知恵が呼びかけている 2019年12月15日(日曜 朝の礼拝)
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知恵が呼びかけている
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- 村田寿和 牧師
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箴言 8章1節~36節
聖書の言葉
8:1 知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。
8:2 高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち
8:3 城門の傍ら、町の入り口/城門の通路で呼ばわっている。
8:4 「人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。
8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え/愚か者は反省することを覚えよ。
8:6 聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ
8:7 わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし
8:8 わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
8:9 理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。
8:10 銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。
8:11 知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。
8:12 わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。
8:13 主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む。
8:14 わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
8:15 わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。
8:16 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆/わたしによって治める。
8:17 わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
8:18 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。
8:19 わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。
8:20 慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。
8:21 わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。
8:22 主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
8:23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
8:24 わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
8:25 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。
8:26 大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。
8:27 わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
8:28 主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき
8:29 この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。
8:30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
8:31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。
8:32 さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。
8:33 諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。
8:34 わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい/戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。
8:35 わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。
8:36 わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」箴言 8章1節~36節
メッセージ
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序
今朝は、『箴言』の第8章より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。『箴言』は、ダビデの子、ソロモンによって記されたと伝統的には考えられています(1:1参照)。『箴言』という言葉を辞書で引くと、「いましめとなる短い言葉。格言」とあります。10章1節を見ますと、「ソロモンの格言集」と記されています。そして、それ以降、「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」といった知恵の言葉がずらずらっと記されていくわけです。では、1章から9章までには何が記されているかと言いますと、「知恵について」記されているのです。これは、「父の諭し」と「知恵の勧め」という形で記されています。お父さんが子供に呼びかける。あるいは、知恵そのものが人に呼びかける。そのようにして、知恵を得るようにと記されています。今朝の御言葉は、知恵そのものが呼びかける箇所であります。
1 知恵が呼びかけている
1節から3節までをお読みします。
知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち/城門の傍ら、町の入り口/城門の通路で呼ばわっている。
ここでは、知恵が擬人法によって、一人の人格として記されています。知恵は、公の場で、すべての人に、声をあげて呼びかけるのです。
4節から11節までをお読みします。
人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え/愚か者は反省することを覚えよ。聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ/わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし/わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受けよ。知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。
ここで前提とされていることは、知恵は人間の内からは出て来ない。人間の外にあって、呼びかけているものである、ということです。私たちのささげている礼拝は、神さまの御前になされる、最も公(パブリック)なものであります。その礼拝においても、知恵は、「浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ」と呼びかけているのです。6節に、「聞け、わたしは指導者として語る」とありますが、知恵は、私たちが社会で幸福に生きて行くための導き手であるのです。知恵の言葉は、「公平」と「まこと」であります。知恵の唇は背信(不信仰)を忌むべきこととし、その言葉はすべて正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいないのです。ここに、その言葉が知恵の言葉であるかないかを見分ける判断基準があります。そして、その判断ができるのは、理解力のある人であり、知識に到達した人であるのです。そのような理解力のある、知識に到達した人が、この『箴言』という書物を記したのです(その代表者がソロモン)。私たちは銀や金を求めるのでありますが、知恵は、「銀よりも、わたしの諭しを受け入れよ。金よりも、知識を受け入れよ」と呼びかけます。なぜなら、11節にあるように、「知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない」ほどに、貴重であるからです。「お金よりも健康が大切だ」とよく言われますが、「お金よりも知恵が大切である」のです。
2 知恵とは何か
12節から21節までをお読みします。
わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む。わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。君候、自由人、正しい裁きを行う人は皆/わたしによって治める。わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを探し求める人はわたしを見いだす。わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。
「知恵は熟慮と共に住んでいる」とは、知恵と熟慮が切り離すことのできない関係にあることを教えています。知恵は熟慮と共に住んでおり、知識と慎重さをも備えているのです。13節に、「主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む」とあります。主を畏れることは、主の教えに従うことだけではなく、主の教えに反する悪を憎むことであります。それゆえ、主を畏れることを初めとする知恵は、傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を憎むのです(1:7参照)。知恵は、私たちを勧告し、成功させます。知恵は、私たちが物事を見分ける力であり、威力を持っているのです。その具体例として、王や裁きを行う人があげられています。知恵によって王は君臨し、支配者は知恵によって正しい掟を定めるのです。また、君候(高官)や正しい裁きを行う人は、知恵によって治めるのです。このことをソロモンは知っていましたので、主に知恵を求めたわけです(列王上3章参照)。
17節で、知恵は、「わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを探し求める人はわたしを見いだす」と約束しています。私たちは、知恵を愛しても、知恵から愛してもらえないのではないか。また、知恵を捜しても見つからないのではないか、と心配する必要はありません。知恵は、自分を愛する人を愛し、捜し求める人には姿を現してくれるのです。
私たちは、富や名誉を求めるのですが、知恵のもとにこそ、富と名誉があり、財産も慈善もあるのです。ソロモンは知恵を求めましたが、そのソロモンに対して、神さまは、「あなたの求めなかった富と栄光も与える」と言われました(列王上3:13)。それは、知恵のもとに富と栄光(繁栄)があるからです。そのように、知恵は豊かな実りをもたらすものであるのです。19節では、知恵の実りが純金に、知恵のもたらす収穫が精選された銀にまさるものとして記されています。私たちが欲しがるお金よりも、知恵のもたらす実りはまさっている。知恵のもとには富と名誉、財産と慈善というあらゆる良いものがあるのです。知恵は慈善の道を歩み、正義の道を進みます。そのようにして、知恵は自分を愛する人に宝を得させてくれるのです(聖書協会共同訳参照)。また、知恵に導かれ、慈善の道を歩み、正義の道を進む人の倉を満たしてくれるのです。
3 知恵の起源
22節から31節までをお読みします。
主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは産み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき/主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき/この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し/主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。
ここには、知恵の起源が記されています。主は、知恵をその道の初めに造られました。天地創造の御業に先立って、知恵は生み出されていたのです。そして、知恵は巧みな者として、主の創造の御業に参与したのです。神さまは、この世界を喜びをもって創造されましたけれども、それは知恵が共にあったからです。そして、このような知恵こそ、肉となられる前の言(ロゴス)、人となられる前のキリストであると使徒ヨハネは理解したのです。ヨハネによる福音書の1章1節から3節までをお読みします。新約の163ページです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。
ここでヨハネは、箴言第8章の永遠の昔から祝別されていた知恵を背景にして、人となられる前のキリストを言(ロゴス)と言い表したのです。
また、使徒パウロも、コロサイの信徒への手紙の1章15節から17節で次のように記しています。新約の368ページです。
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
このパウロの言葉も、箴言第8章を背景にして記されています。パウロは、箴言8章の知恵のことを、「御子」と言い表しているのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の1001ページです。
31節に、「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」とあります。「楽を奏する」とは、「戯れる」とも言い換えることができます。知恵は、主と戯れ、主を楽しませるだけではなく、主によって造られた私たち人間とも戯れ、私たちと共に楽しむのです。そのような御方として、「わたしに聞き従え」と言われるのです。
結 子らよ、わたしに聞き従え
32節から36節までをお読みします。
さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい/戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。
知恵は、自分がどのようなものであるかを語ったうえで、「子らよ、わたしに聞き従え」と語ります。それは、知恵の道を守るところに、まことの幸いがあるからです。なぜなら、知恵を見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができるからです。使徒パウロは、「イエス・キリストこそ、神の知恵である」と語りました(一コリント1:24「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」参照)。そのことを思い起こすならば、ここでの「命」が神さまとの永遠の命の交わりであることが分かります。私たちは、神の知恵であるイエス・キリストにあって、主に喜び迎えていただき、神さまとの永遠の命の交わりにあずかっているのです。
36節は、警告の言葉であります。私たちが神の知恵であるイエス・キリストを見失ってしまうならば、私たちは魂を損なう。さらに、私たちが神の知恵であるイエス・キリストを憎むならば、それは、死を愛するに等しい愚かなことなのです。そのような愚かな道を歩むことがないように、私たちは、神の知恵であるイエス・キリストに聞き従って歩んでいきたいと願います。