ひざまずいて見えるもの 2010年2月21日(日曜 朝の礼拝)
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ひざまずいて見えるもの
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 9章35節~41節
聖書の言葉
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」ヨハネによる福音書 9章35節~41節
メッセージ
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はじめに.
前回は旧約聖書のダニエル書よりお話しをいたしましたが、今朝から再び新約聖書のヨハネによる福音書を読み進めて行きたいと思います。今朝は第9章35節から41節より、御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1.あなたは人の子を信じるか
35節、36節をお読みいたします。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
外に追い出された「彼」とは、イエスさまによって目を開けていただいた生まれつきの盲人であった人のことであります。彼はユダヤ人たちの前で、イエスさまが神のもとから来られたことを言い表したがゆえに、外に追い出されたのでありました。「外に追い出された」とは、ただ神殿の外に追い出されたということではありません。22節に「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」とありましたように、「外に追い出す」とはユダヤ人社会から追放され、村八分にされることを意味していたのです。以前、この22節はイエスさまが活動された紀元30年頃のことではなく、この福音書が執筆された紀元90年頃のことであると申し上げました。福音書記者ヨハネは、イエスさまが地上を歩まれた時代とこの福音書が執筆された時代を重ね合わせて記しているのです。よって、イエスさまはかつて盲人であった人が御自分への信仰のゆえにユダヤ人社会から追放されたことを聞いて、この人を探し出会ってくださったと読むことができるのです。イエスさまは彼に、「あなたは人の子を信じるか」と問われます。「人の子」とは、イエスさまが御自分のことを指していう言葉ですが、旧約聖書のダニエル書によれば世の終わりに現れて神の救いをもたらす人物が「人の子」と呼ばれておりました。ダニエル書の第7章13節、14節に次のように記されております。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることはない」。
イエスさまは、このダニエル書の「人の子」を背景として、御自分のことを「人の子」と言われているのです。そして、イエスさまが御自分を「人の子」と言われるのには、神の救いが御自分においてすでに到来しているとの主張があるわけです。しかし、かつて盲人であった人はそれがイエスさま御自身であることが分からずに、こう尋ねたのです。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。新共同訳聖書は「その方はどんな人ですか」と訳しておりますけども、新改訳聖書は「その方はどなたでしょうか」と訳しています。かつて盲人であった人は、「人の子」がどんな人であるのかを問うたのではなくて、誰であるかを問うているわけです。わたしは先程、人の子についてダニエル書を引いて説明しましたけども、この人はユダヤ人でありましたから、イエスさまから「人の子」と聞いたとき、世の終わりに現れて神の救いをもたらす人物を思い浮かべたはずであります。ですから、かつて盲人であった人にとって問題であったのは、「人の子」とはどのような存在なのかではなくて、それが誰であるのかということであったのです。彼は「その方を信じたい」という思いをもってこのことを問うているのです。新改訳聖書は、この所を次のように訳しています。「主よ、その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」。この言葉から分かることは、かつて盲人であった人がまだこのとき、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねた方が、自分の目を見えるようにしてくださった「イエスという方」であるとは知らなかったということです。彼がイエスさまの御言葉どおりにシロアムの池に行って洗って見えるようになって帰ってくるとイエスさまはもうおりませんでした。ですから、かつて盲人であった人はイエスさまのお顔をまだ見たことがなかったのです。声は聞いていたはずでありますけども、まだイエスさまのお姿は見たことがなかった。それゆえ、自分に「あなたは人の子を信じるか」と尋ねた人が、まだこのときは自分の目を見えるようにしてくださった「イエスという方」であることが分からなかったのです。ですから36節で、かつて盲人であった人は「主よ」と言っておりますけども、これは「先生」を意味する敬称であったと思われます。
2.あなたは、もうその人を見ている
37節から39節までをお読みいたします。
イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と問うかつての盲人であった人に対して、イエスさまは「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。このイエスさまの御言葉によって、彼は、自分が見ている、自分を話しているこの人が、自分の目を開けてくださった「イエスという方」であることが分かったのです。この37節の御言葉をイエスさまから聞くことによって、自分の目を開けてくださったイエスという方と今自分が見ているこの人が同一人物であることに気づくのです。それゆえ、かつて盲人であった人は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくのであります。ここでも彼はイエスさまに「主よ」と呼びかけておりますが、この「主」は、先生という意味の敬称ではなく、ユダヤ人が神さまに対して用いた信仰の対象としての「主」であります。かつて盲人であった人は、ファリサイ派の人々による尋問の中で、すでに自分の目を開けてくれたイエスさまを「あの人は預言者です」と言い表しておりました。またイエスさまを「神をあがめ、その御心を行うお方」、「神のもとから来られたお方」であると言い表しておりました。そして、そのお方によって、あなたの見ている、あなたと話しているわたしこそ、神の救いをもたらす人の子であることを示されたとき、彼は「主よ、信じます」と信仰を言い表して、イエスさまの御前にひざまずいたのです。ここで「ひざまずく」と訳されている言葉は「礼拝する」とも訳すことができます。かつて盲人であった人はイエスさまを主として礼拝したのです。
第9章のはじめに、弟子たちがイエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うたことが記されておりました。それに対してイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりましたけども、かつて盲人であった人が「主よ、信じます」と信仰を言い表し、イエスさまを礼拝するところに、この人に現れた神の御業を私たちははっきりと見ることができるのです。そして、それはこの人だけではなく、「イエスは主である」と告白し、礼拝をささげる私たちにおいても実現している神の御業であるのです。イエスさまを神の救いをもたらす人の子であると信じること、それが「見える」ということなのです。39節でイエスさまはこう仰せになりました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
イエスさまは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と仰せになりました。これは第3章16節、17節の御言葉と矛盾するのではないかと思われるかも知れません。第3章16節、17節には次のように記されておりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。
ここに、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく」とあるのに、今朝の御言葉でイエスさまが「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と言われているのは矛盾するように思えるわけです。けれども、第3章の御言葉を続けて読んでいきますと、矛盾していないことが分かってきます。第3章18節、19節をお読みいたします。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている」。
イエスさまは世を救うために遣わされたのでありますけども、イエスさまを信じないことによって結果として裁きが生じるわけです。それゆえ、イエスさまは、「わたしがこの世に来たのは裁くためである」と言われたのであります。そもそもダニエル書は「人の子」を神の終末の裁きと結びつけて語っておりました。しかし、イエスさまは御自分こそ、その人の子であり、父から裁きを行う権能を委ねられた者であるとお語りになられたのです。第5章21節、22節で、イエスさまはこう仰せになっておりました。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。飛んで24節から27節までをお読みいたします。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」。このように、イエスさまが「人の子」であるということは、終末の裁きがすでにイエスさまにおいて到来しているということであるのです。イエスさまが世を救うために来てくださったにもかかわらず、人々はイエスさまを信じないことによって、自らを裁いてしまう。自らを滅びへと定めてしまうのです。
イエスさまが「こうして、見えないものは見えるようになり、見える者はみえないようになる」と言われるとき、それはイエスさまが「世の光である」ことと関係しています。イエスさまは第8章12節で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と仰せになりました。また、第9章5節でも「わたしは、世にいる間、世の光である」と言われました。見るということにおいて、光は絶対に必要であります。いくら視力がよいと言っても、光がなければ私たちは何も見ることができません。イエスさまは命の光を与える世の光として来られました。それゆえ、この光に照らされて初めて、人は見ることができるのです。イエス・キリストのうちに、神が生きて働いておられることを見ることができるのです。イエスさまは、安息日に癒しの業をしたことをユダヤ人から咎められとき、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われましたけども、その御言葉どおり、イエスさまのうちに、神さまが働いておられるのを見ることができるのです。
3.我々も見えないということか
40節、41節をお読みいたします。
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
「見える者は見えないようになる」というイエスさまの御言葉を聞いて、一緒に居合わせたファリサイ派の人々は敏感に反応しました。なぜなら、彼らは自分たちが「見える者」であると自負していたからです。それゆえ、「見える者は見えないようになる」という言葉を聞き捨てることはできなかったのです。新共同訳聖書は、「我々も見えないということか」と訳しておりますけども、元の言葉を読みますと、この問いは否定の答えを期待する問いとなっております。ファリサイ派の人々は、「まさかわたしたちも見えないということではないでしょうね」とイエスさまに問うているわけです。律法の専門家であり、民の指導的立場にある私たちを、あなたはまさか見えないと言うのではないでしょうねと問うているのです。イエスさまはそれに対してこうお答えになりました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
イエスさまは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われました。これは自分が霊的に盲目であることを知っているならば、ということです。なぜなら、自分が霊的に盲目であることを知っているならば、その人は世の光であるイエスさまのもとに来るはずだからです。イエスさまのもとに来て、イエスさまを主と崇め、礼拝をささげることによって罪の赦しにあずかることができるからであります。しかし、自分が霊的に盲目であるにも関わらず、「見える」と言う者は、世の光であるイエスさまのもとへ来ようとしないので、彼らの罪はそのまま残るわけです。このイエスさまの御言葉から分かりますことは、ファリサイ派の人々であっても、すべての人は霊的に盲目であるということであります。はじめの人類であるアダムの堕落によって、人は自分の力でまことの神を知りえない者となってしまったのです。それゆえ、第9章に出てくる生まれつき目の見えない人とは、生まれながらに霊的に盲目な全人類を象徴しているのです。ですから、ファリサイ派の人々も、自分たちが見えないことを認めて、世の光であるイエスさまのもとへ行くべきであるのです。そのことを他ならぬイエスさまが求めておられるのであります。
むすび.ひざまずいて見えるもの
イエスさまは御自分のことを「人の子」と言われましたけども、その人の子とは、世を救うために十字架に上げられねばならない人の子でありました。第3章13節から15節でイエスさまはこう仰せになりました。「天から降って来た者、すなわち、人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。イエスさまは「世の罪を取り除く神の小羊」として十字架に上げられます。イエスさまは「見える」と言い張るファリサイ派の人々のためにも十字架にあげられるのです。現代のイエス・キリストを信じない多くの人々のためにも、イエスさまは十字架の死を死なれたのであります。十字架の死から三日目に復活されたイエス・キリストは今天におられますけども、御自分の名によってささげられる礼拝に、御言葉と聖霊において豊かに御臨在してくださっています。イエス・キリストは私たちがささげる礼拝において、今も生きて働いておられるのです。しかし、そのことを誰もが信じられるわけではありません(信仰とは見えないものを見ること!)。そのことを信じるためには、まず自分が霊的には見えない者であること、神の御前に罪人であることを認める心が必要なのです。34節で、ユダヤ人たちが、かつて盲人であった人に、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返したことが記されておりました。これはユダヤ人たち、またファリサイ派の人々が、この人が生まれつき目が見えないのは、この人の特別の罪のためであると理解していたことを教えております。イエスさまはそのような考えを否定されたのでありますけども、今朝の御言葉ではすべての人が罪の中に生まれてくることを教えているのです。旧約聖書の詩編第51編は有名な悔い改めの詩編でありますが、そこでダビデは「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」と告白しております。ここには人間は生まれながらに罪をもって生まれてくる、いわゆる原罪が教えられているのです。母がわたしたちを身ごもったときから、わたしたちは罪のうちにある。それゆえ、すべての人が世の光であるイエスさまのもとへ行き、目を開けていただく必要があるのです。イエスさまは、すべての人が日曜日ごとに「その方を信じたいのですが」という求道心をもって、礼拝に集うことを求めておられるのです。そしてその礼拝において、御言葉と聖霊において御臨在してくださるイエス・キリストは御自分が人の子であることを表してくださるのです。そのようにして、イエス・キリストは私たちの目を開けてくださったのです。