人間の罪と神の放任 2016年5月22日(日曜 朝の礼拝)
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人間の罪と神の放任
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 1章24節~32節
聖書の言葉
1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、
1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、
1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。
1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマの信徒への手紙 1章24節~32節
メッセージ
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前回、私たちは、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり、神の永遠の力と神性は被造物に現れて」いること、従って、「不義によって真理の働きを妨げる人間」には、「弁解の余地がないこと」を学びました。なぜ、人間は「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することも」しないのか?それは、はじめの人アダムの罪によって、人間の「心が鈍く暗く」なってしまったからです。はじめの人アダムの罪、それは、「神のようになりたい」という思いから禁じられた木の実を食べたことでありました。このアダムの罪によって、人間の心は鈍く暗くなってしまったのです。それで、人間は、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」のです。自分を神とする人間は、創造主である神ではなく、神様によって造られたものの像を自分で造って、それを拝む者となってしまったのです。これは神様がイスラエルに禁じられた偶像崇拝という罪でありますけれども、その背後にあるのは、「自分を神とする人間の罪」であるのです。
ここまでは前回学んだことでありますが、今朝は、24節から32節までをご一緒に学びたいと思います。
24節、25節をお読みします。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
アダムにあって罪を犯し、堕落した人間は、自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えました。それに対して、神様はどのように対応されたのか?パウロは、「そこで、神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」たと言うのです。「不潔なこと」とは、「偶像崇拝」とも、「偶像崇拝に伴う淫らな行い」とも理解することができます。また、ここで「まかせられる」と訳される言葉(パラディドーミー)は、「渡される」とも訳される言葉で、今朝の御言葉の鍵語(キーワード)とも言える言葉です。今朝の御言葉には、「まかせられる」とも「渡される」とも訳されるパラディドーミーという言葉が三回出てきます。24節に「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」とあり、26節に「それで、神は彼らをはずべき情欲にまかせられ」とあり、28節に「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」とあります。このように、パウロは、「まかせられる」とも「渡される」とも訳されるパラディドーミーという言葉を三度用いているのです。ちなみに、新改訳聖書は、すべて「引き渡される」と翻訳していますので、そのことがよく分かります。神様は、人間が心の欲望によって不潔なことをするに任せられました。人間がしたいことをするように、放っておかれたのです。そのようにして、神様は人間を不潔なことに引き渡されたのです。そして、「そのため、彼らは互いにその体を辱めました」とパウロは言うのです。人間は心の欲望に従って、自分がしたいように不潔なことをしている。互いにその体を辱めているのでありますが、そこに、パウロは、神様が人間を不潔なことに任せられたという神様の放任を見ているのです。そして、これこそが、天から現されている神様の怒りであるのです。パウロは、18節で、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と記しました。神様の怒りは、どのようにして現されているのか?それは、罪を犯す人間をその罪に任せる、罪に引き渡すという仕方によってであります。ある研究者は、「罪の罰は罪である」と言っております。神様は罪を犯した人間を、その罪に引き渡すことによって罰せられるのです。人間は心の欲望のままに不潔なことをする。そのとき、人間は自由に振る舞っていると思い、互いにその体を辱め合うのですが、しかし、その背後には、神様の放任という怒りがあるのです。罪を犯す人間の背後にパウロは神様の裁きを見ているのであります。そしてそのことは、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕える」という偶像崇拝においても言えることであるのです。詩編81編10節から13節に次のように記されています。旧約の919ページです。
あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑なな心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた」。
これは神の民イスラエルに対する神様の御言葉であります。イスラエルが異教の神、すなわち空しい偽りの神々に仕えたのは、彼らの自由な意志によるものでありましたが、その背後には、イスラエルを「思いのままに歩かせた」という神様の放任があったのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の274ページです。
パウロは、25節の後半で、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」と記しておりますが、これはパウロの信仰の表明でもあります。ある研究者は、このパウロの言葉を解説して、「このパウロの言葉は、造られたものは、自分を造ったお方を礼拝する義務を負っていることを教えている」と言っておりました。神様を造り主と告白すること、それは自分が神様によって造られた者であると告白することであります。そして、それは自分が神様を礼拝する義務を負う者であると告白することでもあるのです。
26節、27節をお読みします。
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
ここでパウロは、当時のギリシャ・ローマ世界に広まっていた同性と肉体関係を持つことについて言及しています。当時のギリシャ・ローマ世界では、同性と肉体関係を持つことが広く行われておりました。これは、ユダヤ人であるパウロにとっては嫌悪すべきことでありました。といいますのも、旧約聖書に「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」とはっきり記されていたからです(レビ18:22)。ここでパウロは「自然の関係」という言葉を用いていますが、これは「神様が創造の時に定められた関係」のことであります。創世記の1章と2章を見ますと、神様は人間を男と女に創造されたこと、そして、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という結婚を定められたことが記されています(創世1:27、2:24参照)。神様は、男と女が結婚して夫婦となり、その夫婦関係において肉体関係が営まれ、人間が増え広がって行くように定められたのです。しかし、当時のギリシャ・ローマ世界では、女は女同士で、また男は男同士で、互いに情欲を燃やし、恥ずべきことを行っていたのです。ここでもパウロは、神様の「引き渡し」を見ております。なぜ、彼らは女同士で、また男同士で情欲を燃やし合い、恥ずべきことをしているのか?それは神様が彼らを恥ずべき情欲にまかせられたからであるのです。
パウロは、「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」という偶像崇拝に続けて、「女同士で、また男同士で情欲を燃やし、恥ずべきことを行う」ことについて記しました。これはパウロの中で繋がっているのだと思います。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝むことにより、人間は女同士で、また男同士で情欲を燃やし、恥ずべきことを行うようになったのです。宗教と道徳は一体的な関係にあります。宗教において造り主の代わりに造られた物を拝む人間は、道徳において同性に対して情欲を燃やし、恥ずべきことを行うのです。自らを神とする人間、自らの思いを善と悪の判断基準とする人間は、自分が恥ずべきことをしていること、迷った行いをしていることが分からないのです。そして、このことは、神の真理を偽りに替えた彼らが身に受ける当然の報いであるのです。
28節から32節までをお読みします。
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
パウロが、「彼らは神を認めようとしなかった」と記すとき、被造物を通して神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもしない人間のことが言われております。彼らは神様を認めようとしなかったので、神様のほうでも彼らを無価値な思いに引き渡されました。そのため、彼らはしてはならないことをするようになったのです。「してはならないこと」とは何か?そのことが29節、30節にズラズラと挙げられています。これは、いわゆる「悪徳表」と呼ばれるものですが、パウロは悪徳を並べ立てることにより、人間がいかに罪深いものであるかを記すのです。ここに記されているあらゆる罪も、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」結果と言えます。自分を神とする人間、自分の意志を善と悪の判断基準とする人間は、あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意が満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事を企み、親に逆らうのです。その性質から言っても、無知、不誠実、無情、無慈悲であります。これが神を認めようとしない人間の姿であるのです。そして、人間をこのような無価値な思いに引き渡されることの中に、私たちは神様の怒りを見出すことができるのです。
パウロは、「彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行う」と記します。すべての人は神のかたちに似せて造られており、その心には神の掟の要求する事柄が刻み込まれているわけです(ローマ2:15参照)。ここでの「死」は、死後の神様による裁き、滅びを意味しています。まことの神様を知らない人でも、「悪いことばかりしていると、死んだ後に地獄に行くぞ!」と言うように、そのようなことを彼らは知っているのです。しかし、知りながら、それを行う。そして、それだけでなく、「他人の同じ行為をも是認して」いるのです。他人が死に値することをしていても、それに同意して、拍手喝采するのです。それは死に値するこれらのことが、誰に対するよりも神様に対する罪であることが分からないからです。罪が是認され、罪を犯すことが奨励されるような社会、それが神を認めない人間が造り出す社会であります。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えるという罪は、自分で罪を犯すだけではなく、他人の罪をも是認する社会を造り出すのです。それは、私たちがどこかで自分自身に絶望しているからです。人間は所詮そのようなものだと、どこかで諦め、開き直っているのです。しかし、そのような人間を諦めないお方がおられる。それが福音において神の義を啓示される神様であります。福音とは、御子の福音であり、イエス・キリストの福音でありますが、その内容は、神様が愛する御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されたということであります。神様は私たちを救うために、愛する御子を十字架の死へと引き渡されました。そして、イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪に対する怒りを受けられたのです。パウロは人間の罪の背後に、神の放任という怒りを見ました。その怒りは、「わたしはもう知らない、あなたたちの好きにしたらいい」といったような怒りでありました。しかし、イエス・キリストが十字架で受けられた怒りはそのような怒りではありません。イエス・キリストが十字架で受けられた怒りは、終末の裁きの先取りである滅びをもたらす怒りであるのです。その十字架に注がれた怒りが、わたしの罪に対する怒りであったと信じるとき、その人は救われるのであります。イエス・キリストを通して、罪とは神の掟に背くことであることを知り、罪を憎み、他人の罪をも戒めることができる者となるのです。私たちは、神様の恵みによって、そのような者たちとされているのです。