信仰の法則によって 2016年8月28日(日曜 朝の礼拝)
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信仰の法則によって
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 3章27節~31節
聖書の言葉
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。ローマの信徒への手紙 3章27節~31節
メッセージ
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主の日の礼拝では、イエス・キリストの使徒パウロが記したローマの信徒への手紙を御一緒に学んでおります。ローマの信徒への手紙の主題、テーマは、1章16節、17節に記されていました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。これが、ローマの信徒への手紙の主題であります。パウロは、主題を提示した後で、全人類の罪について記します。パウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を記した後で、旧約聖書を引用しつつ、こう記しました。3章20節です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。神の民であるユダヤ人は、神様から与えられた掟、律法を守ることによって神の前で義とされる、正しい者としていただけると考えておりました。しかし、パウロは、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、それを完全に守ることができない罪の自覚しか生じないと言うのです。それでは、どうすれば人間は神の前に義としていただけるのでしょうか?パウロは3章21節、22節でこう記します。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。「律法と関係なく」とは、「律法を実行することと関係なく」という意味であります。また、「律法と預言者に立証されて」とは、当時の聖書である「旧約聖書に立証されて」という意味です。神様は律法の実行とは関係なく、しかも聖書によって立証されて、御自分の義をお示しになりました。そして、それは、イエス・キリストを信じる者を義とすること、正しい者とすることであったのです。このイエス・キリストは、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活させられたイエス・キリストであります。このイエス・キリストを信じる人は、神様は御前に正しい者として受け入れてくださるのです。なぜ、神様はイエス・キリストを信じる人を義としてくださるのか?それは、イエス・キリストの十字架の死が私たちの人間の罪の贖いであり、私たち人間の罪に対する神の怒りをなだめる供え物であったからです。ここで、私たちが忘れてならないのは、イエス・キリストを私たちの贖い、また、なだめの供え物とされたのが神様御自身であるということです。神様は、聖書の約束のとおり、御子をダビデの子孫として生まれさせ、十字架の死へと引き渡されました。そのようにして、神様はイエス・キリストを私たちの贖いとして、またなだめの供え物としてくださったのです。そして、このイエス・キリストを信じる者を義とすることによって、御自分の義をお示しになったのです。終わりの時代に示された神様の義は、罪人を滅ぼすことによって示されたのではありません。終わりの時代に示された神様の義は、イエス・キリストを信じる者を救うことによって示されたのであります。
ここまでは、これまでお話してきたことの振り返りですが、今朝は、3章27節から31節までを御一緒に学びたいと思います。
27節、28節をお読みします。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
パウロは、「では、人の誇りはどこにあるのか」と問うていますが、これはこの手紙を読んでいる人が当然思うであろう疑問であります。パウロは、23節、24節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記しましたが、それでは、人の誇りはどこにあるのだろうか?という疑問が沸き起こってくるわけです。この「誇り」は、文脈から言えば、ユダヤ人の誇りのことであります。パウロは、2章17節、18節で、ユダヤ人の誇りについてこう記しておりました。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」。また、パウロ自身も、ユダヤ人の優れた点について、3章1節、2節でこう記しておりました。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」。ユダヤ人は神の言葉をゆだねられた神の民でありました。ですから、天地を造られたまことの神様を知らない異邦人と比べるならば、ユダヤ人にはいろいろと優れた点があったのです。ユダヤ人は神様から選ばれた民としての誇りを持っていたわけです。しかし、その誇りを神様の裁きの座に持ち出すことができるかと言えば、できないわけです。なぜなら、人が神の御前に義とされるのは律法の実行によるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるからです。そのことが、ここでは「行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」と言われているのです。「行い法則」とは何か。それは「律法の実行によって神の前に正しい者とされる」という法則であります。「人間の功績によって義とされる」という法則です。もし、人が律法の実行によって義とされるなら、人は誇ることができます。「わたしはこれだけ神様の掟を守りました」と誇ることができます。しかし、終わりの時代に示された神様の義はイエス・キリストを信じる者を、恵みによって無償で義とするというものでありました。それゆえ、人が神様の御前に誇ることはできません。信仰の法則によって、人の誇りは取り除かれてしまったのです。
イエス・キリストを信じる者を正しい者とするという信仰の法則は人間の誇りを閉め出してしまう。このことは、イエス・キリストが十字架につけられたお方であること深く結びついています。旧約聖書の申命記21章23節には、「木にかけられた者は、神に呪われた者だからである」と記されています。十字架に磔にされて死ぬことは、木にかけられた者の死であり、律法違反者としての呪いの死であったのです。多くのユダヤ人は、木にかけられて死んだ者がメシア、救い主であるはずはないと考えたわけです。パウロも初めはそうでした。パウロも、イエス・キリストを信じないで、律法の熱心から教会を迫害していたのです。しかし、ダマスコ途上において、復活の主イエス・キリストとまみえることにより、十字架について死んだイエスが復活されたこと、そして、このお方こそが、主であり、メシアであることを示されたのです。なぜ、神の御子であり、救い主であるイエス様が十字架について死なれたのでしょうか?それは、だれ一人律法の実行によっては神の前に義とされないことを示すためです。イエス・キリストの十字架の死は、世の終わりの裁きの先取りでありますが、そこで示されたことは、人はだれも律法の実行によって義とされないということであったのです。十字架につけられたイエス・キリストを神の御子、救い主と信じることは、自分が律法を完全に守ることができない罪人であることを認めることであります。十字架につけられたイエス・キリストを信じるということは、神様の御前に自分の誇りが空しいものであることを認めることであるのです。イエス様は、山上の説教の冒頭において、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました(マタイ5:3)。心の貧しい人々、神様の御前に何一つ誇る者を持たない人々だけが、十字架につけられたイエス・キリストを神の御子、救い主と信じることができるのです。
29節、30節をお読みします。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
パウロは、「神は唯一である」という信仰に訴えて、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあると語ります。神は唯一である。それは天地を造られた神であり、イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出してくださった神であるというのが、ユダヤ人の信仰でありました。ユダヤ人が一日に何度も唱えたという申命記6章4節から9節にはこう記されています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。このように、ユダヤ人たちは、自分たちの神が唯一の主であることを繰り返し教えられたのです。神は唯一の神である。この真理から、パウロは、神はユダヤ人の神だけではなく、異邦人の神でもあることを導き出します。これは、神様がユダヤ人だけを救うのではなく、異邦人をも救うお方あるということです。イザヤ書の45章22節で、主御自身が言われているとおりです。「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」。唯一の神はすべての人を造り、すべての人を救われるのです。そして、その救いは、割礼のある者(ユダヤ人)を信仰のゆえに義とし、割礼のない者(異邦人)を信仰によって義とすることによって実現されるのです。割礼のある者は律法の実行によって義とされる。割礼のない者は信仰によって義とされるのではありません。唯一の神が備えられた救いの道は、イエス・キリストを信じることによって義とされるという唯一の道であるのです。
31節をお読みします。
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
律法を実行することによって義とされると考えていたユダヤ人にとりまして、「イエス・キリストを信じることによって義とされる」というパウロの教えは、律法を空しいものになってしまうという危惧を抱かせました。しかし、パウロは、「決してそうではない」と断固とした口調で否定します。イエス・キリストを信じる信仰は、律法を無にするどころか、むしろ、律法を確立するというのです。「律法を確立する」とは、どのような意味でしょうか?それは、「神の掟を神の掟として、確かなものとして立てる」という意味です。律法を実行することによって義とされようとするとき、人は神の掟を割り引いてしまいます。人間が守れる水準に引き下げてしまうのです。そのことは、イエス様の時代のファリサイ派の人々や律法学者において見られたことであります。例えば、十戒の第五戒に、「あなたは殺してはならない」という掟があります。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「自分は人を殺したことはない。だから、自分は神様の掟をちゃんと守っている」と考えたのです。しかし、イエス様は、「あなたは殺してはならない」という神の掟は、兄弟に腹を立てる者、兄弟に「馬鹿」、「愚か者」という者をも裁く掟であることを教えられたのです。神様は、心を御覧になる方でありまして、神様の掟は殺人の根である怒りや人を軽んじる心をも裁かれるのです。そのような神様の掟を神様の掟として割り引くことなく、確立することができるのは、イエス・キリストを信じる者だけであるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じる者は、自分が神の掟を完全に守れないことを認めているからです。そして、自分に代わって神の掟を完全に守られたイエス・キリストを信じているからです。そのようにして、イエス・キリストを信じる者たちは、神の掟を割り引くことなく、神の掟として確立するのです。神の掟を神の掟として確立するとき、人はいよいよイエス・キリストに依り頼む者となります。そのとき、人は自分の功績を誇りとすることなく、十字架につけられたイエス・キリストのみを誇りとすることができるのです(ガラテヤ6:14参照)。それは言い換えれば、イエス・キリストを十字架につけられたほどに、私たち一人一人を愛してくださった神様を誇りとするということであります。私たちが神様の御前に誇るものは何もありません。もし、敢えて誇るならば、それは神様が私たちのためにしてくださったこと。わたしを正しい者とするために、愛する御子を十字架の死へと引き渡してくださったことだけであるのです。