羊飼いのたとえ 2010年2月28日(日曜 朝の礼拝)

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羊飼いのたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門から入る者が羊飼いである。
10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。ヨハネによる福音書 10章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書第10章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.ファリサイ派の人々に話された

 6節に、「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話しが何のことか分からなかった」とありますように、1節から5節までにはイエスさまのたとえ話が記されています。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書において、イエスさまがたとえを用いて神の国について教えられたことが記されておりますけども、ヨハネによる福音書においてイエスさまがたとえ話を語られるのは、今朝の第10章の「羊飼いのたとえ」と第15章の「ぶどうの木のたとえ」の2つだけと言われています。ヨハネによる福音書において数少ないイエスさまのたとえ話を私たちは今朝学ぼうとしているわけです。それも、このたとえ話は「ファリサイ派の人々に話された」と記されています。「ぶどうの木のたとえ」が弟子たちだけに語られたのに対して、今朝の「羊飼いのたとえ」はユダヤの指導者であるファリサイ派の人々に語られたものであるのです。そうしますと、今朝の御言葉は第9章41節から始まるイエスさまの御言葉の続きであることが分かります。章や節は便宜上後からつけたものでありまして、もともとの聖書写本には章や節はありませんでした。今朝から第10章を学ぶと聞きますと、第9章とは違った新しいお話しを学ぶと思われるかも知れませんけども、第10章21節までは、第9章の「生まれつきの盲人をいやす」というお話しの続きであるのです。第10章19節から21節にこのように記されています。

 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人たちは言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。

 このように第10章21節までは、第9章の続きであるのです。またもっと言えば、第9章と第8章のつながりも曖昧でありますから、第7章から第10章21節までを仮庵祭での出来事として読むこともできます。第8章12節で、イエスさまは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。また第9章5節でもイエスさまは、「わたしは、世にいる間、世の光である」と言われております。このつながりを考えますと、第9章1節の「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」というのは、第8章59節のイエスさまが身を隠して神殿の境内から出て行かれた後のエルサレム市内での出来事と読むことができるのです。第10章22節には、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」とありますから、22節以下は明らかに状況が変わっておりますけども、第7章1節から第10章21節までは仮庵祭における秋の出来事として読むことができるのです。

2.羊飼いのたとえ

 それではイエスさまのたとえ話そのものを読んでみたいと思います。1節から5節までをお読みいたします。

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 イエスさまは、自分たちは「見える」と言うファリサイ派の人々に、羊飼いについてお語りになりました。私たちは6節を読んで、これが「たとえ」であることを知っておりますけども、一度そのことを忘れて1節から5節を読むことが大切であると思います。少なくとも、最初の聞き手であったファリサイ派の人々の中には、これを「たとえ」として聞かなかった人もいたのではないでしょうか。イエスさまが突然、羊飼いの話をされたので、面食らった人もいたかも知れません。あるいは、ファリサイ派の人々の中にも羊を飼った者たちがおり、イエスさまのお話に確かにそうだと頷いた者もあったかも知れません。6節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話しが何のことか分からなかった」とありましたけども、羊飼いの話としてはイエスさまのお話は明瞭だと思います。羊を実際に飼ったことのない私たちがこの所を読みますと、羊飼いは自分の羊の名を呼んで外に連れ出すこと、また羊はその声を聞き分け羊飼いにだけついて行くことなどを教えられるのでありますけども、もともと遊牧民であったユダヤ人たちにとってそれは常識とも言えることであったと思います。ですから、ファリサイ派の人々は、イエスさまのお話を羊飼いのお話としてはよく分かったと思います。では6節で、「彼らはその話しが何のことだか分からなかった」とあるのはどういう意味なのでしょうか。このことを問いつつイエスさまのたとえ話について考えてみたいと思います。

 そもそもイエスさまはなぜ羊飼いのお話をされたのでしょうか。それは聖書において羊飼いが主なる神さまを、さらには指導者たちを象徴的に表す言葉であったからです。旧約聖書において、羊飼いが主なる神さまを表し、その羊たちが神の民イスラエルを表すことは詩編などを読みますと分かります。私たちは礼拝のはじめに「招きの言葉」として詩編第100編を聞きますけども、そこには「わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」と記されておりました。また有名な詩編第23編にも次のように記されております。

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

 このように聖書は、主なる神を羊飼いに、その民であるイスラエルをその羊たちにたとえて、その関係を言い表していたのです。

 また、主なる神だけではなく、主なる神によって立てられた指導者たちも羊飼いにたとえられています。旧約聖書の民数記第27章には、モーセの後継者としてヨシュアが任命されたことが記されておりますが、その15節から17節でモーセは主に次のように訴えております。

 モーセは主に言った。「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

 このモーセの訴えによって、主はモーセの後継者としてヨシュアを任命されるわけでありますけども、ここではイスラエルの共同体が羊の群れに、指導者が羊飼いにたとえられています。

 また今朝のイエスさまの御言葉の背景となっているのは何よりもエゼキエル書の第34章であると考えられています。ここでもイスラエルの指導者たちがイスラエルの牧者と呼ばれております。エゼキエル書の第34章1節から11節までを少し長いですがお読みいたします。

 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

 イエスさまはこのエゼキエル書の御言葉を背景として、今朝の御言葉にある「羊飼いのたとえ」を語っておられるのです。 

3.ファリサイ派の人々が分からなかったこと

 ヨハネによる福音書に戻ります。このように旧約聖書が指導者たちを牧者、羊飼いと呼んでいるのですが、このことは聖書の専門家でありましたファリサイ派の人々、「ユダヤ人たち」と呼ばれている指導者たちも当然知っていたことでありました。ですから、イエスさまが羊飼いについて話されたとき、彼らの多くはそれが文字通りの羊飼いのことではなくて、エゼキエル書第34章が記している指導者たちのことを指していることが分かったはずであります。しかし、それにも関わらず、彼らはイエスさまの話が何のことか分からなかったのです。なぜ、ファリサイ派の人々はイエスさまの話が分からなかったのでしょうか。それは、彼らが自分たちこそ門から入る羊飼いであると考えていたからです。「見える」と言う彼らは、自分たちこそが主なる神さまからイスラエルという羊の群れをゆだねられた羊飼いであると考えておりました。そして社会的にはまさにそうであったわけですね。ですから、イエスさまが羊飼いについて語られたときに、それを自分たちのことと思って聞いたわけです。ファリサイ派の人々は自分たちこそが羊飼いであって、自分たちが盗人や強盗であるなどとは考えないわけです。ですから、彼らはイエスさまのお話が何のことか分からなかったのであります。ファリサイ派の人々は、門から入る羊飼い、自分の羊の名を呼んで、羊たちの先頭に立って進まれる羊飼いこそ、このたとえ話をされているイエスさま御自身であることが分からなかったのです。

むすび.羊はその声を聞き分ける

 しかし他方、羊飼いであるイエスさまの御声を聞き分けた人がおりました。それが第9章に出て来たかつて盲人であった人であります。前回も申しましたけども、35節でかつて盲人であった人はイエスさまとお会いするのですが、この時はまだ目の前にいる人が自分の目を見えるようにしてくれたイエスという方であることが分かっておりませんでした。かつて盲人であった人は、イエスさまの御言葉通り、シロアムの池に行って洗い見えるようになって帰ってくるわけですが、そのときイエスさまはその場から立ち去っておられました。ですから、この人はイエスさまのお顔を一度も見たことがなかったのです。声は聞いておりましたけども、そのお姿は見たことがなかったのです。しかし、この人は37節で、イエスさまから「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と聞いたとき、自分の目の前におり、自分が話している人が、自分の目を見えるようにしてくださったイエスというお方であることが分かったのです。イエスさまは「羊飼いのたとえ」の中で、「羊はその声を聞き分ける」と言われ、さらには「羊はその声を知っているので、ついて行く」と言われました。まさに、イエスさまのお声を聞いて、「主よ、信じます」と言ってひざまずいたこの人は、主イエスの羊であったのです。イエスさまはこの「羊飼いのたとえ」を通しまして、実は御自分こそが、門から入ってきた羊飼いであることを教えておられるわけです。見えると言い張るファリサイ派の人々ではなくて、御自分こそが門を通って入ってきた羊飼いであるとイエスさまは言われているのです。そして、そのことが生まれつきの盲人であった人に対して、ファリサイ派の人々とイエスさまがそれぞれどのような態度で接したのかを見るとき明かとなるのです。自分たちを牧者、羊飼いと自認していたファリサイ派の人々はどうであったでしょうか。彼らはかつて盲人であった人の証言を信じようとはしませんでした。彼らはかつて盲人であった人が自分たちの求める証言をせず、イエスさまを神のもとから来られた方と言い表したがゆえに、外に追い出したのです。それも彼らは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返して、彼をユダヤ人の社会から追放したのです。この言葉は、彼が生まれつき目が見えなかったのは、彼自身の罪のためであったとファリサイ派の人々が考えていたことを教えています。それでは門から入ってきた羊飼いであるイエスさまはどうであったでしょうか。イエスさまは、弟子たちから「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねられたとき、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と仰せになりました。そして世の光として、イエスさまはこの人の目を開けられたのであります。そして、この人が「イエスはメシアである」と公に言い表したことによって、会堂から追放されたと聞けば、この人を探し出して出会ってくださり、御自分が神の救いをもたらす人の子であることを示してくださったのです。そのようにして、「イエスは主である」と告白する共同体、すなわちイエス・キリストの教会にこの人を受け入れてくださったのです。今朝の御言葉の4節に、「自分の羊をすべて連れ出す」とあります。この「連れ出す」と訳されている言葉は、第9章34節の「彼を外に追い出した」の「追い出す」と訳されている言葉とほぼ同じであります。ファリサイ派の人々は、自分たちがかつて盲人であった人を追い出したと思っているのでありますけども、しかし、イエスさまに言わせればそうではなくて、この人はイエスさまに名前を呼ばれて、イエスさまのもとへと連れ出されたのです。

 私たちもイエスさまを主と信じるがゆえに、社会から除け者にされて寂しい思いをするということがあるかも知れません。一番親しいはずの家族からもイエスさまを信じるゆえに除け者にされるということがあろうかと思います。しかし、イエスさまはそのようにして、私たちの名前を呼んでくださり、私たちを御自分の群れであるキリストの教会へと迎え入れてくださったのです。そのようにしてイエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださったのであります。私たちは、自分が主イエスに名前を呼んでいただき、主イエスに導かれて歩んでいる羊であることを見出すとき、このたとえをはっきりと聞き取ることができるのです。

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