まことの神に仕える 2008年8月03日(日曜 朝の礼拝)
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テサロニケの信徒への手紙一 1章1節~10節
聖書の言葉
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
1:4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
1:5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
1:8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
1:9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
1:10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。テサロニケの信徒への手紙一 1章1節~10節
メッセージ
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はじめに.
今朝は、テサロニケの信徒への手紙一第1章9節を中心にしてお話しをいたします。
1.パウロたちはどのように迎え入れられたか
前回学んだ8節にこう記されておりました。
主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
パウロは、ここで、「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている」と述べておりますが、続く9節と10節は、言い伝えられている信仰の内実、その内容と言うことができます。パウロたちが訪れる教会において、パウロたちが口にするよりも先に、その土地のキリスト者たちがテサロニケの教会の信仰を言い広めていたのです。そればかりか、パウロたちについても言い広めていたのです。9節から10節をお読みします。
彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。
ここでの「彼ら」は、至るところでテサロニケ教会の信仰を言い広めているキリスト者たちのことであります。彼らは、パウロたちがテサロニケでどのように迎えられたかを言い広めておりました。その様子については、第2章13節にこう記されています。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」
テサロニケの信徒たちは、パウロたちの説教を人の言葉ではなく、神の言葉として受け入れたのでありました。つまり、彼らはパウロたちをキリストの使徒として迎え入れたのです。開拓伝道を行い、また教会を巡回し教えるパウロたちに取りまして、自分たちがどこの教会で、どのように受け入れられたかということは、とても大切なことでありました。このことは、教会が新しく牧師を招くことを考えればよく分かります。通常、新しく牧師を招くとき、招聘委員会が組織されますが、たとえばそこで何名かの候補者が上がったとします。そのとき皆が注目するのは、その教師が、どこの教会で、どのような働きをしたかということでありましょう。その牧師が奉仕してきた教会が模範的な伝道熱心な教会であり、その牧師の説教は、聴衆から神の言葉として受け入れられていたということになれば、安心して招くことができるわけです。パウロがまだ自分のことをよく知らない人々の間で働くとき、テサロニケの教会でパウロがキリストの使徒として迎え入れられた事実は、パウロたちの福音宣教に大きな益をもたらしたと考えられるのです。
2.偶像を離れて
次に、彼らが言い広めていたことは、テサロニケの信徒たちがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、ということでありました。使徒言行録の第14章に、リストラの人々が、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んで、いけにえをささげようとしたことが記されておりますが、そこでパウロはこのように述べております。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださったのです。」
おそらくパウロは、テサロニケでもこれと同じようなことを語っていたのだと思います。パウロは、自分たちが伝えている神こそ、生ける神であり、天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られたお方であると語りました。これは、私たちが告白しているウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、神の創造の御業であります。また、さらにパウロは、「この神が恵みをくださり、天からの雨を降らせして実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださったいる」と述べておりますが、これは神の摂理の御業であります。つまり、パウロは、世界とそこに満ちるものを造り、保ち、治め、導いておられるお方こそ、生けるまことの神であると教えているのです。これは、何もパウロが発見したことではなくて、旧約聖書の至るところに記されていることなのです。一つだけ例を挙げますと、エレミヤ書の第10章1節から16節にこのように記されています。
イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。もろもろの民が恐れるのは空しいもの/森から切り出された木片/
木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ/留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず/歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも/幸いをもたらすこともできない。主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方/御名には大いなる力があります。諸国民の王なる主よ/あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも/あなたに並ぶものはありません。彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。それはタルシシュからもたらされた銀箔/ウファズの金、青や紫を衣として/木工や金細工人が造ったもの/いずれも、巧みな職人の造ったものです。主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え/その憤りに諸国の民は耐ええない。このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は/地の上、天の下から滅び去る、と。御力をもって大地を造り/知恵をもって世界を固く据え/英知をもって天を広げられた方。主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を沸き上がらせ/稲妻を放って雨を降らせ/風を倉から送り出される。人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず/霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られるもの/裁きの時が来れば滅びてしまう。ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり/イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。
このエレミヤ書の御言葉からも分かりますように、偶像とは人間を造った神ではなく、人間によって造られた神々のことを言うのです。まことの神が、人間を造り、人間に命をお与えになられたお方であるのに対して、偶像は、人間によって造られたものであり、身動きすることも語ることもできない霊を持たないものなのです。このことは細々と説明する必要のない、私たちが実際の生活において目にしているものであります。自分のことを話して恐縮ですが、実家に帰れば仏壇がありまして、正月に兄弟の家族が集まりますと、私たち家族以外は、仏壇の前で手をあわせます。その仏壇には、木で造られた仏像が置いてありまして、わたしはどうして、このようなものを拝むのだろうと不思議に思うわけです。しかし、今でこそ、そう思うのでありまして、キリスト者となる前は、わたしも当然のように仏壇の前で手をあわせる者であったのです。神社に行けば、お賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、お願いごとをしていたのであります。そのようなかつてのことを思い起こすならば、むしろ、なぜ、今自分は仏壇の前で手を合わせなくなったのか。木で造ったものなど、拝むに価しないと思うようになったかの方が不思議なことであるかも知れません。この世界には多くの神々がおり、それぞれが自分の価値観に従って信じていれば、それでよいではないかという宗教観から、生ける真の神は、イエス・キリストの父なる神だけであり、他は人間が造った偶像にすぎないという宗教観を持つようになったのはなぜか。それは、私たちが本物の神さまに出会ったからであります。本当の神さま、生けるまことの神さまにイエス・キリストを通して出会ったからです。神さまの方から、私たちに御自身を現してくださったのです。そもそも、本物を知らないとそれが偽物かどうかは分からないのですね。時々ニュースで、ブランド品の偽物が出回っているということを聞きますが、その商品が偽物であるかどうかは、本物と比較してはじめて分かるわけです。
3.神に立ち帰る
テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。
パウロは、「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」と記しましたが、このところについてある説教者は、現代の多くの人が、金や銀で作った偶像からは離れたが、他の多くの偶像を造り出していると指摘しています。その偶像とは、ある人にとっては科学技術であり、ある人にとっては人間の理性であると言うのです。福音書を見ますと、イエスさまの時代、富が偶像視されていたことが分かります。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と仰せになりました(ルカ16:13)。また、後にパウロは、コロサイの信徒への手紙の中で、「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」と語っております。自分が第一に依り頼むもの、人生の第一の目的が真の神さま以外であるならば、それがその人にとっての偶像となるのです。それゆえ、神さまは申命記の第6章でこう命じられたのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」また、イエスさまも弟子たちにこう仰せになりました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)
ここでの「憎む」は、ユダヤ的な表現でありまして、「より少なく愛する」ということであります。ですから、イエスさまがここで求めておられるのは、「肉親であろうと、自分の命であろうと、わたしより愛してはいけない。わたしを誰よりも、自分の命よりも愛さなければいけない。」ということです。なぜ、イエスさまはこのような厳しいことをお求めになるのか。このことは先程の申命記の御言葉と重ね合わせるとよく分かります。なぜ、イエスさまは弟子たちに自分の命よりもわたしを愛さなければならないと言われたのか。それはイエスさまが、まことの神の御子であられるからです。神の御子であるイエスさま以上に愛するものがあるならば、それがその人にとっての偶像となってしまうからであります。このように考えてくると、わたしはもう仏壇に手をあわせないから大丈夫とは安心できないのではないでしょうか。このように礼拝に集っている私たちも、自分の心の王座をイエス・キリストに明け渡しているかどうか、改めて、自らに問うてみたいと思います。自分が何よりイエス・キリストを愛しているか。その愛をもってイエス・キリストの言葉を信じ従っているか。もしそうでなければ、私たちは自分が偶像としているものを捨てて、神に立ち帰らねばならないのです。
むすび.まことの神に仕える
ここで「生けるまことの神に仕える」とありますが、この「仕える」と訳されている言葉は、より正確に訳すと「奴隷として仕える」「しもべとして仕える」となります。聖書は、神さまを「主」と呼んでおります。また、イエス・キリストも「主」と呼ばれています。この手紙の挨拶にも、「主イエス・キリスト」とありました。この「主」という言葉は、「主人」とも訳せる言葉です。私たちが神さまを「主なる神」と呼び、イエス・キリストを「主イエス・キリスト」と呼ぶことは、自分が主人持ちであること、つまり自分はその方のしもべであることを言い表しているのです。私たちが「しもべ」と聞きますと、あまり良いイメージを持たないと思います。けれども、旧約聖書において、「神のしもべ」と呼ばれることは、大きなほまれでありました。そのことは、アブラハムやモーセやダビデが、神さまから「わがしもべ」と呼ばれていることからも分かります。それゆえ、パウロもしばしば手紙の挨拶の中で、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と言い表したのです(ローマ1:1、フィリピ1:1)。私たちが、神さまを、またイエスさまを主と呼ぶのは、このお方が全てを造られた所有者であり、すべてを治めておられる支配者であるという以上に、イエス・キリストの血潮によって、罪の奴隷から神の奴隷へと贖われた事実によります。私たちは、生きるにしても、死ぬにしても、主のものとされているのです。それゆえ、私たちが神さまに仕えるのは、このような礼拝だけに限られない。私たちは、生活の全ての領域において神さまにしもべとして仕えることが求められているのです。私たちは、いつでも、どこでも、生ける真の神さまを主と仰ぎ、仕えるしもべとされているのです。
今朝は最後に、ローマの信徒への手紙第6章15節から23節までを読んで終わりたいと思います。
では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
最後の23節で、「報酬」と「賜物」という別の言葉が用いられていることに注目したいと思います。罪が主人であったときは、私たちの働きの当然の報いとして死がもたらされました。しかし、新しい主人である神さまは、私たちの働きに関係なく、主イエス・キリストによる永遠の命を恵みとして与えてくださるのです。私たちは、イエス・キリストにあって、この恵み深い、憐れみ深い神さまのしもべとしていただいているのです。そして今、私たちは神さまのしもべとして聖餐の恵みに与ろうとしているのです。