輝かしい勝利 2017年3月19日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。ローマの信徒への手紙 8章31節~39節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、聖霊が私たちの祈りを導いてくださること、また、聖霊自らが私たちのために執り成しの祈りをささげてくださることを学びました。私たちの心に宿っている聖霊は、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます。このことは、私たちに深い平安をもたらします。なぜなら、聖霊は神の御心に従って、私たちのために執り成してくださるからです。そして、私たちは、神様がすべてのことを共に働かせて、私たちの益としてくださることを知っているのです。神様は、私たちを前もって知っておられ、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それはイエス様が多くの兄弟姉妹の長子として栄光を受けるためであります。多くの兄弟姉妹の長子となることはイエス様にとって誉れであるのです。私たちはその誉れにあずかるものとして、イエス・キリストにあって天地創造の前から選ばれていたのです。その選びに従って、神様は、あらかじめ定められた者たちを召しだし、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。私たちが栄光を与えられるのは、将来のことであります。しかし、「お与えになった」と過去形で記すことができるほどに、それは確かなことであるのです。

 ここまでは、前回お話したことの振り返りであります。今朝はその続きであります。

 31節、32節をお読みします。

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」。これは、これまで記してきたことの結論を導き出す言葉であります。パウロはこれまで記してきたことの結論として、「神がわたしたちの味方である」と記します。パウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と疑問文で記していますが、これは一つの修辞法、レトリックであります。パウロはこのように問うことによって、「神が私たちの味方である以上、誰も私たちに敵対できない」と力強く記しているのです。「神が私たちの味方である」と言うとき、その「私たち」とは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、キリストに結ばれた私たちのことであります。また、聖霊を与えられ、神の子とされ、神様を「アッバ、父よ」と呼び、祈る私たちのことであります。イエス・キリストの福音を聞いて、そして信じた私たちが結論として言えること、それは神が私たちの味方であるということです。そして、神が私たちの味方である以上、誰も私たちに敵対することはできないのです。

 なぜ、パウロは神が私たちの味方であると言い切ることができたのでしょうか?それは神様が、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」であるからです。神様は、私たちを罪から救うために、御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡しました。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」というパウロの言葉は、私たちに創世記22章に記されている、アブラハムが独り子イサクをささげた物語を思い起こさせます。神様は、アブラハムを試して、愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられました。そして、アブラハムはその神様の御言葉に従って、三日の道のりを歩き、モリヤの山で、イサクを縛り祭壇の薪の上に載せました。アブラハムが手を伸ばして刃物を取り、息子イサクを屠ろうとしたその時、神様はアブラハムに呼びかけられ、こう言われたのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。神様がアブラハムを御自分を畏れる者であると認められたのは、アブラハムが独り子である息子すら、神様にささげることを惜しまなかったからです。アブラハムにとって、独り子イサクこそ、神様からいただいた祝福でありました。その祝福であるイサクをささげることによって、アブラハムは自分が主を畏れる者であることを証明したのです。実際に、アブラハムはイサクを屠ってはおりませんが、神様はアブラハムがイサクをささげたと見なしてくださったのです。その神様が、私たちのためには、独り子であるイエス・キリストを十字架の死に引き渡されたのであります。神様は私たちの身代わりとして、イエス・キリストを十字架の死に引き渡すことによって、私たちに対する愛を示されたのです(5:8参照)。その神様が、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありません」とパウロは記すのです。ここでの「すべてのもの」とは、御子と共に受け継ぐ新しい天と新しい地と言うよりも、私たちに賜物として与えられているもろもろの霊的な祝福のことであります。パウロは、30節で、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と記しましたが、これらすべてを与えられている保証は、神様が御子を私たちに賜ったことにあるのです。最も大切な御子を私たちに賜った神様が、その御子によって成し遂げられた救い祝福を私たちに賜らないはずはないのです。

 33節、34節をお読みします。

 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 ここでパウロは、世の終わりの裁き、いわゆる最後の審判を背景として記しています。神に選ばれた私たちを訴える者は誰もいません。なぜなら、人を義としてくださるのは、審判者である神御自身であるからです。神様がイエス・キリストを遣わしてくださったのは、私たちをこの方への信仰によって義としてくださるためでした。神様が私たちを義としてくださる以上、だれも私たちを訴えることはできないのです。また、私たちを誰も罪に定めることはできません。なぜなら、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを義とするために復活させられたイエス・キリストが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるからです。パウロは、27節で、私たちの心に宿る聖霊が、神の御心に従って、私たちのために執り成してくださる、と記しました。ここでは、天において、イエス・キリストが私たちのために執り成してくださると記しています。私たちのために執り成してくださる方は、私たちの内にも、また私たちの外にもいるのです。私たちの心の中では聖霊が執り成してくださる。そして、天ではイエス・キリストが私たちのために執り成してくださるのです。そのようにして、私たちは神様との交わりの内に守られているのです。そして、ここに私たちが祈ることができる根拠があるわけです。

 ここでパウロは、私たちを訴える者が誰であるかを記しておりません。ある人は、悪魔ではないかと考えます(ヨブ1章、ゼカリヤ3章参照)。またある人は、神の律法や私たちの良心ではないかと考えます。それが誰であっても、イエス様が私たちのために執り成してくださる以上、私たちを訴えて罪に定めることは誰もできないのです。イエス様が、「わたしはこの者の罪のために十字架の上で死にましたから、わたしを信じるこの者を誰も罪に定めることはできません」と父なる神に執り成してくださるのです。

 35節から37節までをお読みします。

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

 キリストの愛は、私たちを救うために命を捨ててくださったことによって示されました。父なる神の愛が御子を死に引き渡されたことによって示されたように、御子イエス・キリストの愛は、御自分の命を自ら捨てることによって示されたのです(ヨハネ10:10、11参照)。イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちを救うために、十字架の死を死んでくださいました。また、復活させられ、天へと上げられたイエス・キリストは、私たちに聖霊を与え、御自分との愛の交わりに生きる者としてくださいました。聖霊を与えられ、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じる私たちは、イエス・キリストとの愛の交わりの内に今、生かされているのです。そのキリストの愛から私たちを引き離す者が誰かいるだろうか?とパウロは問うのです。そしてパウロは、キリストの愛から私たちを引き離すものとして、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣の七つをあげるのです。これはどれも、キリストのための苦しみであります。それゆえ、パウロは続けて詩編44編の御言葉を引用するのです。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」。ここでの「あなた」は他でもない、イエス・キリストのことであります。私たちキリスト者は、キリストのために苦しむことをも恵みとして与えられている者たちであるのです。

 艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。この最後の「剣」は、殉教の死を意味しております。パウロは、剣を除く、すべての苦しみをキリストのために体験しておりました。第二コリント書の11章23節以下を見ますと、そこには、パウロが体験したキリストのための苦難のリストが記されています。パウロは、キリストのために数多くの艱難や苦しみを味わってきたわけです。しかし、パウロは、キリストを信じることを止めよう、信仰を捨ててしまおうとは考えませんでした。それは、パウロが、その苦しみの中でこそ、キリストの勝利にあずかることができることを知っていたからです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。パウロは「これらすべてのことにおいて」と記しました。苦しみが過ぎ去ってではなくて、その苦しみのただ中で、私たちは、私たちを愛してくださるイエス・キリストによって輝かしい勝利を収めているのです。キリストのための苦しみの中で、なおもキリストの愛に留まり続ける。それが私たちキリスト者にとっての輝かしい勝利であるのです。

 38節、39節をお読みします。

 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 ここでパウロがあげているのは、私たち人間に対して力を振るうもの、世に働く諸霊であります。世界の営みや人間の人生の背後には様々な力や諸霊が働いている。その諸霊や力をパウロは10の言葉で言い表したのです。そして、パウロは、どのようなものも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないと記すのです。新共同訳聖書は、「私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」と訳していますが、元の言葉を直訳すると「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛」となります(新改訳参照)。この場合の「神の愛」は、厳密に言えば「父なる神の愛」であります。父なる神の愛は私たちの主キリスト・イエスにあるのです。ですから、イエス・キリストの愛に留まり続けることは、父なる神の愛に留まり続けることであるのです。そのキリストの愛、父なる神の愛から私たちを引き離すことは誰もできない、どのような被造物もできない。そのように確信することができるのは、私たちとキリストとを結びつけているのが父なる神の愛であり、私たちと父なる神様とを結びつけているのが御子イエスの愛であるからです。イエス様は、ヨハネによる福音書17章26節で次のように言われています。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。私たちは、生まれながらに持つ自分の愛で、イエス様を愛しているのではありません。聖霊によって与えられている父なる神の愛で、私たちもイエス様を愛する者とされているのです。私たちが父なる神様を愛するという時も同じであります。私たちは聖霊によって与えられている御子イエス・キリストの愛で、父なる神様を愛しているのです。イエス・キリストにおいて御自身を示された神様は、父と子と聖霊なる三位一体の神様であります。神様は唯一ではありますが、孤独な御方ではありません。父と子との聖霊における永遠の愛の交わりに生きておられる御方であるのです。その父と子との交わりに、私たちは、聖霊によってイエス・キリストに結ばれることによって加えられたわけです。私たちの心には聖霊によって神の愛が注がれておりますが、それは御子を愛する御父の愛であり、御父を愛する御子の愛であるのです。私たちは聖霊によってイエス・キリストに結ばれて、父と子との永遠の愛の交わりに生きる者とされている。その私たちを父と子との愛の交わりから引き離すことは、誰にもできない。神の愛がすべてのものに勝利を収める。それゆえ、私たちキリスト者の勝利は輝かしい勝利であるのです。

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