神の正しい裁き 2016年5月29日(日曜 朝の礼拝)
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神の正しい裁き
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 2章1節~5節
聖書の言葉
2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。ローマの信徒への手紙 2章1節~5節
メッセージ
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パウロは、1章18節から32節まで、まことの神を知らない異邦人のことを念頭に置きながら、「人類の罪」について記しました。今朝の2章1節から3章8節までは、神の民であるユダヤ人を念頭に置きながら、「人類の罪」について記しています。パウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を記した後で、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と記し(3:9)、「律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされない」と記します(3:20)。パウロは、罪のことばかり記しているわけですが、それは、私たちの心を、福音において啓示される神の義へと向けさせるためであるのです(3:21参照)。このような大きな枠組みを踏まえて、今朝は、2章1節から5節までを御一緒に学びたいと思います。
1節をお読みします。
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
パウロは、「だから、すべて人を裁く者よ」と呼びかけておりますが、パウロはそのような者がいることを想定してこのように記しております。これはディアトリベーと呼ばれる一つの修辞法(レトリック)であります。読者の反応や反対意見を想定して、議論を進める一つの話法であります。パウロは、悪徳に染まっている者たちと自分を区別して、自分は正しいとする者たちを想定して、また、悪徳に染まっている者たちに有罪の判決を下す者たちを想定して、「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」と記すのです。そして、そのような者の代表者が神の民であるユダヤ人であったのです(2:17参照)。「弁解の余地はない」。この言葉は、1章20節にも記されておりました。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」。ここでは明らかに、まことの神を知らない異邦人のことが言われています。「神の民ではない異邦人は神様を知らなくても当然だと言えるかと言えば、そうではない。なぜなら、世界が造られたときから、目に見えない神様の性質は、被造物を通して現れており、これを通して神様を知ることができるからだ。だから、彼らには弁解の余地がない」とパウロは記したのであります。それと同じ言葉を、パウロは人を裁くユダヤ人に対しても用いるのです。どのような意味で、ユダヤ人は弁解の余地がないのでしょうか?それは、彼らが「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」からです。彼らが「人を裁いて同じことをしているから」であります。このパウロの言葉を読んで、多くのユダヤ人は反論したい気持ちに駆られたと思います。自分たちは神の掟を与えられており、神の掟に従って歩んでいる。そのように自負していたユダヤ人にとっては、「あなたも人を裁いて、同じことをしている」というパウロの言葉は受け入れがたいものであったと思います。けれども、彼らは、「人を裁く」「人を有罪であると定める」ことにおいて、罪を犯しているのです。ヤコブの手紙4章11節、12節に次のように記されています。「兄弟たち、悪口(あっこう)を言い合ってはなりません。兄弟の悪口(あっこう)を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口(あっこう)を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。人を裁くこと、それは神様だけがなされることであります。ですから、人を裁く者は、自分を神としていると言えるのです。ユダヤ人たちは、人を裁くことによって、自分を神とする偶像崇拝の罪を犯しているのです。「他人を裁き、有罪と定めるとき、あなたは自分を神とする偶像崇拝の罪を犯して自分自身を罪に定めている。そのようにして、人を裁くあなたも、異邦人と同じ罪を犯している」とパウロは言うのです。「人を裁くこと」、「人を有罪と定めること」自体が、自分を神と等しい者とする偶像崇拝の罪であるのです。
2節、3節をお読みします。
神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、私たちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
パウロは、「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、私たちは知っています」と記しておりますが、「このようなこと」とは、1章29節から31節に記されていた数々の悪徳のことであります。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無慈悲です」。これらのことを行う者を神様は正しくお裁きになるとユダヤ人たちは知っておりました。ユダヤ人ばかりではくて、イエス・キリストにあって神の民とされた私たちも知っております。そして、ここに記されているような悪徳を、神様を認めない者たちの悪徳として、自分とは関係のないことであるかのように裁いてしまうことも、私たちは知っているのです。少なくとも、パウロは、そのことに気づかせようとしているのです。私たちは、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えるようなことはしない。また、女同士で、また男同士で情欲を燃やし、恥ずべきことを行うようなことはしない。けれども、私たちの心も、あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれてしまう。私たちも、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らうのです。私たちも性質から言えば、無知、不誠実、無情、無慈悲であるのです。そのことをパウロは、人を裁くユダヤ人に、さらには私たちに突きつけるのです。私たちが人を裁くとき、私たちは自分を正しい者であるかのように考えます。私たちは人を裁いているとき、自分の罪を忘れているのです。人を裁くとき、自分も同じような罪を犯しているなぁと思いながら裁くことはしません。自分の罪を忘れて、自分が正しい者であるかのように裁くのです。しかし、パウロは言うのであります。「このようことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」。このようにして、パウロは、神の民であるユダヤ人も、神の裁きを逃れることはできないことを思い起こさせるのです。これは、イエス様に先立って活動した洗礼者ヨハネが語ったことでもあります。洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」。ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であるから、神様の怒りを免れることができる。神様によって裁かれることはないと考えていました(ヨハネ8:33参照)。けれども、洗礼者ヨハネは、アブラハムの子孫であることは、神の怒りを免れることの何の保証にもならないと言ったのです。アブラハムの子孫であっても、異邦人と同じことをしている以上、神の裁きを逃れることはできないのです。
4節、5節をお読みします。
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
神の民であるユダヤ人たちは、神様から憐れみを受けた民、また受けている民であります。そして、その神の憐れみは、ユダヤ人たちを悔い改めに導くためのものであるのです。悔い改めとは、方向転換すること、罪から神へと立ち帰ることであります。しかし、ユダヤ人たちは、その神の憐れみを勘違いしてしまったのです。神の憐れみがあまりも大きすぎるために、ユダヤ人たちは、自分たちは裁かれることがないかのように考えてしまったのです。そのようにして、彼らは、神様の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじていたのです。そのような彼らに、パウロは言うのであります。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現されるでしょう」。ここでパウロが語っていることは、旧約の預言者たちがイスラエルの民に告げたのと同じことであります。旧約の預言者たちは、世の終わりの日に神様が世界を裁かれることを預言しました。世界と歴史の主である神様が、この世界と歴史の総決算をされる日が来ることを預言したのです。それを「主の日」と呼んだのであります。神の民であるイスラエルの人々は、主の日は自分たちにとっては救いの日であり、まことの神を認めない異邦人にとっては滅びの日であると考えていました。しかし、預言者アモスはこう言うのです。「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前にたちにとって何か。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」(アモス5:18~20)。なぜ、アモスはイスラエルの人々にこのような言葉を告げたのでしょうか?それは、イスラエルの人々が異邦人と同じ罪を犯していたからです(アモス5:25~27参照)。パウロが記す言葉にも、アモスに通じる思いが込められています。ユダヤ人は、神の掟を守ることによって功績を蓄えて、神様の喜びにあずかることができると考えておりました。しかし、パウロは、かたくなで心を改めようとしないあなたがたが蓄えているのは、神の怒りであると言うのです。そして、この怒りは、神様が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるというのです。ここで「神が正しい裁きを行われる日」が「怒りの日」と言われていますが、これは神様が罪に対しては怒りをもって報いられるからです。ここでの怒りは、世の終わりの裁きにおいて現される決定的な怒りのことであります。神様の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじて、心を改めようとしないユダヤ人とは、言い換えれば、聖書の約束のとおりダビデの子孫から生まれた御子イエス・キリストを信じないユダヤ人のことであります。イエス・キリストを信じないユダヤ人たちは、神様の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじて、心をかたくなにし、神の怒りを自分のために蓄えているのです。なぜ、パウロはここまで断言することができるのでしょうか?それは、福音において啓示された神の義が、十字架につけられたイエス・キリストを内容とするものであるからです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の3章1節でこう記しております。「ああ、物分かりが悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。福音の説教において、指し示されるのは、「イエス・キリストが十字架につけられた姿」であります。それは、御自分の民である私たちに代わって、主の日の裁きを受けられたイエス・キリストのお姿であるのです。イエス・キリストは、十字架の上で、主の日に現される神の怒りを私たちに代わって受けてくださったのです。福音書を見ますと、イエス様が十字架につけられたときに、全地が暗くなり、それが三時間も続いたと記されています(マタイ27:45)。アモスは、「主の日は闇であって、光ではない」と告げましたけれども、十字架につけられたイエス様のうえには、主の日の裁きが臨んでいたのです。イエス様は、御自分の民の罪を担われて、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。このイエス様の死は、主の日の裁きの先取りとしての死でありました。神様はそのことをはっきりと知らせるために、イエス様を正しい者として、死から三日目に栄光の体で復活させ、御自分の右の座へとあげられたのです。使徒言行録の17章に、パウロがアテネのアレオパゴスで説教したことが記されています。パウロはそこで、次のように語っています。使徒言行録の17章29節から31節までをお読みします。新約の249ページです。
「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。
神様がイエス・キリストを死者の中から復活させられたこと、それはすべての人に、神様が世を裁かれることを示す確かな証しであると、パウロは語ります。なぜ、パウロはそのように語ることができたのか?それは、イエス・キリストの十字架の死と復活が、主の日の裁きの先取りであったからです。神様の憐れみ、慈しみは、イエス・キリストを通して現されました。ですから、今はどこにいる人でも悔い改めて、イエス・キリストを信じるよう命じられているのです。悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、その人は、イエス・キリストにあって神の怒りから救われるのです。十字架に死に引き渡され、三日目に復活させられたイエス・キリストこそ、来るべき怒りから私たちを救ってくださるお方であるのです(一テサロニケ1:10参照)。