神の家族である教会 2014年1月05日(日曜 朝の礼拝)
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神の家族である教会
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- 村田寿和 牧師
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エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節
聖書の言葉
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節
メッセージ
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今朝は、新年最初の礼拝であります。週報の表紙にありますように、2014年の年間テーマは、「神の家族である教会」、年間聖句は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイによる福音書12章50節)であります。この年間テーマと年間聖句を選ばせていただいたのは、教会員の中に、高齢の方や、様々な弱さを覚えている方が多くなっている現状にありまして、教会が主にある兄弟姉妹であり、神の家族であることを覚えて、互いに励まし合い、助け合いながら歩んで行きたいと願ったからです。年間聖句のマタイによる福音書12章50節については、いずれ学ぶことになると思いますので、新年最初の礼拝では、エフェソの信徒への手紙2章11節から22節の御言葉に聞きたいと願います。このところを選ばせていただいたのは、19節に、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と記されているからです。神の家族であるとは、神さまとの最も親しい交わりにあるということであります。年間テーマに「神の家族である教会」とありますように、私たちは神さまとの最も親しい交わりに生きるものとされているのです。しかし、このことは、当然のこと、当たり前のことではありません。むしろ、以前の私たちからすれば考えられないことであるのです。
11節から13節までをお読みします。
だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロが、紀元63年頃、ローマの軟禁状態において、小アジアのエフェソの教会に宛てて記した手紙であります。エフェソの教会の多くは、いわゆる異邦人でありました。そのことをパウロは、ここで心に留めておくように、思い起こすようにと記すのです。イエス・キリスト以前、異邦人とはユダヤ人以外の民族のことを指しておりました。ですから、旧約時代の区分からすれば、私たちも以前は異邦人であったのです。異邦人であったかつての私たちは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていたのです。このことは、イエス・キリストを信じる前の自分自身のことを考えてみれば、よくお分かりいただけると思います。異邦人であるということは、神の民ではないということです。そのことは契約のしるしである割礼を受けていないということに端的に示されておりました。旧約聖書の創世記17章に記されているように、神さまはアブラハムとその子孫に、契約のしるしとして、割礼を受けることを命じられたのです。ですから、「割礼のない者」とは、神さまの契約と関係のない者であることを意味していたわけです。それゆえ、パウロは、かつての私たちがキリスト、救い主とかかわりなく、イスラエルの民に属さず、救い主を与える約束を含むもろもろの契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていたと記すのです。「この世の中で希望を持たず」とありますが、これは少し言い過ぎではないかと思われるかも知れません。しかし、ここでの「希望」は見えないものに対する希望であり、もっと言えば、神の栄光にあずかるという希望であるのです。世の過ぎ去っていく希望ではなくて、永遠に変わらない、死に打ち勝つ希望であるのです。そのような希望を、いわゆる異邦人であった私たちは持っていなかったのです。また、パウロは、「神を知らずに生きていました」と記しておりますが、これは、「唯一の生けるまことの神を知らずに生きていた」ということであります。使徒言行録の19章にありますように、エフェソには、アルテミスの神殿がありました。ですから、以前のエフェソの信徒たちも神々を礼拝する者であったのです。しかし、パウロは、「神を知らずに生きていました」と記すのです。それはここでの「神」が天地万物をお造りになり、総べ治めておられる、イスラエルをエジプトの地から導き出した唯一の生けるまことの神であるからです。私たちも、いわゆる異邦人であったとき、神社やお寺でお参りをしたことがあったと思います。しかし、そのような私たちも、「神を知らずに生きていた」のです。このように、以前の私たちは、神さまから遠く離れていた者たちであったのです。しかし、そのような私たちが、聖なる民に属する者、神の家族となることができたのはなぜでしょうか?肉に割礼を受けることによってでしょうか?そうではありません。私たちは、肉に割礼を受けて、ユダヤ人となって、聖なる民に属する者、神の家族となったのではないのです。私たちは、割礼の無いまま、いわゆる異邦人のまま、神に近い者とされたのです。それはひとえに、キリスト・イエスのゆえであるのです。私たちは、以前は遠く離れていた者たちでありましたが、今やイエス・キリストの十字架の贖いによって、近い者とされたのです。
14節から18節までをお読みします。
実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
パウロは、「実に、キリストは私たちの平和であります」と記します。ここでの「わたしたち」とは、ユダヤ人と異邦人とからなる教会としての「わたしたち」です。なぜ、「キリストは私たちの平和である」と断言できるのでしょうか?それはキリストが、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださったからです。ここでの「二つのもの」とは、ユダヤ人と異邦人のことを指しています。ユダヤ人と異邦人が一つになることなど、おおよそ考えられないことでありました。なぜなら、ユダヤ人と異邦人は、互いに敵対し合っていたからです。それこそ、互いに敵意を持っていたのです。しかし、イエス・キリストは、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊してくださることによって、ユダヤ人と異邦人とを一つにしてくださったのであります。パウロは、キリストが「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」てくださったと記しましたが、これは具体的にはどのようなことを指すのでしょうか?それは、イエス・キリストがユダヤ人と異邦人との敵意をあの十字架において受けてくださるという仕方によってでありました。イエス・キリストを十字架につけたのは、ユダヤ人と異邦人の代表とも言えるローマ人でありました。それこそ、ユダヤ人と異邦人が一つとなって、イエス・キリストを十字架に磔にしたのです。しかし、イエス・キリストは、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのであります。そして、御自分に対して敵意を持つユダヤ人と異邦人とを赦すために、死から三日目に栄光の体へと復活されたのであります。そのようにして、ユダヤ人と異邦人が一つとなる道を備えてくださったのです。ユダヤ人と異邦人がキリストへの敵意によって一つになるのではなくて、罪赦された者として、キリストを愛する者として一つになる道を備えてくださったのです。イエス・キリストの十字架は、神さまの愛のしるしでありますが、同時に、私たち人間の罪のしるしでもあります。私たちの人間の罪がどれほど大きなものであるのか?それは神の独り子を十字架につけるほどであるのです。そして、このことにおいて、ユダヤ人も異邦人も同じであるのです。その大きな罪を赦すという仕方で、イエス・キリストは、ユダヤ人と異邦人との間にある敵意という隔ての壁を取り壊されたのです。さらには、食物規定などの異邦人との交わりを妨げる規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。これによって、ユダヤ人と異邦人とが、食卓を共にすることができるようになったのです。ユダヤ人と異邦人とが、一緒に主の晩餐にあずかることができるようになったのであります。私たちも今朝、聖餐の恵みにあずかろうとしておりますが、主の晩餐こそ、私たちが一つであることを象徴的に表すものであるのです。
パウロは15節後半で、「こうして、キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と記しておりますが、ここでの「一人の新しい人」とは、ユダヤ人と異邦人とからなる教会のことを指しています。この一人の新しい人の頭はキリストであり、その体は教会であるのです(1:22、23参照)。ここでも「敵意」という言葉が出てきますが、この敵意は、ユダヤ人と異邦人との間にある敵意ではなく、神さまと人間との間にある敵意のことであります。神さまは人間を御自分との交わりに生きるようにと、御自分に似せてお造りになりました。しかし、はじめの人アダムの最初の罪によって、人間は、神さまに敵対して歩むものとなってしまったのです。その神さまに対する敵意の最たる表れが、神の独り子であるイエス・キリストを十字架につけて殺してしまうということであったわけですね。しかし、イエス・キリストは、死から三日目に復活し、罪の赦しを与えることにより、一方的に和解の道を備えてくださったのです。復活されたイエス・キリストは、その和解の福音を、使徒たちにゆだねられ、宣べ伝えるようにとお命じになりました。そして、その弟子たちと聖霊において共にいてくださり、遠く離れている異邦人にも、また近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせられたのです。イエス・キリストの福音は、和解の福音であり、平和の福音であります。イエス・キリストは、私たちを神さまと和解させてくださり、それによって、ユダヤ人と異邦人との間にある敵意をも取り壊し、私たちを一人の新しい人に造り上げ、平和を実現してくださったのです。私たちの教会には、ユダヤ人はおりませんから、今朝の御言葉はあまりピンとこないかも知れません。しかし、私たちの教会にも色々な国籍の方がおられます。多くは日本人でありますが、中国人の方、フィリピン人の方もおられます。そして、このことは、キリストの教会としてふさわしいことであり、喜ばしいことであるのです。世の中では、あからさまに他の民族、他の国籍の人に対する憎しみが語られることが多くなりました。アジアにおける日本と中国の関係、また日本と韓国との関係はますます悪くなるばかりです。しかし、イエス・キリストは、民族や国籍の違いから生じる敵意という隔ての壁を取り壊し、平和を与えてくださるのです。民族や国籍の違いから生じる敵意だけではありません。同じ日本人同士であっても敵意はあるのです。そのような日本人同士の敵意という隔ての壁をも取り壊し、イエス・キリストは私たちを新しい一人の人としてくださったのであります。十字架において、私たちの敵意を受けてくださり、その敵意を赦し、愛するという仕方で、私たちに平和を、神さまとの和解を源とする神の平和を与えてくださったのです。18節にありますように、キリストによって、民族や国籍が違っていても私たちは一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。御子イエス・キリストの霊に結ばれて、私たちは神さまを「アッバ、父よ」と呼び、大胆に近づくことができるのです。
19節から22節までをお読みします。
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
私たちは、かつてはキリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含むもろもろの契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。また、神さまから遠く離れ、互いに敵意を抱き、神さまに対しても敵意を抱いて生きていたのです。そのような私たちが、イエス・キリストによって、聖なる民に属する者、神さまを御父と呼ぶことのできる神の家族の一員とされたのです。神の家族とされた。これは言い換えれば、神の子とされたということであります。私たちは、イエス・キリストにあって神の子とされたのです。この一年間、私たちの身に何が起こるか分かりません。しかし、はっきりしていることは、イエス・キリストにあって、全能の神さまが私たちの父であられるということです。私たちは、イエス・キリストにあって、神さまを御父とする神の家族であるということです。このことを、私たちは礼拝ごとに確認してゆきたいと思います。そして、この礼拝に集うことのできない兄弟姉妹に対しても、そのことを何らかの仕方で示してゆきたいと思うのです。私たちはイエス・キリストの平和の福音によって、神の家族とされました。それは赦し合い、愛し合う家族とされたということであります。神の家族とはイエス・キリストにあって互いに赦し合い、愛し合う家族であるのです。キリストの平和と神の家族の交わりを結びつけて考えていただきたいと思います。キリストの平和によって、神の家族は成り立っているのです。言い換えれば、神の家族にはいつもキリストの平和があるのです。