五千人を満腹させたイエス 2020年12月06日(日曜 朝の礼拝)

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五千人を満腹させたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章30節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。マルコによる福音書 6章30節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(11月8日)、私たちは、洗礼者ヨハネが、ヘロデ王(ガリラヤとシリアの領主ヘロデ・アンティパス)によって首をはねられていたお話しを学びました。洗礼者ヨハネは、主イエスの道を準備する者として生き、そして死んだのです。洗礼者ヨハネの死は、イエスさまの死の先取りでもあったのです。

 今朝の御言葉はその続きとなります。

1.群衆を深く憐れむイエス

 今朝の御言葉は、12人が戻って来たことから語り出されます。イエスさまが、12人を遣わされたことは、第6章7節から13節に記されておりました。イエスさまは、12人を二人一組で、杖一本を持たせ、履物を履かせて、遣わされたのでありました。そのようにして、弟子たちは、神さまだけに依り頼むことを身をもって体験したのです。その弟子たちがイエスさまのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告したのです。イエスさまは、戻って来た弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。弟子たちは、疲れて帰って来たのでしょう。しかし、イエスさまのところには沢山の人が出入りしており、食事をする暇もありませんでした。それで、イエスさまと弟子たちは、舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行ったのです。そこで、ゆっくりと食事をして、休もうとしたのでしょう。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いたのです。これは、どういうことかと言いますと、ガリラヤ湖を舟で進まれるイエスさまたちを、群衆が沿岸を走って追いかけたということです。舟から上がられたイエスさまは、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれました。羊は、水や草がある場所を知っている羊飼いに導かれなければ、生きていくことができません。そのような羊のように、イエスさまは群衆を御覧になったのです。そして、イエスさまは、群衆を深く憐れまれたのです。ここで、「深く憐れむ」と訳されている言葉(スプラングニゾマイ)は、「腸が千切れる思いに駆られる」とも訳せる、神さまの憐れみを表す言葉です。イエスさまは、群衆を深く憐れまれ、いろいろと教え始められました。イエスさまは、群衆を神の言葉によって、霊的に養われたのです。

2.五つのパンと二匹の魚

 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちは、イエスさまのそばに来てこう言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」。この弟子たち言葉は、もっともな言葉です。時を忘れて、イエスさまは群衆にいろいろと教えておられる。また、群衆も時を忘れて、イエスさまの教えに聞き入っている。その様子を見て、弟子たちは、そろそろ人々を解散させて、それぞれ食事を取るようにした方がよいと考えたのです。弟子たちは、群衆がお腹を空かしているのではないかと心配したのです。その弟子たちに、イエスさまは、こう言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。人々を解散させて、お腹を空かせたまま去らせるのではなくて、また、それぞれ、里や村に食べ物を買いに行かせるのではなくて、あなたがたが彼らに食べ物を与えなさいと、イエスさまは言われるのです。これを聞いて、弟子たちは驚いて、こう言いました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは、一日分の労働者の賃金でした。ですから、200デナリオンは、200日分の労働賃金となります。この弟子たちの言葉は、イエスさまたちが200デナリオンものお金を持っていたことを意味しません。弟子たちがざっと見積もっても、人々に食べさせるには、200デナリオン分のパンが必要であるということです。そもそも、200デナリオン分のパンを売っている所などありませんから、ここで、弟子たちが言いたいことは、「私たちが人々に食べ物を与えることなど不可能です」ということであります。弟子たちが、無いものに心を向けているのに対して、イエスさまは有るものに心を向けられます。イエスさまは、「パンは幾つあるのか。見てきなさい」と言われます。弟子たちは確かめて来て、こう言いました。「五つあります。それに魚が二匹です」。これはおそらく、イエスさまと弟子たちの食事であったのでしょう。食事をする暇もなかったイエスさまと弟子たちが、人里離れた所で食べようとしていた御弁当が、五つのパンと二匹の魚であったのです。弟子たちの見積によれば、人々を食べさせるのに、200デナリオン分のパンが必要でありました。自分たちの御弁当である五つのパンと二匹の魚では到底足りないのです。しかし、イエスさまは、弟子たちに、皆を組みに分けて、青草の上に座らせるように命じられました。ここで「座らせる」と訳されている言葉は、「横になって食事の姿勢をとる」ことを意味します。ユダヤでは、寝そべって、片肘をついて、上半身を起こして食事をしたのです。そのような食事の姿勢を取るように、イエスさまは命じられたのです。人々は、弟子たちに従って、百人、五十人とまとまって、食事の姿勢を取りました。人々は、イエスさまが何か食べる物を与えてくださると期待したことでしょう。また、弟子たちは、イエスさまがどうされるのか、ハラハラどきどきしていたと思います。イエスさまは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。これは、当時のユダヤで、食事の時に、家長である父親がしていたことです。家長である父親は、食事の前に、次のような祝福の祈りをささげました。「われらの主なる神、世界の王、地からパンをもたらしたもう方に、祝福あれ」。おそらく、イエスさまも、このような賛美の祈りを唱えたと思います。そして、イエスさまはパンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配されたのです。細かいことを言うようですが、ここで「配らせ」と訳されている言葉は、継続を表す未完了形で記されています。元の言葉を直訳すると「与え続けた」と記されているのです。ですから、パンは、イエスさまの手の内で、増え続けたようです。また、魚も同じように、イエスさまの手の内で増え続けたようです。このようなことが、実は、旧約聖書にも記されています。エリヤとエリシャが、これと同じような奇跡を行っているのです。最初にエリヤの記事を読みたいと思います。『列王記上』の第17章8節から16節までをお読みします。旧約の561ページです。

 また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを持つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

 このように、主はエリヤを通して語られた御言葉のとおり、壺の粉と瓶の油を尽きることなく、増やし続けられたのです。

 次に、エリシャの記事を読みたいと思います。『列王記下』の第4章42節から44節までを読みます。旧約の583ページです。

 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

 エリシャは、二十個のパンで百人を満腹させました。しかし、イエスさまは、五つのパンで五千人を満腹させられるのです。このことは、イエスさまがエリシャにまさる預言者であることを示しているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の73ページです。

 

3.五千人を満腹させたイエス

 イエスさまは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせました。また、二匹の魚も同じようにして、配らせました。五つのパンと二匹の魚ですから、すぐに無くなってしまうはずですが、すべての人が食べて満腹したのです。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになったのでした。12の籠は12人に対応しています。12人は、それぞれに、パン屑と魚の残りのいっぱいになった籠を持っていたのです。ここで、明らかに最初にあったものよりも、食べ終わった後の方が増えています。この日、イエスさまは、五つのパンと二匹の魚で、五千人を養われました。そのような驚くべき奇跡を、イエスさまは、12人を用いてなされたのです。

 さて、私たちは、イエスさまが五千人を満腹させられたお話しを、どのように理解したらよいのでしょうか。私は、『詩編』第23編を手がかりにして、今朝の御言葉を読み解きたいと思います。イエスさまは、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れまれました。そして、イエスさまは、群衆を青草のうえに寝かせ、食卓を整えてくださったのです。ここに記されていることは、『詩編』第23編で、ダビデが「わたしの羊飼い」と歌っている主のお姿であります。主イエスは、良い羊飼いとして、御自分の羊たちを青草の原に休ませ、食卓を整えてくださるのです(詩23:1、2、5参照)。古代の世界において、羊飼いは「王」を意味していました。『エゼキエル書』の第34章23節で、主なる神は、次のように言われます。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。ここでの「牧者」は「王」という意味です。良い羊飼いであるイエスさまは、良い王でもあるのです。王は、国民の生活に責任を持つものです。そのような良き王として、イエスさまは、人々に食べ物を与えられたのです。しかも、満腹して残すほどに与えられたのです。私たちが毎日いただいている食べ物も、良き羊飼いであり、良き王であるイエスさまからのいただきものであります。私たちは、食事の前に感謝のお祈りをいたします。そのことは、これからいただく食事が、イエスさまの御手からいただく、神さまの祝福であることを示しているのです。イエスさまは、地からパンをもたらす世界の王として、今も私たちに食べ物を与えてくださっているのです。 

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