉であります。つまり、ここでの「羊の囲い」は、建物に隣接する囲いのある庭のことを言っているのです。一般に羊の囲いは人の背丈ぐらいの石垣でできており、出入り口は一つしかなかったと言われています。羊の群れはその囲いの中で夜を過ごすのが普通でありました。ですから、3節の「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあるのは朝の出来事であるわけです。そうすると、盗人や強盗が門を通らないでほかの所を乗り越えて来るのは、まだ日の昇っていない夜の出来事であることが分かります。この1節から3節で教えられていることは、羊たちのもとへ門を通って入ってくるかどうかによって、その人が羊飼いであるかどうかが分かるということです。門から入って羊たちのもとへ来る者が羊飼いであり、門を通らず囲いを乗り越えて羊たちのもとへ来る者は盗人であり、強盗であるとイエスさまは仰せになるのです。そこで今朝の御言葉である7節と8節でありますが、ここでイエスさまは御自分こそが「羊の門である」と言われているのです。新共同訳聖書は「わたしは羊の門である」と訳していますが、この所は「わたしが羊の門である」とも訳すことができます。「他ならないわたしが羊の門である」ということであります。また細かいことを言いますと、ここでの「羊」は複数形で記されています。イエスさまは「わたしが羊たちのもとへ至る門である」と言われたのであります。
2.わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である
羊たちに至る門であるイエスさまは、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」と仰せになりました。このイエスさまの御言葉どおりイメージしますと、イエスさまが来るまでこの囲いには門がなかったことになります。先程も申しましたように、一般に「羊の囲い」は人の背丈ぐらいの石垣でできており、門は一つしかありませんでした。イエスさまは御自分がその羊たちに至る門であると言われるのですから、イエスさまが来られる前は門がなかったことになります。それゆえ必然的に、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」ことになるわけです。聖書はオリジナルテキストが残っておらず、写本によって本文を確定していくのですが、ある写本には「わたしのより前に」という言葉が記されておりません。それはおそらく、旧約の聖徒たちを否定しているように見えるのをやわらげるためであったと考えられています。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」というイエスさまの御言葉を読んだとき、これでは旧約の聖徒たちも盗人であり、強盗であると言われているように読まれてしまうことを危惧して、写本を書き写した人が、「わたしより前に」という言葉を削除したと考えられているのです。しかし、ヨハネによる福音書の全体を読めば、イエスさまが旧約の聖徒たちを盗人や強盗と見なしていないことは明かであります。といいますのもイエスさまは第5章46節で「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」と仰せになっているからです。また第8章56節では、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」とも言われておりました。このように旧約の聖徒たちは、羊たちのもとへと至る門であるイエスさまを指し示す者たちであり、イエスさまの羊たちであったと言えるのです。では盗人や強盗とは一体だれでありましょうか。それは神さまから遣わされていないのに、神の名を語り、救いを与えると約束する偽預言者、さらには偽メシアのことであると思われます。ヨハネによる福音書と深い繋がりのあるヨハネの手紙一を読みますと、イエス・キリストという門を通らないで羊の群れに偽教師や偽預言者が入り込んでいたことが記されています。ヨハネの手紙一第2章18節から25節までを少し長いですがお読みいたします。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたはかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともとは仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者は、誰も御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
ここにはイエスをメシアであることを否定する偽教師たちがおり、その偽教師たちに惑わされて、ある人々が教会から去っていたことが記されております。この偽教師たちはイエスをメシアであると公に言い表さず、直接の神さまとの交わりを主張していたようであります(23節)。また、新しい啓示を受けたとも主張していたようであります(24節)。今朝は読みませんけども、第4章1節以下では、「偽教師」たちが「偽預言者」とも呼ばれているのはそのためでありましょう。このようにヨハネの共同体、ヨハネの教会において、羊の門であるイエス・キリストを通らずして、多くの盗人や強盗が入り込んでいたのです。けれども、イエスさまが「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」と言われたように、イエスさまの羊は彼らに惑わされることはありませんでした。ヨハネはそれを「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」と言い表してるわけです(20節)。イエスさまの羊はイエスさまの御霊を注がれているがゆえに、イエスさまの御声を聞き分けることができるのです。
3.わたしを通って入る者は救われる
ヨハネによる福音書に戻ります。第10章9節、10節をお読みいたします。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
イエスさまは再び「わたしが門である」とお語りになりました。ここでは7節にあった「羊の」という言葉が記されておらず、より簡潔に記されています。これは同じ門でも、その目的が異なることを反映しているのかも知れません。イエスさまが「わたしは羊の門である」と言われるとき、それは「羊たちのもとへと至る門」でありました。しかし、ここでイエスさまが「わたしは門である」と言われるとき、それは青草のしげる緑の牧場へと通じる門であるのです。それゆえ、イエスさまは、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と仰せになるのです。前回申し上げたことですが、1節から5節までのイエスさまのたとえ話は、旧約聖書を背景として語られたものであります。中でもエゼキエル書第34章を念頭に置いてイエスさまはこの所を語られたと考えられております。エゼキエル書の第34章14節、15節にこう記されています。
わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
イエスさまは「わたしが門である」と言われることによって、エゼキエルの預言が他でもない御自分において成就したことを宣言されたのです。
また「その人は門を出入りして牧草を見つける」とありますけども、もとの言葉には「門を」という言葉は記されておりません。この所を口語訳聖書は「わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくだろう」と訳しています。「出入りする」とは自由で安全な生活を表すヘブライ的な表現であります(詩編121:8を参照)。イエスという門を通って青草のしげる緑の牧場に入ってきた羊たちののびのびとした姿がこの所に記されているのです。
むすび.わたしが来たのは羊が命を受けるため
10節で再び「盗人」が出て来ますが、イエスさまは「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」とお語りになります。盗人は羊のことなどそっちのけで、自分の利益が第一であるわけです。しかし、門であるイエスさまが来られたのは、そうではありませんでした。門であるイエスさまが来られたのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためでありました。私たちは門であるイエス・キリストを通って入るとき、命を受けることができるのです。イエス・キリストを神の御子、救い主と公に言い表すとき、私たちは神さまとの交わりに生きる豊かな命をいただくことができるのです。それは言い換えれば、イエス・キリストという門を通って入らなければ、命をいただくことができないということです。イエスさまが「わたしは門である」と宣言することによって、御自分を信じなければ誰も神さまとの交わりに生きる豊かな命にあずかることはできないということを教えられたのです。救いへと通じる門、豊かな命へと通じる門はただイエス・キリストだけであります。現代の社会にも神の名を語り、救いを与えると約束する者たちが沢山おります。しかし、現代の私たちにとっても、救いへと通じる門、豊かな命へと通じる門はただイエス・キリストお一人であるのです。私たちはそのイエス・キリストという門を通って今父なる神の御前に憩うているのです。私たちはこれからあずかるパンとぶどう酒を通して、自分たちがイエス・キリストにある豊かな命に生かされていることを確認したいと願います。