神は真実な方 2016年7月10日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。ローマの信徒への手紙 3章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちはユダヤ人の罪について学びました。「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」とパウロはユダヤ人の罪を告発したのであります。また、ユダヤ人の誇りであった割礼については、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じである」とパウロは言いました。ユダヤ人は割礼を神の契約のしるしであり、救われる保証であると考えていましたが、パウロは、終末の裁きの基準、律法を行っているか行っていないかという基準によって割礼を相対化したのです。パウロは、「割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者があなたを裁くでしょう」とさえ語ったのです。このように語ることができたのは、パウロが霊による心の割礼を受けた者であったからです。パウロだけではなくて、悔い改めてイエス・キリストを信じるすべての者は霊による心の割礼を受けた者たちであるのです。そして、心に割礼を受けたキリスト者こそ、真のユダヤ人、神様から誉れを受ける神の民であるのであります。

 ここまでは前回お話ししたことでありますが、今朝はその続きになります。

 3章1節から4節までお読みします。

 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

 パウロの議論を聞いていると、ユダヤ人と異邦人の区別がまったく無くなってしまうのではないか、ユダヤ人としての誇りが空しいものになってしまうのではないかと思われます。パウロはそのように思う人たちを想定して、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」と問いかけます。これは問答形式で話を進めていくディアトリベーという修辞法であります。パウロはこの問いに対して、「まったくありません」とは答えませんでした。それどころか、「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答えるのです。神の選びの民であるユダヤ人と、まことの神様を知らない異邦人を比較すれば、ユダヤ人の優れた点はあらゆる面からいろいろ指摘することができるのです(ローマ9:4,5参照)。その最たるものが、ユダヤ人は神の言葉をゆだねられたということであります。神の言葉とは、律法や預言書や詩編などからなる旧約聖書を指すと言えますが、旧約聖書がユダヤ人の言葉であるヘブライ語で記されていることは何よりもそのことを示しています。私たちは日本語に翻訳されたものを読んでおりますが、旧約聖書の原典はユダヤ人の言葉であるヘブライ語(一部はアラム語)で記されているのです。また、旧約聖書を読めばお分かりのように、そのほとんどは神とイスラエル(ユダヤ人)との歴史であります(創世1~11章は全人類の歴史を扱っている)。神様の言葉は神の選びの民であるユダヤ人にゆだねられたのです。そして、ユダヤ人たちは神様の言葉を丁重に扱い、保管したのです。私たちが旧約聖書をこのように読むことができるのは、ユダヤ人たちのお陰であるのです。

 私は、今、「神の言葉」を「旧約聖書」と広く理解しましたけれども、ここでパウロは「神の言葉」の中でも「神の約束」、「神の契約」のことを念頭においているようであります。といいますのも、ユダヤ人の不誠実、神の誠実ということが続けて言われているからです。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」。このパウロの言葉は、神とイスラエルとの契約を念頭において語られています。契約は二者の間で結ばれるものですが、そのとき求められることは互いが契約に対して誠実であるということです。ユダヤ人たちは神様との契約に不誠実でありました。では、その不誠実のせいで、神様の誠実が無にされるのでしょうか?パウロは、「決してそうではない」と断固とした口調で否定します。このことを旧約聖書から確認しておきましょう。神様とイスラエルが契約を結んだことは、出エジプト記の24章に記されています。旧約の134ページです。出エジプト記24章1節から8節までをお読みします。

 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 ここには、シナイ山において、モーセを仲介者とし、神様とイスラエル(ユダヤ人)が契約を結んだことが記されています。神様はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から導き出し、シナイ山で契約を結ぶことによって、御自分の宝の民とされたのです。ここで、和解の献げ物としてささげられた雄牛の血が、祭壇とイスラエルの民に振りかけられておりますが、これは契約を破るようなことがあれば、血を流してもかまわないという誓いを表しています。イスラエルは、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言い、そうでなければ血を流してもかまわないと誓ったのです。では、イスラエルはこの誓約に誠実であり続けることができたでしょうか?できませんでした。神様は契約に誠実であられ、イスラエルの人々を増やし、約束の地カナンを与えられました。しかし、イスラエルの人々はカナンの地に入り豊かになると、主を忘れて偶像崇拝の罪を犯したのです。しかしそのような時も、神様は御自分の契約に誠実であられました。イスラエルをすぐに罰することをなさらず、預言者を遣わし、何度も悔い改めるようにと諭されたのです。この神様の誠実を身をもって示すよう命じられたのが預言者ホセアでありました。主はホセアにこう言われました。「行け、夫に愛されながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(ホセア3:1)。主がホセアに姦淫する妻を愛し続けよと命じられたのは、偶像崇拝をするイスラエルを、神様がなおも愛していることを示すためのでありました。その変わることのない愛から、神様はイスラエルと新しい契約を結ぶと言われるのです。旧約聖書の1237ページ。エレミヤ書の31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 この新しい契約の預言は、南王国ユダがバビロン帝国に滅ぼされる少し前に与えられた預言であります。神様はイスラエルと新しい契約を結ぶことにより、律法をその心に授け、守ることができるようにしてくださる。そのようにして、神様はイスラエルを永遠に御自分の民としてくださるのです。ここで誓っておられるのは、神様だけであります。神様の誠実によって、新しい契約は実現するのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の276ページです。

 パウロは、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と記しておりますが、これは私たちがそのまま受け入れるべき言葉であります。この言葉の論拠として、パウロは、詩編51編6節を引用しております。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」。これはヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書からの引用ですので、少し文書が異なっています。詩編51編は、ダビデの悔い改めの詩編であります。その表題を見ますと、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています。ダビデはウリヤの妻バトシェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤを戦闘の最前線に送って殺させるという罪を犯しました。その罪を悔い改めつつダビデはこう歌うのです。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません」(詩51:5,6)。ダビデ王でさえも神様の御前に自分の罪を隠す偽り者でありました。しかし、神様の言葉は正しく、その裁きに誤りはありません。神様の正しさ、それは終末の裁きにおいて勝利を得られる、誰もが認めざるを得ない正しさであるのです(黙15:3,4参照)。

 5節、6節をお読みします。

 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何というべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世界をお裁きになることができましょう。

 ここでパウロはもう一つの問いを投げかけます。それは、「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを発する神は正しくないのではないか」という問いです。「神様の義は人間の不義の中でこそ明らかとなる。そうであれば、人間の不義に対して怒りを発する神様は正しくないのではないか」というのです。これは「人間の論法」とありますように、神様を人間と同じ者と見なした論法であります。本来、神様に対してこのようなことを問うこと自体が冒涜でありますが、パウロは「人間の論法に従って言いますが」と断って、このように問うのです。そして、パウロは、そのような考えを「決してそうではない」と断固とした口調で退けます。なぜなら、神様は世をお裁きになるお方であるからです。神様が世を裁かれるとき、神様は人間の不義に対して怒りを表されないならば、神様は世を裁くことができなくなってしまうとパウロは語るのです。「神様が世をお裁きになる」。これは旧約聖書が教えていることであり、ユダヤ人なら誰もが否定することのできない真理でありました(創世18:25参照)。その真理に訴えて、パウロは人間の不義によって神の義が明らかになるとしても、その不義に対して神様は怒りを表されることは正しいと記すのです。

 7節、8節をお読みします。

 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

 パウロはさらにもう一つの問いを投げかけます。それは、「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしは罪人として裁かれねばならないのか」という問いであります。これについては少し具体的に考えてみたいと思います。この典型的な例は、イエス・キリストの十字架であります。神様は新しい契約を実現するために、御子イエス・キリストを私たちと同じ人として遣わされました。しかし、人々はイエス・キリストに背き、十字架の呪いの死に定めてしまったのです。しかし、イエス・キリストの十字架においてこそ、神様の真実が明かとされ、その栄光は輝いたのであります。神様は人間の罪を用いて救いの御業を成し遂げられたのです。そうであれば、イエス様に背き、十字架につけた者たちの罪は赦されるのではないか?と言うのですね。もっと言えば、イエス様を裏切ったユダも、ユダの罪によってイエス様が十字架にかかったのだから、ユダの罪は裁かれないのではないか?と言うのです。ここでパウロが言っていることはそういうことであります。これはまさに人間の理屈、何が罪であるかが分からない罪人の理屈であります。と言いますのも、当人たちはそのように考えなかったからです。イエス様の十字架をつけた人たちは、ペンテコステのペトロの説教を聞いて大いに心打たれこう言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。そして、ペトロの勧めに従って洗礼を受け、教会の仲間に加わったのです(使徒2:36~41参照)。また、ユダについて言えば、彼は自分の犯した罪を後悔し、首をつって死んだのです(マタイ27:3~5参照)。このように罪とは神様に対するものであります。罪を犯すとき、人間は神様の裁きに直面するのです。そのことを知らないで、人ごとのように、神と罪の関係について論じても、それは的外れな議論であるのです。

 ある人々は、パウロたちが「善が生じるために悪をしよう」と主張していたと中傷していたようであります。これはパウロたちが宣べ伝える福音を曲解したものであります。パウロは、「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われる」と教えておりました(ガラテヤ2:16参照)。その教えを曲解して、パウロは「善が生じるために悪をしよう」と教えていると中傷する者たちがいたのです。このような者たちに対して、パウロは、「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と有罪を宣言します。それはこのような中傷がパウロに対する中傷であるだけでなく、パウロにゆだねられた福音に対する中傷であるからです。福音において啓示されている神様の義、神様の真実に対する中傷であるからです。

 今朝の説教題を「神は真実な方」としましたけれども、神様の真実はどこにあらわされたのか?それはイエス・キリストの十字架の死と復活によってでありました。イエス・キリストの十字架と復活によって神様の新しい契約は実現され、私たちは罪赦されて、神の民とされたのです。十字架と復活の主であるイエス・キリストを信じることは、神様の真実を真実として受け入れることであります(一ヨハネ5:10参照)。そして、神様はそのような者たちを、イエス・キリストにあって正しい者として受け入れてくださるのです。

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