なだめの供え物 2016年7月31日(日曜 朝の礼拝)

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なだめの供え物

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 3章25節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。ローマの信徒への手紙 3章25節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ローマの信徒への手紙3章21節から26節までを読んでいただきましたが、前回、21節から24節までを学びましたので、今朝は、25節、26節を御一緒に学びたいと思います。

 終わりの時代に示された神の義、それは律法の実行とは関係なく、しかも律法と預言者、すなわち旧約聖書によって立証されて示された神の義でありました。そして、その神の義は、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義でありました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている。これがパウロが指摘してきた人間の現実であります。しかし、そのような人間であっても、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。旧約聖書において「贖い」という言葉には大きく二つの意味がありました。それは、「奴隷を自由にするために代価を支払うこと」と「罪の赦しを得るために家畜をいけにえとしてささげること」でありました。イザヤ書の53章には、多くの人の罪を担い、自らを償いの献げ物とする主の僕について預言されておりましたが、そのお方こそ、イエス・キリストであったのです。今朝の御言葉はその続きであります。 

 25節、26節をお読みします。

 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 「神はこのキリストを立て」とありますが、「このキリスト」とは、私たちの贖いとなってくださったキリスト・イエスのことであります。神様は聖書の中で預言者を通して約束されていたように、御子をダビデの子孫としてこの地上にお遣わしになりました。神様は私たちの贖いとして、イエス・キリストを十字架の死に引き渡されたのです。「その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」とありますが、聖書は、生き物の命が血の中にあること。それゆえ、血はその中の命によって贖いをすることを教えています。レビ記の17章10節、11節に、こう記されています。旧約の189ページです。

 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

 血はその中の命によって贖いをするのである。この御言葉に基づいて、罪の赦しを得るために家畜がいけにえとしてささげることが定められているわけです。神様が与えられた律法には、罪を犯した場合の規定がちゃんと記されておりました。神様はイスラエルの人々が神様の掟に背いて罪を犯してしまうことをご存じのうえで、罪を贖う儀式をも定めておられたのです。レビ記の4章27節から31節までをお読みします。旧約の167ページです。

 一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。祭司はその血を指につけて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、祭壇の基に流す。奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと彼の罪は赦される。

 献げる人は、献げられる動物の頭に手を置くように記されていますが、これは献げられる動物が献げる人の身代わりであることを表す行為であります。神様はこのような動物犠牲を定められることにより、御自分が罪に対して死をもって報いられることを示されたのであります。しかし、このような動物犠牲は、まことの罪の赦しを与えることはできませんでした。動物犠牲の規定は、イエス・キリストの十字架の贖いを指し示すものであったのです。そのことをパウロは、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」という言葉で言い表したのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の277ページです。

 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。ここで、「罪を償う供え物」と訳されている言葉(ヒラステーリオン)を、新改訳聖書は、「なだめの供え物」と翻訳しています。今朝の説教題はそこから取ったわけですが、私は「なだめの供え物」という翻訳の方がよいのではないかと思います。と言いますのも、パウロはこれまで人間の不義に対する神の怒りについて記して来たからです。1章18節にこう記されておりました。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」。聖であり、義である神様は人間の不信心と不義に対して怒りを現されます。その御自分の怒りをなだめるために、神様は御子をダビデの子孫として遣わし、十字架の死に引き渡して、なだめの供え物としてくださったのです。イエス様は、なだめの供え物として、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです(ルカ23:34)。

 また、「罪を償う供え物」と訳されている言葉(ヒラステーリオン)は、契約の箱の蓋である「贖いの座」を表す言葉であります(ヘブライ9:5、レビ16:2LXX参照)。フランシスコ会聖書研究所から出ている翻訳聖書は、このところを次のように訳しています。「神はこのキリストに血をながれさせ、信ずる人のための『あがないの座』として彼を公に示されました」。贖いの座については、出エジプト記の25章17節から22節にこう記されています。旧約の135ページです。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端につけなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

 このように契約の箱の蓋である贖いの座は、神様が臨在される場所でありました。それゆえ、贖いの座は至聖所に置かれ、人々の目からは隠されておりました。至聖所には、大祭司が年に一度、贖いの儀式をするために入ることができるだけでした。しかし、「神様が臨在される贖いの座が、十字架につけられたイエス・キリストにおいて公に示された」とパウロの語るのであります。福音書を見ますと、イエス・キリストが十字架の上で死なれたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと記されています(マタイ27:51参照)。その垂れ幕は、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕でありましょう。そのことは十字架につけられたイエス・キリストこそ、神様が臨在される贖いの座であることを示しているのです。神様が共におられるというインマヌエルの祝福は、十字架と復活の主イエス・キリストの名によって二人または三人が集まる所に実現するのです(マタイ18:20参照)。

 神様はキリストを立て、その血によって信じる者のために神の怒りをなだめる供え物、あるいは、贖いの座とされました。「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるため」でありました。神様が「今まで人が犯した罪を見逃して」来たとは、人間の罪に対する刑罰を寛容な心で忍耐して来られたということです。この神様の寛容と忍耐を、ユダヤ人たちは勘違いしまして、自分たちは神の怒りを受けることはないと考えていたわけです(2:4参照)。しかし、神様は、十字架につけられたイエス・キリストにおいて御自分の義を示されました。そしてその神の義とは、御自分が正しい方であることを示すと同時に、イエス・キリストを信じる者を義とされる神の義であったのです。このような神様の正しさは私たち人間が思い浮かべることもできなかった正しさであります。私たちが思い描く神様の正しさ、それは罪人を罪人として罰する正しさではないでしょうか?しかし、自分がその悪人であるとしたらどうでしょうか?自分だけではなく、すべての人間が神の怒りに値する罪人であるとしたらどうでしょうか?それでも、悪人に罰をもって報いられる神様は正しいと言えるでしょうか?かつて、そのような仕方で、神様は正しさを示されたことがありました。それが創世記の6章から9章に渡って記されているノアの箱舟の出来事であります。神様は地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そして、ノアの家族を除く全人類を大洪水によって地上から拭い去ってしまったのです。しかし、神様は水が乾いた後で、ノアのささげる焼き尽くす献げ物のなだめの香りをかいで、御心にこう言われたのです。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」(創世8:21,22)。ここで、神様は人間の罪について忍耐されることを決意しておられます。神様は、罪人を一方的に罰するという仕方で御自分の義を示すことを、もはやしないと言われたのです。では、神様はどのように御自分の義を示されたのか?それはイエス・キリストを信じる者を正しいとするという仕方によってでありました。神様は、御子をダビデの子孫として遣わし、十字架の死に引き渡すことによって、私たち罪人の贖いとし、御自分の怒りをなだめる供え物とされました。そのイエス・キリストを信じる者を正しい者とすることにより、神様は御自分の正しさを示されたのです。神様の正しさ、それは御子イエス・キリストを贖いとし、なだめの供え物とすることによって、イエス・キリストを信じる者を正しいとする正しさであるのです。

 ここにいる多くの人は、すでにイエス・キリストを信じて神の前に義とされた者たちであります。しかし、信仰生活を長く続けていきますと、神様はこんなわたしを本当に正しい者としてくださるのだろうか?という疑問が沸いてくると思います。しかし、今朝、私たちが覚えたいことは、「そのような時こそ、十字架につけられたイエス・キリストを見上げましょう」ということです。十字架のイエス・キリストは、神様が支払ってくださった贖いであり、神様がささげてくださったなだめの供え物であります。私たちは、そのイエス・キリストを信じて無償で義とされるのです。私たちにとっては無償でありますけれども、神様にとってはそうではありませんでした。神様は愛する御子を人として遣わされ、十字架の死へと引き渡されたのです。そのようにして神様は、私たち罪人が正しい者とされる道を切り開いてくださったのです。その神様がしてくださったこと、また、イエス・キリストがしてくださったことを、ただ感謝して受け入れること、それが信仰であります。私たちはイエス・キリストを信じることによって正しい者とされたのです。しかし、信仰は私たちが救われる根拠ではありません。私たちが救われる根拠は、私たちの贖いとして、なだめの供え物として御自身をささげられたイエス・キリストであるのです。

 神様は私たちの贖いとして、独り子を与えてくださいました。また、イエス・キリストは私たちのなだめの供え物として命を捨ててくださいました。それは神様とイエス様が私たちを愛してくださっているからです。すなわち、神の義は神の愛と一つであるということです。それゆえ、パウロは5章8節でこう記すのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。十字架につけられたイエス・キリストによって示されたのは神様の正しさだけではありません。神様の愛も示されたのです。それゆえ、信仰とは、イエス・キリストの十字架によって示された神様の愛を、わたしへの愛としてしっかり受け入れることであるのです。信仰とはイエス・キリストにおいて与えられる神様との愛の交わりであるのです。その神様との愛の交わりに生きるとき、私たちは罪を犯しながらも、正しい者として、安心して歩んで行くことができるのです。

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