行いによらず信仰によって 2016年9月04日(日曜 朝の礼拝)

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行いによらず信仰によって

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」ローマの信徒への手紙 4章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ローマの信徒への手紙4章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 前回、私たちは、信仰の法則によって、人の誇りは取り除かれたことを学びました。人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、イエス・キリストへの信仰によるのであれば、誰一人神の御前に誇ることはできないのです。こう聞きますと、当然、この手紙の読者、特にユダヤ人の読者から次のような反論が予想されます。それは、「肉によるわたしたちの先祖アブラハムはどうか」ということであります。パウロはそのような反論を予想しつつ、今朝の御言葉を記しているのです。

 1節から3節までをお読みします。

 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

 この手紙を書いているイエス・キリストの使徒パウロは、民族から言えばユダヤ人であります。ユダヤ人はアブラハムの子孫でありました。それゆえ、パウロは、アブラハムを「肉によるわたしたちの先祖」と呼ぶのです。アブラハムについては、旧約聖書の創世記12章から25章までに記されていますが、紀元前二千年頃の人であります。アブラハムは、今からおよそ四千年も前の人物であるのです。神様がアブラハムをハランの地から召し出されたことが、創世記の12章に記されています。ここでは、1節から4節までをお読みします。旧約の15ページです。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

 神様はアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にする」と言われましたが、その御言葉どおり、アブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブから12人の兄弟が生まれと言ったように、多くの子孫が生まれ、時代を経て、ユダヤ人という大いなる国民となったのでありました。アブラハムが肉による先祖であることは、ユダヤ人にとっての誇りでありました(マタイ3:9、ヨハネ8:33参照)。なぜなら、アブラハムは、神様から「わたしの愛する友」と呼ばれる人物であったからです(イザヤ41:8)。ユダヤ人は、神様の愛する友アブラハムの末、その子孫であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 パウロは、2節で、「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」と記しておりますが、当時のユダヤ人たちは、アブラハムが神の掟を守るという行いによって義とされたと考えておりました。アブラハムは義人と考えられておりましたが、それはアブラハムが律法を行ったからであると考えられていたのです(シラ44:19,20参照)。と言いますのも、創世記の26章5節にこう記されていたからです。ここでは、創世記の26章1節から6節までをお読みします。旧約の40ページです。

 アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクがはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。そのとき、主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」そこで、イサクはゲラルに住んだ。

 ここに記されている主の言葉は、アブラハムの息子イサクに対して語られたものでありますが、その5節に、「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」と記されています。パウロの時代のユダヤ人たちは、このところを根拠として、アブラハムは神の掟である律法を行うことによって義と認められたと考え、そのように教えていたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 誤解のないように申しますが、パウロは肉による先祖アブラハムが偉大な人物であることを否定しているのではありません。そのことは、「神の前ではそれはできません」という言葉に表れています。アブラハムは人の前では、その行いにおいて誇り得る人物であったのです。人と人とを比べるという相対的な義の尺度で言えば、アブラハムは自分の行いを拠り所とすることができる立派な人物であったのです。しかし、神様は御前ではどうかといえば、「それはできません」とパウロは語るのです。なぜなら、聖書には、こう記されているからです。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」。この御言葉は創世記15章6節の御言葉であります。ここでは1節から6節までをお読みします。旧約の19ページです。

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 神様はアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にする」と言われ、ハランの地から導き出されました。しかし、アブラハムは子供が与えられませんでした。アブラハムは、家の僕エリエゼルに跡を継がせることを考えています。しかし、そのようなアブラハムに、主は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われるのです。そして、外に連れ出し、満天の星空の下でこう言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムはそのように言われる主を信じたのでありました。アブラハムの状況は何も変わっておりませんが、アブラハムは神様の言葉を信じたのです。そして、主はそのようなアブラハムを義と認めてくださった。正しい者として受け入れてくださったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。この創世記15章6節の御言葉を論拠として、パウロは、私たちの肉による先祖アブラハムも信仰によって義とされたのだと記すのであります。アブラハムが神様の御前に義とされたのはどうのようにしてか?それは行いではなく、信仰によってであったのです。ですから、アブラハムは神の御前に誇ることはできないのです。信仰の法則によって人の誇りは取り除かれるという真理は、アブラハムにおいても当てはまるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 4節、5節をお読みします。

 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

 パウロは3節で、「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』とあります」と記しましたが、ここで「認められた」と訳されている言葉(ロギゾーマイ)は、「勘定に記入する」という商業用語であります。「認められた」と訳されている言葉は、「貸方、あるいは借方につける」という言葉であるのです。そのことから、パウロは、続けて働く者に対する報酬ということを記しているわけです。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています」。この言葉によってパウロは、律法の行いによって義とされるという考え方がどのような考え方であるかを言い表しています。神様の掟である律法を行うことによって義とされると考えることは、神様の義を恵みとしてではなく、当然支払われるべき報酬として受けようとすることであるのです。ここで「当然支払われるべきもの」と訳されている言葉は、「負い目」「借金」とも訳せる言葉です。律法の行いによって神様に義とされると考えるならば、それは神様に負い目、借金を負わせることであるのです。律法の行いによって神様に義とされるという考え方は、神様との関係を貸し借りで考えるようなものであるのです。このような考え方を、私たちも人間同士でしますけれども、神様に対してそのような関係が成り立つのでしょうか?もちろん、成り立ちません。なぜなら、私たちは神様に返済することができないほどの多額の借金、負い目を持っているからです(マタイ18:24「一万タラントン借金をしている家来」参照)。しかし、パウロは言うのです。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。パウロは、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉を引用した後で、「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と記すのです。それは、アブラハムも、神様の前では不信心な者であるということであります。これはまことに大胆な発言です。ユダヤ人たちは、アブラハムを神の掟を守って義とされた義人であると考え、自分たちはその子孫であることを誇りとしておりました。しかし、神様の前ではアブラハムも不信心な者であるとパウロは言うのです。アブラハムは、不信心な者を義とされる神様を信じて、働きによってではなく、その信仰によって義と認められたのです。そして、同じことが、ダビデにおいても言えるのです。

 6節から8節までをお読みします。

 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

 ダビデについては、旧約聖書のサムエル記上の16章から列王記上の2章までに記されています。ダビデは、紀元前一千年頃の人で、イスラエルの王、メシアとして活躍した人物であります。そのダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いをたたえているとパウロは言うのです。ここで引用されているのは、詩編32編1節であります。ここでは、1節から5節までをお読みします。旧約の862ページです。

 いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。

 詩編32編は、悔い改めて罪赦された者の幸いを歌う詩編であります。ある研究者は、この詩編は詩編51編の後で歌われた詩編であると言っております。詩編51編は、ダビデがウリヤの妻バト・シェバと姦通の罪を犯したことを預言者ナタンから責められたときに歌った悔い改めの詩編であります。その続きとして、詩編32編で、罪赦された者の幸いが歌われていると解釈するのです。ダビデは、神様に罪と過ちを赦していただきましたが、それはダビデの行いや働きによるのでしょうか?ダビデの行いや働きの報酬として、神様はダビデの罪を赦されたのでしょうか?そうではありません。ダビデは、「主があなたの罪を取り除かれる」という預言者ナタンを通して語られた神様の約束を信じて、自分の罪と過ちを告白したのです(サムエル下12:13参照)。そのとき、神様はダビデの罪と過ちを赦してくださったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 8節に、「主から罪があると見なされない人は、幸いである」とありますが、ここで「見なされない」と訳されている言葉は、「義と認められる」の「認められる」と訳されているのと同じ言葉であります。ですから、新改訳聖書は、この所を、「主が罪を認めない人は、幸いである」と翻訳しています。「義と認められる」ということは、「罪を認められない」ということであるのです。

 アブラハムは、「あなたの子孫は天の星のようになる」という神様の約束を信じて義と認められました。また、ダビデは、「主があなたの罪を取り除かれる」という神様の約束を信じて罪を告白し、罪を認められない者となりました。アブラハムも、ダビデも、神様の約束を信じることによって義と認められたのです。では、私たちには、神様からどのような約束が与えられているのでしょうか?それは、「十字架と復活の主であるイエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、正しい者と認められる」という約束であります(ローマ4:24参照)。この神様の約束を信じるとき、私たちはすべての罪を赦され、神様の御前に、正しい者であると認められるのです。

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