弁解の余地のない人間の罪 2016年5月08日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
弁解の余地のない人間の罪
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 1章16節~23節
聖書の言葉
1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。ローマの信徒への手紙 1章16節~23節
メッセージ
関連する説教を探す
前回、私たちは16節、17節から、十字架の死から復活されたイエス・キリストを内容とする福音には神の義が啓示されており、それはただ信仰を通して実現されることを学びました。神様が聖書の約束のとおり、御子をダビデの子孫から遣わされ、十字架の死へと引き渡され、復活させられて力ある神の子と定められた以上、イエス・キリストを「わたしたちの主」と告白することは、神様の御前に正しい態度であるのです。そして、そのような信仰に生きるとき、人は神様の御前に正しい者として生きることができるのです。
そのように記したパウロが、今朝の御言葉では、天から現される神の怒りについて記しております。福音において神の義が啓示されていると記したパウロが、天から神の怒りが啓示されていると記すのです。
18節をお読みします。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
ここで私たちが心に留めたいことは、神様は人間に並々ならぬ関心を持っておられるということです。すなわち、人間の不信心と不義に対して現される天からの怒りは、神様の聖なる愛の裏返しであるということです。聖書は、神様が世界を造られたことを教えています。創世記の1章を見ますと、神様は私たち人間を御自分のかたちに似せてお造りになったと記されています。それは、私たち人間が神様の御心に従って世界を治めるためでありました。しかし、エデンの園において、はじめの人アダムが罪を犯すことによって、その子孫である人間は、不義によって真理の働きを妨げる者となってしまったのです。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して」とありますが、これは17節の「神の義」に対照するものとして記されています。17節で、「神の義」について記したパウロは、18節で、「人間の不義」について記すのです。不義とは「神の掟に逆らうあらゆる悪いこと」を意味します。その人間の不義を、パウロは、「あらゆる不信心と不義」と言い換えておりますが、ある人は、ここで十戒のことを思い起こしております。私たちは、第一主日に十戒を朗読し、主の日の礼拝のごとに、十戒の要約である全身全霊で神を愛することと自分自身のように隣人を愛することの掟を聞いております。そのことを思い起こすときに、ここでパウロが言う「人間のあらゆる不信心と不義」がよく分かると思います。
人間は造り主である神を礼拝せず、また神様の掟に従ってもいない。そのようにして、真理の働きを妨げてしまっている。そのような人間に神様は天から怒りを現されているのです。ここで「現されます」と訳されている言葉は、17節の「啓示されている」と同じ言葉です。前回も申しましたように、「啓示されている」という言葉は現在形で記されています。そして、18節の「現されます」も現在形で記されているのです。不義によって真理の働きを妨げる人間に対する神様の怒りは、今、この地上に現されているのです。私たち人間が被るあらゆる悲惨と死そのものは、不義によって真理の働きを妨げる人間に対する神様の怒りの表れであるのです。
このような神様の怒りを不当な怒りだと思う人もおられるかも知れません。神様の選びの民であり、契約の民であるユダヤ人ならともかく、神様から遠く離れた、神様の掟を知らない異邦人に対して、怒りを現されるのは不当ではないか、そのように考える人もおられるかも知れません。しかし、そうではないのです。
19節、20節をお読みします。
なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明かだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
ローマの教会は、ユダヤ人の信徒と異邦人の信徒から成り立っておりましたが、ここでパウロは、異邦人の信徒のことを念頭において記しているようです。異邦人は、神の契約の民ではなかったから、神様について知らなくても当然であると言えるかといえばそうではない。パウロは、「神について知りうる事柄は、彼らにも明かだからである」と記すのです。神様はユダヤ人と異邦人の区別なく、すべての人に、神について知りうる事柄を明らかにされたのです。神様はどのようにして、御自分について知りうる事柄を明らかにされたのでしょうか?それは、神様の創造と摂理の御業によってであります。神様は力ある御言葉によって、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになりました。また、すべてのものを御心のままに保ち、統べ治めておられます。神様によって造られ、神様によって保たれている被造物において、神様の永遠の力と神性は現れている、とパウロは言うのです。空や大地や海、そこに住む鳥や獣や魚、私たち人間を通しても、創造主である神様の永遠の力と神性が現れている。また、星の運行や季節の移り変わり、私たちが自然法則と呼ぶ営みにも、摂理の主である神様の永遠の力と神性が現れているのです(ヨブ38~41章参照)。それゆえ、パウロは、「彼らには弁解の余地がない」と記すのです。神様の創造と摂理の御業に取り囲まれて生きている人間は、誰も神様について知らされていなかったと弁解することはできないのです。
しかし、そうであるならば、すべての人が被造物を通して神様を知り、神様をあがめ、感謝するようになるはずであります。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができ」るならば、当然、人間は神様をあがめ、感謝して生きるようになるはずです。しかし、そのようにはなっていない。それはなぜか?それは、人間が不義によって真理の働きを妨げているからであるのです。不義によって真理の働きを妨げる人間は、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったのです。
21節から23節までをお読みします。
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
パウロは、人間は神を知らないから神をあがめることも感謝することもしないのではない。人間は神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもしないのだと記します。そして、これこそが真理の働きを妨げる人間の不義であるのです。ここでの「真理」とは、この世界が神様によって造られ、神様によって治められているということであります。その真理は、神様によって造られた被造物によって明らかにされている。人間は被造物を通して、それを造り、保ち治めておられる神がおられることを知っているのです。しかし、その真理を受け入れようとしない。それを妨げてしまう不義が人間にはあるのです。その不義によって、人間はかえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったのであります。人間は、自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
異邦人の代表者であるギリシャ人は知恵を追い求めました。古代ギリシャは、哲学が盛んでありましたが、哲学と訳されるフィロソフィアは、「知恵を愛する」という意味であります。しかし、そのギリシャ人が、多くの像を造って、神々を崇めていたのです(使徒17章参照)。そのことをパウロは念頭においていたのでしょう。また、聖書において、知恵とは神を知ることでありますから、そのことも念頭にあったのかも知れません(箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め」参照)。
人間の愚かさ、それは「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」ことに端的に現れています。むなしい思いにふけり、心が暗くなった人間は、愚かにも創造主なる神ではなくて、神に造られた被造物の像をあがめるものとなってしまったのです。なぜ、このようなことが起こってしまったのでしょうか?それは、神様を知りながら、神様をあがめることも感謝することもしない人間の不義が、「自分を神とする」アダムの罪に由来するものであるからです。創世記の3章に、エデンの園でアダムが神様の掟に背いて罪を犯したことが記されています。主なる神は、アダムに一つの掟を与えておられました。それは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟でありました。そのアダムの助け手として造られた女に、悪魔は蛇の姿で語りかけるわけです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。神様はアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい」と言われたのでありますが、蛇は、与えられている恵みにではなく、禁じられていることに女の思いを向けさせるわけです。それに対して、女はこう答えました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。神様は、「触れてもいけない」とは言われませんでした。また、神様は「死んではいけないから」とは言われずに、「食べる必ず死んでしまう」と言われていたのです。女はアダムから神様の掟について聞いていたのでありますが、その知識は不確かなものであったのです。そのような女に蛇はこう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。神様はアダムに、「食べると必ず死んでしまう」と言われましたが、蛇は「決して死ぬことはない」と言いました。それどころか、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と言ったのです。この蛇の言葉にだまされて、女は禁じられていた木の実を食べてしまいました。そして、一緒にいたアダムも、女の手から禁じられていた木の実を受け取り、食べてしまったのです。アダムは、何も知らずに食べてしまったのでしょうか?おそらく、そうではないと思います。蛇の言葉を女の口から聞いて、食べてしまったのです。禁じられた木の実を食べることによって、神様のようになること。それが、人間の根本的な罪であるのです。
はじめの人アダムの罪は、創造主である神の御言葉よりも、同等である女、さらには、自分の支配のもとにあった蛇の言葉に従うことによって行われました。アダムは、女でも蛇でもなく、創造主である神様の御言葉に信頼して、善悪の知識の木から食べてはならなかったのです。しかし、アダムは、自分と同等の女の言葉、さらには女の口を通して語られた蛇の言葉に従ってしまったのです。そして、そのアダムの子孫である人間は、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのであります。そして、ここにも、自分を神とする人間の罪が現れているのです。創造主である神を認めること、それは自分が造られたものであることを認めることです。自分が神様によって造られた被造物であると認めることは、神様をあがめ感謝する義務を負う者であることを認めることでもあります。それは、言い換えれば、「自分を神としない」ということであります。なぜ、人間は、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのか?それは、自分が神でいられるからです。自分が造ったものを拝むことは愚かなことでありますけれども、その愚かなことをしている限り、人間は自分を神とすることができるのです。そして、ここに真理の働きを妨げる人間の不義があるのです。
前回、私たちは、福音において神の義が啓示されており、それはただ信仰において実現することを学びました。私たちは、福音を信じることによって、神様の御前に正しい者とされ、神様との正しい関係に生きる者とされたのです。しかし、今朝の御言葉を読みますときに、私たちのイエス・キリストへの信仰が、私たちの内から出てきたものではないということが分かります。私たちもアダムの子孫であり、私たちもむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなっていたのです。そのような私たちが福音において啓示されている神の義を信じることができたのはなぜでしょうか?それは、私たちが神の力によって信じる者とされたからであります。16節で、パウロは、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と記しました。福音において働く神の力は、人間の鈍く暗くなった心を照らし、主イエス・キリストにおいて現された神の救いを信じさせる神の力であるのです。私たちは福音において働く神の力によって、イエス・キリストを信じ、造り主である生けるまことの神を崇め、感謝して生きる者とされているのです。