神の顕現であるイエス 2020年12月13日(日曜 朝の礼拝)

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神の顕現であるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章45節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。マルコによる福音書 6章45節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の人を満腹させられたことを学びました。イエスさまは、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れむ羊飼いとして、群衆を青草の上に座らせ、食卓を整えてくださったのです。そして、その食卓は、パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになるほど、豊かなものであったのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1.山で祈るイエス

 群衆を満腹させられたイエスさまは、それからすぐ、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせられました。なぜ、イエスさまは、弟子たちを強いて舟に乗せ、ベトサイダへ行かせたのでしょうか。それはおそらく、弟子たちを群衆から引き離して、休ませるためであったと思います。そもそもイエスさまと弟子たちが人里離れた所に来たのは、しばらく休むためでありました。ですから、イエスさまは、弟子たちを休ませるために、強いて舟に乗せ、ベトサイダへ行かせたのです。イエスさまは、その間に、群衆を解散させられました。イエスさまは群衆を空腹のまま去らせることなく、お腹を満たして、それぞれの家へと帰らせたのです。イエスさまは群衆と別れてから、祈るために山へ行かれました。旧約聖書において山は、神さまが臨在される、神さまとの交わりの場でありました(例えばシナイ山)。その山で、イエスさまは、父なる神さまに祈っていたのです。

2.湖の上を歩くイエス

 夕方になると、弟子たちを乗せた舟は湖の真ん中に出ていました。他方、イエスさまは陸地(山)におられました。逆風のために、弟子たちは漕ぎ悩んでおりました。向かい風のために、漕いでも漕いでも舟が前に進まないのです。その弟子たちの様子をイエスさまは見ておられました。そして、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされたのです。湖は激しい逆風のため、波立っていたと思います。その湖(海)の荒波をイエスさまは踏み砕くようにして歩まれて、弟子たちのところに来てくださったのです。このことは、イエスさまがなされた驚くべき奇跡(力ある業)でありますが、何を意味しているのでしょうか。その答えを知る手がかりが、『ヨブ記』の第9章8節であります。そこにはこう記されています。「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」。聖書において、海は死者の領域であり、制御できない混沌(カオス)であります。しかし、神さまは、海の高波を踏み砕かれる御方であるのです。イエスさまが、湖の上を歩かれたことは、イエスさまが、海の高波を踏み砕かれる神その方(神の子)であることを示しているのです。

 湖の上を歩いて弟子たちのところに来たイエスさまは、そばを通り過ぎようとされました。どうして、イエスさまは、弟子たちのそばを通り過ぎようとされたのでしょうか。その答えを知る手がかりが、『出エジプト記』の第33章に記されています。旧約の150ページです。18節から23節まで読みます。

 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目にいれ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

 かつて、主がモーセのそばを通り過ぎたように、イエスさまも、弟子たちのそばを通り過ぎようとされたのです。そのようにして、イエスさまは、御自分が神その方(神の子)であることを示そうとされたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の73ページです。

3.神の顕現であるイエス

 弟子たちは、イエスさまが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫びました。時は夜明け前であり、場所は湖の真ん中ですから、弟子たちが、イエスさまのことを幽霊だと思って怖がったのも無理はないと思います。弟子たちは、イエスさまを見ておりながら、脅えたのです。弟子たちは、イエスさまが湖の上を歩いて来られるとは、思いもしなかったのです。イエスさまは、怯える弟子たちとすぐ話し始められました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。「安心しなさい」と訳されている言葉(サルセオー)は「勇気を出しなさい」とも訳すことができます。『ヨハネによる福音書』の第16章33節に、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というイエスさまの御言葉がありますが、それと同じ言葉がここで用いられているのです。ちなみに、新改訳2017では、「しっかりしなさい」と翻訳されています。

 イエスさまは、御自分を見ながらも脅える弟子たちに、「わたしだ」(エゴエイミー)と言われました。このイエスさまの御言葉は、「わたしはある」という神さまの御名前を思い起こさせます。『出エジプト記』の第3章に、神さまがホレブの山でモーセに現れたことが記されています。モーセが神さまの御名前を尋ねると、神さまはモーセにこう言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。「主」と訳される「ヤハウェ」という御名前は、「わたしはある」と訳されるヘブライ語(エヒイェ)に由来するのです。ですから、イエスさまが、「わたしだ」と言われたとき、それは、イエスさまが「あなたたちと共にいる」、主、ヤハウェその方であることを示しているのです。

 さらに、イエスさまは「恐れるな」と言われます。これも、神さまが御自分に出会った者たちによく言われる言葉です。例えば、『創世記』の第15章で、主はアブラムにこう言われました。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である」。このように、今朝の御言葉には、神の顕現(はっきりと現れること)を表す言葉がふんだんに用いられているのです。今朝の御言葉は、私たちに、海の荒波を踏み砕き、弟子たちの側を通り抜け、「わたしである。恐れるな」と言われるイエスさまこそ、主、ヤハウェその方であることを示しているのです。しかし、弟子たちには、そのことが分かりませんでした。弟子たちは非常に驚いただけであったのです。福音書記者マルコは、その理由を次のように記しています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」。パンの出来事とは、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にさせた出来事のことです。弟子たちは、イエスさまからパンと魚を与えられ続け、群衆に配るという仕方で、イエスさまの業にかかわりました。彼らは、一人ずつ、パン屑と魚の残りでいっぱいになった籠を持ったのです。しかし、その時も、弟子たちは、このパンの出来事が何を意味しているかは悟ることができませんでした。前回の説教で、わたしはパンの出来事を、『詩編』第23編から読み解き、イエスさまこそ羊飼い、王であるとお話ししました。パンの出来事は、イエスさまこそ、イスラエルの民を深く憐れみ、草原に横たわらせ、食卓を整えてくださる主であることを示しているのです。ですから、このパンの出来事を理解していれば、弟子たちは非常に驚くことはなかったはずだとマルコは記すのです。パンの出来事を理解しなかった弟子たちの心は、鈍くなっていた、頑なになっていたのです。それほどまでに、神さまが人となって現れてくださったというイエス・キリストの出来事は信じがたい出来事であったのです。イエス・キリストにおいて、神が顕現されたという出来事は、それほど信じがたい出来事であったのです。

4.病を癒す主イエス

 イエスさまが舟に乗り込まれると、風は静まりました。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着きました。弟子たちの目的地は、ベトサイダでありましたが、着いたのはゲネサレトでありました。ここでも、多くの人々、特に病を患って苦しんでいる人々がイエスさまのもとに集まって来ます。しかし、ここで、イエスさまは積極的に癒しの業をしておられません。イエスさまが、手を置いて癒したとは記されていません。イエスさまは服のすそを病人に触れさせるだけです。そして、触れた者は皆いやされたのです。第5章に記されていた、12年間も出血の止まらない女のように、人々は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じて、イエスさまの服のふさに触ったのです。そして、触った人は皆、癒されたのです。ここでも、イエスさまが主なる神、その方であることが示されています。『出エジプト記』の第15章26節に、「わたしはあなたをいやす主である」と記されています。多くの人を癒されるイエスさまこそ、主であられるのです。もちろん、群衆はそこまで理解していません。弟子たちにも、また群衆にも、イエスさまが誰であるかは、まだ隠されているのです。イエスさまが、主その方であると知るには、啓示を受ける心の目が開かれる必要があるのです。私たちは、イエスさまから心の目を開いていただいたゆえに、イエスさまこそ、主なる神、その方であると知ることができたのです(ルカ24:45、46参照)。そして、信仰をもって、「主イエス・キリストよ」と親しく呼ぶことができるのです。

結.勇気を出せ、わたしだ、恐れるな

 代々の教会は、逆風のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに、自分たちの姿を重ねて来ました。弟子たちが強いて乗せられた舟は教会であり、教会の歩みは、逆風のために、なかなか前進しません。このことは、コロナウイルスの災いの中を歩んでいる私たちにもよく分かることです。逆風の中で、漕ぎ悩んでいる弟子たち、それは私たちのことであるのです。その私たちの姿を、イエスさまは山に象徴される天から、見ておられます。そして、イエスさまは、海の高波を踏み砕かれる主として、私たちのところに来てくださるのです。そして、「勇気を出しなさい。わたしはあなたと共にいる。恐れてはならない」と言われるのです。そのイエスさまの御言葉を、私たちは聖霊によって開かれた、柔らかな心で受け入れたいと願います。

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