義の太陽が昇る 2017年12月17日(日曜 朝の礼拝)
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マラキ書 3章19節~24節
聖書の言葉
3:19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。
3:21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。
3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。
マラキ書 3章19節~24節
メッセージ
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教会の暦では、今は、アドベント・待降節であります。来週は、イエス・キリストの御降誕を記念するクリスマス礼拝でありますが、今朝は、マラキ書より、その良き心備えをしたいと願っています。
はじめにマラキ書について、簡単にお話ししたいと思います。1章1節に、「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉」とあります。「マラキ」とは、「わたしの使者」という意味であります。3章1節に、「見よ、わたしは使者を送る」とありますが、この「わたしの使者」が「マラキ」であるのです。それで、「マラキ」が個人名であるのか、「わたしの使者」を意味するのかと言った議論があります。私としては、「わたしの使者」という意味であることを覚えつつ、個人名として読みたいと思います。マラキが預言した時代については、バビロン捕囚から帰還し、神殿を再建した後の時代、また、エズラ、ネヘミヤによって改革が行われる前の時代と考えられています。西暦で言えば、紀元前5世紀の前半と考えられています。マラキ書は、対話形式で記されておりますが、その内容を読みますと、礼拝が形式化していたことが分かります。イスラエルの民は、神殿を再建したわけですが、依然として、苦境の中に置かれていました。そのため、イスラエルの民の間に、ある空しさが広がっていたのです。
マラキ書に記されている最初の対話は、イスラエルの神・主(ヤハウェ)の愛についての対話であります。1章2節から5節までをお読みします。
わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と。エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛し/エサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ/彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。たとえエドムが、我々は打ちのめされたが/廃墟を建て直す、と言っても/万軍の主はこう言われる/たとえ、彼らが建て直しても/わたしはそれを破壊する、と。人々はそれを悪の領域と呼び/とこしえに、主の怒りを受けた民と呼ぶ。あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである/主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。
マラキ書が、主の愛についての対話から始まることは大切なことであります。マラキ書は、「わたしはあなたたちを愛してきた」という主の愛の宣言から始まるのです。主は、イスラエルを愛し、契約を結び、御自分の民とされました。しかし、イスラエル民は、主から愛されていることを疑わしく思っていたのです。そして、そのことは、主の名を軽んじること、具体的には献げ物を軽んじることへと繋がっていきます。1章6節から9節前半までをお読みします。
子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら/わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと/万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよ/あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら/我々はどのようにして/あなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは/主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるよう/ひたすら神に赦しを願うがよい。
モーセを通して与えられた律法によれば、主に献げる動物は、傷の無いものでなければなりませんでした。しかし、人々は、足が傷ついたり、病気である動物を主に献げていたのです。そして、そのことを祭司も了承していたのです。これは、人情としては、よく分かることですね。主に献げる動物は、祭壇で燃やしてしまうわけですから、傷があっても、病気であっても良いのではないかと人々は考えて、そのようにしていたわけです。しかし、献げ物を受け取られる主は、そのことを悪とされるのです。主を愛することと、主を畏れ敬うことは、一つのことであります。主の民であるイスラエルは、主を愛し、畏れ敬う者として最上の献げ物をささげることが求められていたのです。礼拝する者の心は、その献げ物によって表されます。これは聖書が、アベルとカインの礼拝から教えていることですね(創世4章参照)。それゆえ、傷のある動物や病気の動物をささげる者は、神の御名を軽んじ、汚すことになるのです。
このようなことは、祭儀を司る祭司の責任でもあります。それゆえ、主は、祭司たちに対して次のように言われるのです。2章1節から4節までをお読みします。
祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。見よ、わたしはあなたたちの子孫を脅かし/あなたたちの顔に汚物を浴びせる。それは祭りの犠牲の捨てられたものだ。あなたたちは、その上に投げ捨てられる。そのとき、あなたたちは知るようになる。わたしがこの命令を下したのは/レビと結んだわが契約を保つためであったことをと/万軍の主は言われた。
主がくだされた「この命令」とは、傷のない雄の動物をささげるという、レビ記に記されている命令であります。主は、なぜ、傷のない雄の動物をささげるように、命じられたのか、それは、主に栄光を帰し、レビと結んだ契約を保つためでありました。しかし、祭司たちは、そのことを理解せず、人々が連れて来た傷のある動物をいけにえとしてささげていたのです。それゆえ、主は、「祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった」と言われるのです。
「レビと結んだ我が契約」とは、レビ族の子孫を主に仕える祭司とするという契約のことであります。その内容については、2章5節から7節に次のように記されています。
レビと結んだわが契約は命と平和のためであり/わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり/彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり/その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み/多くの人々を罪から立ち返らせた。祭司の唇は知識を守り/人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。
祭司は、平和と正しさのうちに主と共に歩み、主の教えを人々に教えることが求められていました。(レビ10:10、11参照)。しかし、彼らは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせることにより、自らを祭司失格者としてしまったのです。主は祭司たちが、御自分を軽んじたゆえに、祭司たちを軽んじ価値無きものとしたと言われるのです。祭司たちの堕落は、主の裁きでもあったのです。この祭司たちへの主の御言葉は、すべてのキリスト者において言えることでありますが、特に御言葉の教師に言えます。御言葉の教師が主と共に歩まずに、人を偏り見つつ教えるならば、教会全体が道を踏み外し、つまずくことになってしまうのです。
イスラエルの人々、とりわけ祭司たちは、主との契約を軽んじておりました。そして、その態度は、人と人の契約、結婚という契約にも影響を及ぼしていました。イスラエルの人々は、長年連れ添ってきた妻を離縁して、異教の神を信じる若い娘をめとっていたのです(2:10~16参照)。また、イスラエルの人々は、「悪を行う者はすべて、主の目によしとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと言うことによって」、主を疲れさせておりました(2:17参照)。イスラエルの人々は、悪を行う者たちが栄えている現実に、主の裁きを見ることができなかったのです。そのようなイスラエルの人々に、主は「わたしの使者を送る」と言われるのです。3章1から5節までをお読みします。
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は、遠い昔の日々に/過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる。裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。
イスラエルの民が待望している主、突如、その聖所に来られる主こそ、イエス・キリストであります。イエス様は、エルサレムの神殿に突如現れ、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒して、こう言われました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:13~16参照)。そのようにして、主イエスは、レビの子らを清め、彼らの汚れを除かれたのです。主は必ず裁きを行われます。「裁き」と訳されている言葉(ミシュパート)は「正義」とも訳されます。神様は義なる御方であるので、必ず裁きを行われるのです。そして、その主の裁きから、イスラエルの人々も免れることはできないのです。なぜなら、彼らは、主を畏れぬ者たちとなっていたからです。それゆえ主は、イスラエルの民に、御自分のもとへ立ち返るようにと言われるのです。
3章6節以下の小見出しに「悔い改めの勧告」とありますが、主のもとに立ち返ることが「悔い改め」であります。主は、イスラエルの民に、御自分のもとに立ち返って、掟を守るよう命じられるのです。また、「どのように立ち返ればよいのか」と問うイスラエルの民に対して、主は「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ」と命じられます。11節に、作物を食いあらすイナゴと、ぶどう畑の不作のことが記されています。イスラエルの人々は食べていくのに大変なわけですね。経済的に厳しいわけです。そのような生活の中で、十分の一の献げ物を偽っていたのです。しかし、主は、十分の一の献げ物をささげて、わたしの家に食物があるようにせよと言われるのです。十分の一の献げ物は、神殿の営みを維持するためのものです。十分の一の献げ物は、レビ人(祭司)や寄留者、孤児、寡婦のために用いられました(申命14:22~29参照)。十分の一の献げ物によって、神殿で仕える祭司の生活が支えられ、貧しい人々への施しがなされていたのです。私たちも、それぞれ収入の中から十分の一を目安として、献金をささげております。それは、教会の営みを維持するためであり、牧師の生活を支え、貧しい人々に施すためであるのです。そして、そのような私たちを、主は天の窓を開き、祝福を限りなく注いでくださるのです。
13節から15節までには、イスラエルの民の語った、主に対するひどい言葉が記されています。彼らは、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ」。私たちは、この言葉から、イスラエルの人々が主に仕えているのは、主を愛するためでも、主に栄光を帰するためでもなく、自分の利益のためであったことが分かります。私たちは、日曜日の朝ごとに、教会に集まり、礼拝をささげています。また、礼拝において献金をささげています。これは何のためなのでしょうか?自分の利益のためなのでしょうか?もし、そうであれば、私たちも「神に仕えることはむなしい」と言わざるを得ないと思います。しかし、私たちが日曜日の朝ごとに、教会に集まり、礼拝をささげているのは、主を愛し、畏れ敬うからであるのです。
16節にこう記されています。「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が記された」。ここでの「主を畏れ敬う者たち」とは、ひどい言葉を語っていたイスラエルの民の中から悔い改めた者たちのことです。ここで、イスラエルの民が、二つのグループに分けられております。その二つのグループとは、悔い改めて主を畏れ敬う者たちと、頑なで高慢な者たちです。この二つのグループは、渾然一体となっておりますが、主の裁きによって、はっきりと区別されることになるのです。
19節以下は、主の裁きの日が来ることを記しております。主の日は、高慢な者、悪を行う者にとっては滅びの日であります。しかし、主の名を畏れ敬う者たちにとっては、義の太陽が昇る日、癒やしの日、喜びの日であるのです。そればかりか、神を畏れ敬う者たちは、神の勝利にあずかる者となるのです。22節から24節は、マラキ書ばかりでなく、旧約聖書全体の終わりの言葉であります。
わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。
主は、イスラエルの民に、モーセの教えを忠実に守るよう命じられます。そして、主の日の到来に先立って、預言者エリヤをイスラエルの民に遣わすと言われるのです。新約聖書によれば、預言者エリヤは、洗礼者ヨハネでありました。洗礼者ヨハネは、イスラエルの民の心を主に向けさせ、主が破滅をもって撃つことがないようにと遣わされたのです。しかし、主は、私たち人間が思ってもみない姿で、この地上に来てくださいました。神の永遠の御子が、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、生まれるという仕方で、この地上に来てくださったのです。それは、私たちに代わって、神の掟を完全に守り、私たちに代わって罪の刑罰を十字架において受けてくださるためでした。そのようにして、主イエスは、私たちにくだされるはずの破滅を引き受けてくださったのです。イエス様の時代のファリサイ派の人々は、自分たちこそ、マラキ書に記されている主を畏れ敬う者たちであると自負していました。彼らは主を畏れ敬う者たちとして、十分の一の献げ物を几帳面にささげていたのです。しかし、その彼らが、洗礼者ヨハネの声を聞かず、イエス様を拒んでしまったことは皮肉なことであります。ファリサイ派の人々は、イエス様を拒んで、律法を熱心に守っていたのです。しかし、それでは、主を畏れ敬うことにはなりません。なぜなら、主を畏れ敬うとは、神様が遣わされた、独り子であるイエス様を信じることであるからです。私たちは、民族としてはユダヤ人ではありませんが、主イエスを信じているゆえに、主を畏れ敬う者たちであるのです。それは、私たちが自分の力でしたことではなく、神様の霊、聖霊によってしていただいたことなのです。私たちは、御子イエスの霊をいただいて、神様を父と呼び、愛し、畏れ敬う者たちとされているのです。そのような者たちとして、義の太陽として来られるイエス・キリストを待ち望んでいるのです。この説教の最初に、今は、アドベント・待降節であると申しました。私たちは、かつて来られたイエス・キリストが栄光の主として、再び来られる日を待ち望んでいるのです。主の日とは、主イエス・キリストが栄光の主として来られ、私たちの救いを完成してくださる日であるのです。