命の道を教えてください 2020年12月27日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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詩編 16章1節~11節
聖書の言葉
16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編 16章1節~11節
メッセージ
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今朝は、『詩編』第16編から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「ミクタム。ダビデの詩」とありますように、第16編も、イスラエルの王ダビデによって記された詩編であります。そのことを念頭において、読み進めて行きましょう。
1節と2節をお読みします。
神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
ここには、ダビデの信仰が記されています。ダビデは、イスラエル神、主を避けどころとする者として、「神よ、守ってください」と祈ります。また、ダビデは、イスラエルの神、主を避けどころとする者として、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」と告白するのです。
2節に、「主」という言葉が二度用いられています。翻訳では同じ言葉ですが、元のヘブライ語では、違う言葉が用いられています。「主に申します」の「主」は、神さまの御名前である「ヤハウェ」であります。その昔、神さまは、ホレブの山で、モーセに、主、ヤハウェという御名前を示されました。その意味は、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」という意味であります(出エジプト3:12、3:14)。主、ヤハウェという御名前には、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。主、ヤハウェがいつも共にいてくださるので、ダビデは、主の御名を呼び、主を避けどころとすることができるのです。
また、「あなたはわたしの主」の「主」は、人間にも用いられる主人、アドナイという言葉です。ダビデの「あなたはわたしの主」という告白は、「わたしはあなたの僕です」という告白でもあるのです。ダビデは、主の僕として、「あなたのほかにわたしの幸いはありません」と告白するのです。
3節と4節を読みます。
この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
ここで、ダビデは、約束の地カナンに住む神の民に、愛をもって警告しています。「ほかの神」とは、カナン人が信じていたバアルやアシュトレトやモレクといった偽りの神々のことでしょう。ダビデは、主だけを幸いとする僕として、「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる」とはっきりと告げるのです。イスラエルの民は、御利益を求めて、他の神々を追い求めておりましたが、それは彼ら自身に苦しみを増し加えるだけであるのです。なぜなら、他の神は、命を持たない偶像であるからです。命を持たない偶像に依り頼んでも、幸いを得ることはできません。苦しみを増し加えることしかできないのです。ダビデは、主の僕として、「わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません」と記します。「血を注ぐ彼らの祭り」とは、ほかの神の後を追う者が、カナンの偶像に息子や娘をいけにえとしてささげたことを指しています(詩106:37、38参照)。また、「彼らの神の名を唇に上らせる」とは、彼らの神の名を呼んで礼拝することを指しています。ダビデは、ヤハウェを、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」と告白する者として、主のみを礼拝するのです。十戒(十の言葉)の第一戒に、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」とあるように、ダビデは、イスラエルの神、主だけを礼拝するのです(出エジプト20:3参照)。
5節と6節を読みます。
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
このダビデの言葉の背後には、主のレビ族に対する御言葉があると考えられています。主は、レビ族にカナンの土地を分配されず、御自身を嗣業(受け継ぐ財産)としてお与えになりました。『民数記』の第18章20節に、こう記されています。旧約の244ページです。
主はアロンに言われた。「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。
主は、レビ族(アロンはその代表)に、土地を割り当てずに、御自身を受けるべき割り当てとされました。この主の御言葉を背景にして、ダビデは、「主はわたしに与えられた分」と告白するのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の845ページです。
ダビデは、「主はわたしの杯」と記します。「杯」は聖書において運命を象徴しています。ちなみに、「運命」とは「人の力ではどうにもならない、物事のめぐりあわせや人間の身の上。また、それをもたらす力」を意味します(明鏡国語辞典)。私たちの力ではどうにもならない、物事のめぐりあわせや身の上をもたらすのは、主、ヤハウェであるのです。私たちにとって運命とは得たいの知れないものではなく、主の聖定(神の御意志の熟慮による永遠の決意)であるのです(ウ小教理問7参照)。
また、ダビデは、「主はわたしの運命を支える方」と記します。ここでの「運命」は元々は「くじ」という言葉です。ですから、聖書協会共同訳では、このところを次のように翻訳しています。「あなたこそ、わたしのくじを決める方」。『箴言』の第16章33節にもこう記されています。「くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる」。主はわたしのくじを決める方である。ここで言い表されているのは、偶然をも用いられる神さまの摂理に対する信仰であります。ここでダビデは、神さまの摂理に対する信仰を言い表しているのです(ウ小教理問11参照)。
6節の「測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました」も、カナンの土地の分配を背景にしています。しかし、5節の「主はわたしに与えられた分」を前提にしますと、ここでの「麗しい地」も「輝かしい嗣業」も、イスラエルの神、ヤハウェを指していることが分かります。ダビデは、「輝かしい嗣業」として、主御自身を与えられたゆえに、主の御名をほめたたえるのです。
7節から9節までを読みます。
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。
ここには、ダビデと主との親しい交わりが記されています。ダビデは、主御自身を輝かしい嗣業とする者として、主をほめたたえます。そして、主は御言葉をもってダビデの思いを励まし、夜ごとにダビデの心を諭してくださるのです。「夜ごとに」とあるように、ダビデは、静かな夜に、主と向かい合って、礼拝をささげていたのです。その礼拝において、ダビデは、主が力強い御手で、自分を守ってくださっているとの確信を与えられたのです。それゆえ、ダビデの心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うのです。そのようにして、ダビデは、主から喜びと平安と休息を与えられるのです。ダビデは、主との交わりを持つことによって、受けた嗣業を有効に用いたのです。そのようにして、ダビデは、「あなたのほかにわたしの幸いはありません」と断言できるほどの益を受けたのです。
私たちも主イエス・キリストにあって、神さまを輝かしい嗣業として与えられております。そうであるならば、私たちも夜ごとに、主をほめたたえ、主の御言葉を読み、主に祈るときを持つべきであります。そうでなければ、私たちは「宝の持ち腐れ」ということになってしまいます。しかし、私たちが主に心を注ぎだして祈るならば、主が私たちの右にいて、揺らぐことがないようにしてくださいます。それゆえ、私たちの心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うことができるのです。
ダビデの時代、寝ている間は敵に襲われて殺されることがありました(サムエル下4:7参照)。また、寝てしまえば、朝に目を覚ますという保証もありません。しかし、ダビデは、喜びの内に、安心して眠りにつくことができたのです。それは、主が自分の魂を陰府に渡すことはないと信じていたからです。
10節と11節を読みます。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
ダビデは、命の源である神さまとの親しい交わりに生きるゆえに、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことはない」と記します。陰府とは、死者の領域で、陰府では神さまをほめたたえることはないと考えられていました(詩88参照)。死者の領域である陰府は、命の主である神さまとの交わりから切り離されていると考えられていたのです。そのような陰府に、あなたは、わたしの魂を渡すことはないはずだとダビデは記すのです。それは、ダビデが、今、夜ごとに、主との親しい交わりに生きているからです。
また、ダビデは、自分だけではなく、「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださる」と記します。「あなたの慈しみに生きる者」とは、「あなたに忠実な者」のことです(聖書協会共同訳参照)。これは、文脈から言えば、主は御自分に忠実な者を死の危険から救い、生きながらえさせてくださるということでしょう。しかし、主が教えてくださる命の道は、長生きするための処世術ではありません。命の源である神さまの御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただくという満ち満ちた命に生きる道であるのです。そのような命の道を、私たちは、死者の中から復活させられた主イエス・キリストにあって教えられているのです。命の主である神さまは、御自分に忠実なイエス・キリストを朽ち果てるままにされませんでした(使徒2:24~32参照、「墓穴を見させず」は、ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書だと「朽ち果てるままにしておかれない」と訳されている)。神さまは、イエス・キリストを死者の中から朽ちることのない栄光の体で復活させられたのです(一コリント15:42参照)。イエス・キリストだけではなく、イエス・キリストを信じる私たちをも、終わりの日に復活させてくださるのです。私たちにとっての「命の道」は、復活して今も活きておられるイエス・キリストであります(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」参照)。命の道であるイエス・キリストを信じて生きるとき、主を喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただくことができるのです。