あふれる感謝 2008年7月13日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
1:4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
1:5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
1:8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
1:9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
1:10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。テサロニケの信徒への手紙一 1章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 前回は、1節から、この手紙の差出人と受取人について、さらには挨拶の言葉について学びました。今朝は、それに続く感謝の部分を学びたいと思っております。具体的には、2節から5節までを中心にお話ししたいと思っております。

1.挨拶に続く感謝

 紀元1世紀のギリシア・ローマ世界において、手紙が重要な通信手段であり、そこには一定の形式がありました。パウロは、その形式を踏襲しつつ、なおかつそれをキリスト教会への手紙としてアレンジして、この手紙を書いたのであります。そして、そのことは、今朝学ぼうとしている感謝の部分にも言えることなのです。なぜなら、この感謝は、テサロニケの信徒たちへの感謝というより、神さまへの感謝であるからです。もっと厳密にいえば、主イエス・キリストの父なる神への感謝だからであります。

 今朝は、2節から5節までを中心にお話ししたいと申しましたが、実は、もとの言葉では、2節から5節までは長い一つの文なのです。日本語の翻訳では、読みやすいように句読点を打っておりますけども、もともとは一続きの文なのです。「思い起こす」(2節)「心に留める」(3節)「知っている」(4節)という動詞は分詞形で記されており、「感謝しています」(2節)という主動詞にかかっているのです。つまり、パウロは、ここで3つのことについて感謝しているわけです。思い起こして感謝し、心に留めて感謝し、知っているので感謝しているのです。今朝はその一つ一つをご一緒に見てゆきたいと思います。

2.思い起こして

 2節をお読みいたします。

 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。

 ここで教えられることは、パウロがテサロニケの信徒たちのためにいつも祈っていたということです。使徒言行録によれば、パウロは、ユダヤ人の迫害によって、やむを得ずテサロニケをあとにいたします。それこそ、闇夜に紛れて、夜逃げするのです。そして、パウロは、この手紙をコリントにおいて書き記しているのです。コリントにおいても、パウロはテサロニケの信徒たちのことを忘れることはありませんでした。祈りの度に、彼らのことを思い起こして、神さまに感謝していたのです。言い換えれば、パウロはコリントにいても、テサロニケの教会の牧師であり続けたということです。牧師の大切な仕事の一つ、それは委ねられた信徒一人一人を思い起こして祈るということであります。

 私たちの教会では、ときどき講壇交換をして、他の教会の先生に説教していただくことがあります。先月も、埼玉東部地区の交わりの一環として、草加松原教会のT.M先生に説教していただきました。その際、わたしは週報に、「T.M牧師」とは記さず、「T.M先生」と記しました。これは、小さなこだわりかも知れませんが、この教会の牧師はわたしであるという自負心によるものであります。日本キリスト改革派教会には、多くの牧師がおります。東部中会だけでも、35名もの牧師がいます。しかし、当然のことかも知れませんけども、羽生栄光教会の牧師はわたししかいないと思っているのです。もちろん、かつて羽生栄光教会の牧師であった先生はおられますけども、今、この群れを委ねられているのは、わたしなのです。なぜ、そのように言い切ることができるのか。それは、わたしが皆さんお一人お一人のことをいつも祈りに覚えているからです。

 私たちの教会では、火曜日、水曜日と祈祷会をしておりますけども、その祈祷会でのある長老の祈りを聞いて、これこそ牧師が祈るべきことではないかといつも思わされております。お一人、お一人のことを、またひと家族ひと家族のことを、時には具体的な名前を出してお祈りされるその姿にいつも教えられるわけです。そのような長老の祈りに良い刺激を受けながら、わたしも毎日、お一人お一人のことを覚えて祈っているのです。そのとき、大きな助けとなるのが、教会員名簿であります。わたしはお祈りするとき、会堂でお祈りするのですが、その際、聖書と教会員名簿を読んでから、お祈りをいたします。お一人お一人のことを思い起こしながら、とりなしの祈りをささげるのです。しかし、どうもそこで、神さまに感謝するということが少ないのではないかと、この2節の言葉を読んで思わされたわけです。パウロがテサロニケの信徒一同について神さまに感謝している理由については、具体的には、3節から5節に記されておりますけども、それに先立つ2節において、パウロは、彼らの存在そのもののことで、神さまに感謝をささげているのです。パウロは、第2章7節で、自分たちを母親に喩えておりますけども、この2節の感謝は、ちょうど母親が子どもが生まれたこと、生まれた子どもの存在そのものを神さまに感謝するのと似ていると思います。羽生栄光教会に連なるお一人お一人のことを思い起こすとき、その人が、イエスさまを信じる者として今歩んでいることを、まず神さまに感謝しなければならないと思わされるのです。

 わたしは先程から自分のことを話しているようでありますけども、これまでお話ししたことは、皆さんお一人お一人についても言えるわけです。なぜなら、聖書は、私たち一人一人が互いに祈り合うことを求めているからです。そうであれば、私たちも互いのことで神さまに感謝をささげることができるし、また感謝すべきなのです。この感謝をことさら覚えるのは、やはり主の日の礼拝においてであります。今日もあの人が礼拝に出席している。そのことを主に感謝する。先週、礼拝を休まれた方が出席していたり、礼拝から遠のいていた方がひさしぶりに出席されると、ことさら主に感謝の思いを抱くものです。多くの兄弟姉妹と、また新しい方を交えて主を礼拝できることは、それだけで主に感謝すべきことであります。たとえ何らかの事情で礼拝に出席できなくとも、主がその人と共にいてくださり、恵みと平和をもって臨んでくださることを信じ、祈れることは、やはり主に感謝すべきことなのです。

3.心に留めて

 3節をお読みいたします。

 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

 ここには、テサロニケの信徒たちの姿が、信仰、愛、希望という徳目をもって描かれています。パウロは、その姿を心に留めながら、神さまに感謝しているのです。「信仰、愛、希望」と聞きますと、おそらく多くの方が、コリントの信徒への手紙一第13章13節を思い起こされると思います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」信仰、希望、愛と順番は違いますけども、3節に記されている、信仰、愛、希望に通じるものであります。しかし、ここでパウロは、ただ信仰、愛、希望とは記さず、「信仰によって働き」「愛のために労苦し」「希望をもって忍耐している」と記しました。これはいささか意訳でありまして、直訳すると「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」となるのです。なぜ、パウロは、「信仰、愛、希望」と書かず、「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」と記したのでしょうか。それは、テサロニケの信徒たちの信仰が働きとして表れ、彼らの愛が労苦として表れ、彼らの希望が忍耐として表れていたからです。彼らの信仰、愛、希望とは、頭の中だけの単なる思弁や概念ではなくて、働きや労苦や忍耐として表れる実践的なものなのです。働きのない信仰は無意味であり、労苦を厭う愛は偽りであり、忍耐を生み出さない希望は、本当の希望とは呼べません。信仰、愛、希望、この三つの徳目は、すべてのキリスト者に共通な基本的なあり方であると言われます。そうであれば、ここに私たちのあるべき姿が記されているとも言えます。信仰において働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐する。ここに、私たちキリスト者のあるべき姿が記されているのです。そしてパウロはのちに、コリントの信徒への手紙第13章で、信仰、愛、希望が聖霊の賜物であると教えているわけです。ですから、ここでの信仰、愛、希望とは、私たちが生まれつき持っている信仰、愛、希望ではなくて、聖霊の賜物としていただいているところの信仰、愛、希望なのです。それゆえ、パウロは、そのように歩んでいるテサロニケの信徒たちのことを心に留めつつ、神さまに感謝しているのです。神さまが、彼らに生きて働く信仰を与え、喜んで労苦する愛を与え、苦難を耐え忍ぶ希望をお与えになったからです。このところについて記したある人の文書の中に、「私たちもテサロニケの信徒たちに倣いましょう」とあるのでありますけども、わたしは、パウロはそのようなことを言いたいのではないと思います。むしろ、私たちが気づくべきことは、主イエスを信じている私たちにも、聖霊の賜物として、生きて働く信仰、喜んで労苦する愛、苦難を耐え忍ぶ希望が与えられていることであります。そのことに気づいて、私たちもパウロと共に、神さまに感謝をささげるとき、この御言葉はわたしたちのうちに働くものとなるのです。あるいは、自らを省み、悔い改め、聖霊の賜物である信仰、愛、希望を祈り求めるという仕方で、この御言葉は私たちの御言葉となるのであります。

 信仰、愛、希望、この三つは、キリスト者としての基本的あり方であると申しました。また、いつまでも残る聖霊の賜物でもあると申しました。この二つのことから言えることは、信仰、愛、希望という三つは、イエスは主であると告白するすべての者に与えられる聖霊の賜物であるということです。誰もが教える賜物を持っているわけではありません。また、誰もが管理する賜物をもっているわけではないのです。しかし、信仰、愛、希望、この三つは、すべてのキリスト者に与えられている聖霊の賜物なのです。なぜ、そのように言えるのか。少し先の6節を見ますと、テサロニケの信徒たちは、「主に倣う者となり」と記されています。主とは、主イエスのことです。主イエス御自身が、信仰によって働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐したお方でありました。ですから、主イエスの霊である聖霊の賜物は、信仰、愛、希望なのです。また、主イエスの弟子であるキリスト者は、信仰によって働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐すべきなのです。この3節を読むとき、主イエスのことを忘れてはなりません。主イエスは、誰よりも信仰によって働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐されたのです。いや、もっと言えば、主イエスだけが、信仰をもって働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐されたのです。そして、そのような生き方を、聖霊を通して私たちにも与えてくださるのです。主イエスは、私たち一人一人に聖霊を遣わしてくださり、私たちのうちに御自分に倣う新しい人をかたち造ってくださるのです。

4.知っている

 4節、5節をお読みいたします。

 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。

 5節の終わりに「御承知の通りです」とありますが、これは直訳すると「あなたがたは知っています」となります。そうするとお気づきになると思いますが、4節の終わりの「わたしたちは知っています」と対応関係にあるわけです。このことは、注目に値すると思います。パウロたちだけがテサロニケの信徒たちのことを知っているのではありません。テサロニケの信徒たちもパウロたちのことを知っていると言うのです。一方通行ではなく、互いに相手について知っているということであります。

 パウロは、テサロニケの信徒たちについて何を知っていたのでしょうか。それは彼らが「神に愛されている兄弟たちであり、神に選ばれた者たちである」と言うことです。「神に愛されている兄弟たち」これは、かつてのパウロならば、彼らに対して決して口にしなかった言葉であります。かつてのパウロ、キリスト教会を迫害し、律法に熱心であったパウロにとって、「神に愛されている兄弟たち」とは、同胞の民ユダヤ人のことでありました。律法を知らない異邦の民であったテサロニケ人に対して「神に愛されている兄弟たち」と呼びかけるなど、かつては考えられなかったことです。しかし、パウロは今、テサロニケ人たちに対して、「神に愛されている兄弟たち」と呼びかけるのです。それは、1節にありましたように、彼らが、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているからであります。ここで「兄弟たち」とありますが、これは当時の信仰共同体への決まった呼びかけでありまして、この中には、もちろん女性も含まれています。ですから、ある英語の翻訳聖書は、「brothers and sisters」、「兄弟姉妹」と訳しています。新共同訳聖書は、「兄弟たち」と原文どおり訳しておりますけども、ここに女性も含まれることをいつも念頭においていてだきたいと思います。

 愛されていることと選ばれていること、これは一つのことであると言えます。なぜなら、神の選びは、神の愛に基づくものであるからです。この選びの教理は、のちにエフェソの信徒への手紙の中で展開されることになります。エフェソの信徒への手紙第1章3節から7節にこう記されています。

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

 パウロは、神の選びを「天地創造の前から定められているキリストにある選び」と言い表しています。「天地創造の前から」とは、神さまが無条件に自由な主権をもって定めておられるということです。また、キリストにある選びとは、神の選びの対象はキリストであって、私たちはそのキリストに結ばれているがゆえに選ばれているということです。それでは、天地創造の前から定められているキリストにある選びを、どのようにして知ることができるのでしょうか。つまり、パウロたちは、あるテサロニケ人たちが、神に愛され、神から選ばれたことをどのようにして知ったのでしょうか。その根拠が5節に記されています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」わたしたちの福音、これはイエス・キリストにおいて実現した救いの良き知らせであります。その福音を、あなたがたは受け入れた。それは、言葉だけによるものではなく、神の力、聖霊の確信によるものなのだとパウロは言うのです。私たちが福音を受け入れたのは、それを伝えてくれた人の話術が優れていたからではなく、それを聴く私たちの心に聖霊が働いてくださり、それを神の真実の言葉として受け入れさせてくださったからなのです。聖霊による確信を与えられて、私たちは公にイエスは主であると言い表し、洗礼を受けたのであります。そのようにして、私たちは、聖霊の賜物である信仰、愛、希望にあずかるものとなったのです。ですから、私たちは互いに、「あなたが愛されていること、神さまに選ばれていることをわたしは知っています」と言うことができるのです。礼拝に出席することによって、私たちはそのことを確認し、神さまに感謝をささげることができるのです。ここに集う私たちが、お互いをそのような眼差しで見ることができれば、どんなにすばらしいでしょうか。私たちは、今朝、主イエスを信じている私たちが神さまに愛されている兄弟姉妹であり、神さまからキリストにあって選ばれていることをはっきりと胸に刻みたいと思います。まだ信仰を言い表していない契約の子どもたち、求道中の方々をも、この神の選びのご計画のうちにあることを信じて、私たちはあたたかな眼差しを向けてゆきたいと願います。

 それでは、こんどは反対に、テサロニケの信徒たちは、パウロたちをどのように知っていたのでしょうか。パウロは「わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかを」テサロニケの信徒たちは知っていると言うのです。これは、おそらく、パウロたちも「力と、聖霊と強い確信とによって」福音を宣べ伝えたということでありましょう。つまり、聴く側にも語る側にも、同じ聖霊が働いてくださったということです。それゆえ、パウロたちも、テサロニケの信徒たちも、本当の意味で「知っています」ということができたのです。「知っています」とは、単なる知識のことではなくて、交わりにおいて経験的に知ることであります。私たちが、互いにキリスト者であることを知っているのは、それは礼拝という交わりに基づく知識によるのです。パウロは、福音を受け入れたテサロニケの人々が、主に選ばれた者たちであることを信頼して、御言葉を語りました。また、パウロの福音を受け入れたテサロニケたちも、パウロたちの語る言葉を、力と聖霊による言葉、つまり神の言葉として受け入れたのです。ここに、説教者と聴衆のまことに幸いな関係があります。互いのうちに同じ聖霊の働いておられることを信じるがゆえに、信頼し合うことができる、まことに幸いな関係があるのです。

むすび.あふれる感謝

 わたしがこの教会に、赴任してもうすぐ丸5年が経とうとしておりますけども、そこで目指してきたことは、教会員との信頼関係を築くことであります。わたしが赴任して間もなく、他の教会のある長老に、「わたしのような若い牧師が、教会員に信頼してもらうためにはどうすればよいか」と尋ねたことがあります。すると、その長老は、「毎週、毎週の説教を誠実に語ることだ」と教えてくれました。そのことを肝に銘じて、これまでも説教に取り組んで来たし、これからも説教に取り組んで行きたいと思います。わたしの説き明かす御言葉が、神の力と聖霊の確信によって、皆さんの心に届き、生きて働くものとなるようにといつも祈っております。また、そのことをこれまで経験させていただいたことを信じて、ご一緒に、神さまに感謝をささげたいと願うのであります。

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