主の御前に誰が立つことができるか 2020年12月16日(水曜 聖書と祈りの会)

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主の御前に誰が立つことができるか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 6章13節~7章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:13 ベト・シェメシュの人々は谷あいの平野で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
6:14 車はベト・シェメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まった。そこには大きな石があったので、人々は車に使われた木材を割り、雌牛を焼き尽くす献げ物として主にささげた。
6:15 レビ人たちは主の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱とを下ろし、大きな石の上に置いた。その日ベト・シェメシュの人々は、焼き尽くす献げ物や、他のいけにえを主にささげた。
6:16 ペリシテの五人の領主はこれを見届けると、その日のうちにエクロンへ戻った。
6:17 ペリシテ人が、主に賠償の献げ物として送った金のはれ物は、アシュドドのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガトのために一つ、エクロンのために一つである。
6:18 金のねずみの数は、ペリシテの砦の町から田舎の村まで、五人の領主に属するペリシテ人のすべての町の数に合っていた。主の箱が置かれた大きな石は、今日でも、ベト・シェメシュの人ヨシュアの畑にある。
6:19 主はベト・シェメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は五万のうち七十人の民を打たれた。主が民に大きな打撃を与えられたので、民は喪に服した。
6:20 ベト・シェメシュの人々は言った。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか。」
6:21 彼らはキルヤト・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してきました。下って来て、主の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください。」
7:1 キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。サムエル記上 6章13節~7章1節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記上』の第6章13節から第7章1節より、「主の御前に誰が立つことができるか」という題でお話しします。

 主の箱は、車に載せられ、二頭の雌牛に引かれて、イスラエルのベト・シェメシュ(「太陽の家」の意)へ上って行きました。ベト・シェメシュの人々は、谷あいの平野で小麦を刈り入れていました。目を上げると、二頭の雌牛に引かれた車の上に、主の箱が見えました。ペリシテ人によって奪われた、主の箱が、戻って来たのです。彼らはそれを見て喜びました。車はベト・シェメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まりました。そこには大きな石があったので、人々は車に使われた木材を割り、二頭の雌牛を焼き尽くす献げ物として主にささげました。この車と雌牛は、主のご用のために聖別されたものであったからです。ベト・シェメシュは、レビ人が住んでいる町でありました(ヨシュア21:16参照)。ですから、献げ物を主にささげたのは、レビ人であったと思います(申命10:8参照)。レビ人たちは、主の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱とを下ろし、大きな石の上に置きました。その日ベト・シェメシュの人々は、主に焼き尽くす献げ物や、他のいけにえをささげました。この「他のいけにえ」には、いけにえの肉を食べる和解の献げ物も含まれていたようです。ベト・シェメシュの人々は、食べたり飲んだりして、主の箱が戻って来たことを喜び祝ったのです。主の箱の後をつけて来たペリシテの五人の領主は、そのようすを見届けると、その日のうちにエクロンへ戻りました。彼らは、主の箱をイスラエル人のもとに送り返せたことを見届けて、安心して帰って行ったのです。17節と18節には、ペリシテ人が、主に賠償の献げ物として送った金の品物について記されています。ペリシテ人は、自分たちの五つの町、アシュドド、ガザ、アシュケロン、ガト、エクロンのために、五つのはれ物の金の模型を作って、ささげました。また、ペリシテ人のすべての町の数に合わせて、金のネズミの模型を作り、ささげました。これらは、ペリシテ人の祭司たちと占い師たちの指示によるものですが、金のネズミの数が違っています。4節によると、金のネズミもペリシテの領主の数に合わせて五つでありました。しかし、実際に、金のネズミの数は、それよりも多かったようです。ペリシテ人は、作物を食い荒らすネズミの被害がでた町の数に合わせて、金のネズミを作り、主にささげたのです。主の箱が置かれた大きな石は、この書物が記された当時も、ベト・シェメシュの人ヨシュアの畑にありました。人々は、その大きな石を見て、二頭の雌牛に引かれた車で戻って来た神の箱を、まざまざと思い描くことができたのです。

 ベト・シェメシュの人々は、主の箱が戻って来たことを喜び祝ったのですが、思いもよらないことが起こりました。主はベト・シェメシュの人々を打たれたのです。聖書は、その理由を、「主の箱の中をのぞいたからである」と記しています。ベト・シェメシュの人々は、主の箱の中に何が入っているのかを見ようとして、蓋を開けて中をのぞいたのです。これは、主に対する不敬虔な行為でありました。それで、主は七十人の民を打たれたのです。主が民に大きな打撃を与えられたので、民は喪に服しました。ベト・シェメシュの人々は、こう言いました。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか」。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか」とは、「誰も立つことができない」という意味であります。主はイスラエルの人々にとっても、聖なる神、近づきがたい畏るべき御方であるのです。かつてペリシテ人が、主の箱をたらい回しにしたように、ベト・シェメシュの人々も、主の箱を他の地に移すことにします。彼らは、キルヤト・エアリム(「森の町」の意)の住民に使いの者を送ってこう言いました。「ペリシテ人が主の箱を返してきました。下って来て、主の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください」。このベト・シェメシュの人々の言葉は、不正確であります。ペリシテ人が主の箱を返して来たのではなく、主の箱が自ら戻って来たのです。子牛を慕って泣く雌牛を、右にも左にもそれることなく、まっすぐに導かれたのは主でありました。主はただ戻って来たのではなくて、金の品物を携えて、ペリシテの五人の領主を後ろに従えて、勝利者としてイスラエルに凱旋したのです。ペリシテ人がささげた金の品物は、いわば戦利品であり、後をつけて来たペリシテの領主たちは、いわば捕虜であるのです。そのことをベト・シェメシュの人々は見抜くことができなかったので、彼らは主の箱の中をのぞくという不敬虔な振る舞いをしたのです。

 キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブ(「私の父は気前良い」の意)の家に運び入れました。そして、アビナダブの息子エルアザル(「神が助ける」の意)を聖別して、主の箱を守らせたのです。このようにして、主の箱は、ダビデによって、エルサレムに運ばれるまで、二十年以上もの間、キルヤト・エアリムに留まることになるのです。

 さて、今朝の奨励題を「主の御前に誰が立つことができようか」としました。喪に服したベト・シェメシュの人々にとって、その答えは、「だれもいない」でありました。しかし、聖書は、主の箱をエルサレムに移したダビデこそ、その人であると教えています。さらには、ダビデの子孫としてお生まれになったイエス・キリストこそ、主の御前に立つことができる御方、私たちをも主の御前に立たせることのできる御方であると教えているのです。今朝は、最後に、そのことを『ヘブライ人への手紙』から確認して終わりたいと思います。新約の405ページ。『ヘブライ人への手紙』第4章14節から16節までを読みます。

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 私たちは、本来、神の御前に立つことができない罪に汚れた者たちです。しかし、大祭司イエス・キリストのゆえに、私たちは神の御前に立つことができるのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、神の御前は、罪の刑罰を受ける恐れの場ではありません。イエス・キリストを信じる私たちにとって、神の御前は、時宜にかなった助けをいただく恵みの座であるのです。

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