死者に命を与える神 2016年9月25日(日曜 朝の礼拝)

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死者に命を与える神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章17節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:17 死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。ローマの信徒への手紙 4章17節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは神様の約束、アブラハムやその子孫に世界を受け継がせるという約束が信仰の義に基づいてなされたことを学びました。神様は御自分を信じるアブラハムやその子孫に、世界を受け継がせることを約束されたのです。神様の約束の確かさ、それは私たちの行いにかかっているのではなく、そのような約束を与えられた神様の恵みにかかっているのです。イエス・キリストを信じる私たちは、死んだら天国に行けると信じておりますが、それは神様がアブラハムやその子孫に約束されたことの実現であります。私たちは、アブラハムの信仰の模範に倣うアブラハムの子孫として、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになるのです。今朝の御言葉はこの続きであります。

 17節後半から22節までをお読みします。

 死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱りませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

 ここでパウロはアブラハムが信じた神を、「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神」と呼んでおります。神様はアブラハムに、「わたしは全能の神である」と言われましたが、それは言い換えれば、「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神」であるのです(創世17:1参照)。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神」。この所を新改訳聖書は、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」と訳しています。神様は死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方であるのです。

 パウロが、「アブラハムは死者に命を与える神を信じた」という時、その死者とは、アブラハムとその妻サラのことであります。19節に、「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰は弱まりませんでした」とありますが、この所を新改訳聖書は次のように翻訳しています。「アブラハムはおよそ百歳になって、自分の体が死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」。アブラハムはおよそ百歳、その妻サラは九十歳でありました。彼らは子どもを産むということから言えば死んだも同然であったのです。創世記の18章11節には、アブラハムの妻サラは月のものがとうになくなっていたと記されています。「あなたの子孫を満天の星のように増やそう」という神様の約束は、結婚したばかりの若い夫婦に与えられたのではありません。子どもを授けられずに年老いた夫婦に与えられた約束であるのです。子どもを宿すという生殖能力から言えば、死んだも同然の夫婦に与えられた約束であるのです。ですから、アブラハムとサラとの間に子どもが与えられるということは、死者に命を与えることであったのです。

 アブラハムは、「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じました。アブラハムは天地の造り主、いと高き神、主を信じておりました(創世14:22参照)。この新共同訳聖書の翻訳は、神様の創造の御業へと私たちの思いを向けさせます。けれども、私は、新改訳聖書の翻訳、「無いものを有るもののようにお呼びになる方」という翻訳の方が、文脈に即しているのではないかと思います。神様はアブラハムにとって、まさしく、無いものを有るもののようにお呼びになる方でありました。なぜなら、神様は子どものいないアブラムを、「多くの国民の父」、アブラハムと呼ばれるからです。創世記17章1節から6節までをお読みします。旧約の21ページです。

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」

 神様は、子どものいないアブラムをアブラハム(多くの国民の父)と呼ばれました。アブラムとその妻サラとの間には子どもが与えられておりませんでした。けれども、神様はアブラムを「多くの国民の父」と呼ばれるのです。神様はアブラムに、既に多くの子孫を与えられているかのように、「多くの国民の父」アブラハムと呼ばれるのです。神様はまさしく、無いものを有るもののようにお呼びになる方であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の279ページです。

 18節に、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われたとりに、多くの民の父となりました」とあります。新共同訳聖書は、「希望」と「望み」と別の言葉を用いていますが、元の言葉では同じ言葉が用いられています。新改訳聖書は、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」と翻訳しています。アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じたのです。この最初の「望み」は人間の常識から考えたときの望みであります。人間の常識からすれば、およそ百歳のアブラハムと九十歳の妻サラとの間に子どもが生まれてくることは望みえないことであります。しかし、その時にもアブラハムが望みを抱くことができたのは、それが全能の神様の御言葉であったからです。ですから、二番目の「望み」は神様の約束に基づく望みであります。人間的に考えれば望みえないときであっても、神様の約束に基づく望みを抱いて、アブラハムは信じ、そして、約束のとおり多くの国民の父となったのです。

 20節に、「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました」とあります。このパウロの言葉を読みますと、「本当かなぁ」と思います。といいますのも、創世記の記述を読みますと、アブラハムが、子どもが与えられるという約束を聞いて笑ったと記されているからです。先程、創世記の17章をお読みしましたが、その15節から19節までをお読みします。旧約の22ページです。

 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生きながらえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」

 ここには、アブラハムが神様の御言葉を聞いて笑ったこと、そして、神様の御言葉に疑問を呈する言葉をひそかに語ったことが記されています。かつてアブラハムは、神様の約束を信じて義とされたのでありますが、ここでは、不信の言葉を語っているのです。それは、15章の記事から14年ほどの年月が経っており、もはや人間の常識では子供を宿す可能性はまったく無くなっていたからです。アブラハムは、女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルにおいて、神様の約束は実現したと考えていたのです。しかし、神様は、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と言われるのです。アブラハムは神様の約束の言葉によって、不信仰に陥ることはありませんでした。神様の約束によって、アブラハムの信仰は支えられ、強められたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の279ページです。

 アブラハムの生涯、それは神様の約束を信じ、神様を賛美する生涯でありました。それはアブラハムが、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたから」であります。全能の神様が「あなたの子孫は満天の星のようになる」と言われ、自分のことを「多くの国民の父」を意味するアブラハムと呼ばれる以上、必ずそのようにしてくださるとアブラハムは信じたのです。そのような信仰をもって、アブラハムはサラと夫婦の交わりを持ったのです。アブラハムは神様の約束を信じて、サラと夫婦の交わりを持ったのです。そして、神様はそのアブラハムとサラとの間に、男の子を授けてくださったのであります。

 23節から25節までをお読みします。

 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 アブラハムは神様を信じる信仰によって正しい者と認められました。神様は約束されたことを必ず実現してくださると信じること、それが人間の神様に対する正しい態度であるのです。そして、このことはアブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。つまり、信仰によって義とされるのは、アブラハムばかりではなく、私たちにも当てはまる真理であるのです。パウロは、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます」と記しておりますが、それは、アブラハムが信じた神、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神が、主イエスを死者の中から復活させられたからであります。ここでパウロが言いたいことは、アブラハムの信仰と、私たちキリスト者の信仰は同じものであるということであります。私たちは、神様がイエス・キリストを死者の中から三日目に復活させられたと信じておりますが、それは私たちが神様を死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神であることを信じているからです。十字架につけられて死んだイエスが、三日目に栄光の体で復活させられた。この知らせは、人間の常識からすれば、あり得ないことです。しかし、その人間の常識ではあり得ないことを信じているのは、私たちが死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じているからです。私たちはアブラハムと同じ信仰をもって、歩んでいるのです。

 25節は、初代教会で用いられていた信仰告白文書ではないかと言われています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。パウロは、7節、8節で、ダビデの詩編を引用し、「罪を認められない人の幸い」について語りましたが、イエス・キリストを信じる人は、神様から罪を認められることはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったからです。罪のないお方、何一つ罪を犯したことのないイエス様が、私たちの罪を担って、贖いとしての十字架の死を死んでくださったのです。また、イエス・キリストを信じる人は神様の御前に義と認めていただけます。神様はその保証として、イエス様を死から三日目に栄光の体で復活させられました。もし、イエス様が死から復活されなかったならば、私たちは今もなお罪の中にあることになります(一コリント15:17参照)。しかし、神様は、イエス様を信じる者が正しい者と認められることをはっきりと示すために、イエス様を死者の中から復活させられたのです。神様は、イエス様を信じる者たちを義とするために、イエス様を復活させられたのです。

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