聖霊のとりなし 2017年3月12日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊のとりなし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章18節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマの信徒への手紙 8章18節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 週報の報告にありますように、3月6日の夜10時37分に、I.Y姉妹が心不全で天に召されました。また、葬儀が3月8日の昼12時から、この所において行われました。わたしが司式をいたしましたが、フィリピの信徒への手紙1章の御言葉から、信仰とは神様が始められ、完成してくださる神様の御業であること、そこに私たちの喜びの根拠があることをお話いたしました。I.Y姉妹の霊魂は、今既に、神様の御許にあり、憩うておられます。また、そのお体は火葬して骨となりましたが、イエス・キリストが再び来られる日に、朽ちることのない栄光の体で復活させられるのです。そのことを覚えて、私たちも主からの力強い慰めをいただきたいと願います。

 先程は、ローマの信徒への手紙8章18節から30節までを読んでいただきました。前回、18節から25節までを学びましたので、今朝は、26節から30節までを御一緒に学びたいと思います。

 26節、27節をお読みします。

 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 ここでの「霊」は、イエス・キリストを信じる者に与えられている神の霊、聖霊のことであります。その聖霊が弱いわたしたちを助けてくださると言うのです。ここで「助ける」と訳されている言葉は3つの言葉からできています。「一緒に」「代わって」「受ける」という言葉からできているのです。聖霊の助けは、私たちと「一緒に」苦しみを「受ける」、また、私たちに「代わって」苦しみを「受ける」という助けであるのです。私たちが自分の弱さを実感するのは、私たちが何を祈ったらよいか分からない時であります。しかし、私たちが何を祈るべきか分からない時でも、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださると言うのです。このことは、苦境に陥った時だけではなくて、「祈り」全般において言えることだと思います。キリスト教の祈りには、ある形式があります。先ず、神様を「天の父なる神様」と呼びかける。そして、感謝と願いを申し上げる。最後に、「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」と言って、祈りを閉じる。これは形式としては、誰でも口にすることができるでしょう。しかし、それが独り言とならず、祈りとなるのは、聖霊なる神様のお働きによるものであるのです。パウロは、聖霊を「神の子とする霊」と呼びました。私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えられて、神の子とされたのです。そのような者たちとして、「天の父なる神様」と全幅の信頼をもって呼びかけるのです。そして、イエス・キリストにあって救われた感謝と神の御心に適うことを願い求めるのです。私たちがイエス・キリストの御名によってお祈りするのも、この御方が私たちの罪のために十字架に死んで、私たちを正しい者とするために復活されたことを信じているからです。復活させられたイエス・キリストが神の右に座って、私たちのために執り成してくださることを信じるがゆえに、私たちは「アーメン」、真実ですと言うことができるのです。こう考えてきますと、聖霊が弱い私たちを助けてくださるのは、「祈り」を与えてくださる、祈りを導いてくださることによってであると言えるのです。祈ることができる。それは私たちキリスト者に与えられている大きな恵みであるのです。人間は神のかたちに似せて造られましたから、だれでも祈ることができると言えるかも知れません。しかし、まことの神、イエス・キリストの父なる神に祈ることができるのは、キリスト者だけであるのです。そして、それができるのは、聖霊が与えられているからなのです。祈りにおいて、願いをささげることは、一つの大きな要素であります。しかし、私たちは自分の願望をただ願うのではありません。聖書が教えている祈りは、神様の御心に適うことを願い求めることであるのです。ヨハネの手紙一5章14節には、こう記されています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私たちの確信です」。ですから、パウロは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」と記したわけです。私たちは神様の御心が分からず、どのような内容を祈るべきかが分からないときがしばしばあるのです。では、神様の御心に適うこと以外は、祈ってはいけないかと言えば、そうではありません。実際、私たちはいろいろなことを自由に願っております。そして、そのように、私たちが自由に祈ることができるのは、私たちの心に宿っている聖霊が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからなのです。先程、わたしは、復活させられたイエス・キリストが神の右に座って、私たちのために執り成していてくださると申しました。それは、34節に記されていることであります。しかし、私たちの祈りを執り成してくださるのは、イエス・キリストだけではありません。私たちの心に宿っている聖霊が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださっているのです。聖霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。それゆえ、私たちは天の父なる神様に、イエス・キリストの御名を通して、自由に祈りをささげることができるのです。27節に、「人の心を見抜く方」とありますが、これは神様のことであります。ここで神様が「人の心を見抜く方」と言われているのは、聖霊が私たちの心の中で執り成しておられるからです。神様は、その聖霊の思いが何であるかを知っておられます。そして、聖霊は、神の御心に従って、聖なる者である私たちのために執り成しの祈りをささげてくださるのです。「執り成しの祈り」とは、「その人のために、その人に代わって祈る祈りのこと」であります。私たちがどう祈るべきか分からないときも、私たちの心に宿る聖霊は、神の御心に従って、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださるのです。これはとても有り難いことであります。私たちは、人が自分のために祈ってくださることを知ると有り難いと思います。しかし、ここに記されていることは、それよりも有り難いことであるのです。私たちの心に宿っておられる聖霊は、私たちに代わって、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださる。聖霊は、私たちと一緒に祈ってくださるだけではなくて、私たちに代わって御自ら祈られるのです。聖霊の執り成しは、私たちの心の中で行われる、言葉にならないうめきでありますから、私たちにはどのような内容なのかは分かりません。しかし、神様は聖霊の思いが何であるかを知っておられるのです。

 先週の月曜日、3月6日の午後に、老人施設におられるT.Hさんのところに、妻と一緒に行ってきました。礼拝をささげた後で、一緒にお祈りをすることにしました。T.H姉妹に、お祈りしますかと聞きますと、頷かれました。そして、お祈りを始められたのですが、言葉は出て来ませんでした。5分くらいして、お祈りは終わりましたかと声をかけると、頷かれました。私は、そのとき、今朝の御言葉を思い巡らしていました。聖霊が私たちを助けてくださる。どう祈るべきか分からない私たちのために、聖霊が神様の御心に従って執り成してくださる。祈りを終えた後で、私はT.H姉妹に、「言葉にならなくても、聖霊なる神様が執り成してくださいますから、大丈夫ですよ」と伝えました。私たちがうまく言葉を発することができなくなったとしても、聖霊自らがうめきをもって執り成してくださる。聖霊は、まさに祈りの霊であられるのです。

 その日の夕方、I.S先生からEメールをいただきました。I.Y姉妹がいつどうなるか分からない状態であるとの知らせを受けて、熊谷総合病院に行ってきました。わたしが行ったときには、鎮痛剤の注射を打った後でしたので、目をつぶって苦しそうに息をしていました。I.H姉妹が付き添いでおられたので、御一緒にお祈りをささげました。そのお祈りの中で、神様がI.Y姉妹を天地創造の前から選び、イエス様を信じる信仰を与えてくださったことの感謝と、イエス様を信じて天国に行けるように、召される時まで、痛みが和らぐようにとの願いをささげました(今、思えば、これは執り成しの祈りでありました)。祈り終わった後で、回復して、元気になりますようにと祈るべきであったかなぁと思いました。そして、帰る間際に、耳元で、「元気になってくださいね。また来ますね」と大きく声をかけたのです。神様の御心に適うことを祈ることは難しいと実感したときでありました。その夜、I.Y姉妹が心不全で天に召されたことは、最初にお話したとおりであります。

 28節をお読みします。

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」とは、イエス・キリストを信じている私たちのことであります。私たちが神様を愛しているのは、神様の御計画に従って召された者であるからなのです。5章5節に、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれている」とありましたように、私たちは神様に愛されている者として、神様を愛する者とされたのです。そのような私たちのために、神様はすべてのものを働かせて益としてくださるのです(新改訳「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」参照)。神様は力ある御言葉によって天地万物をお造りになり、すべてのものを御心のままに保ち、統べ治めておられます。その神様が、私たちのためにすべてのことを働かせて益としてくださるのです。ここでパウロが言っていることは、旧約聖書の創世記でヨセフが言っていることでもあります。ヨセフは兄たちによって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。しかし、神様はヨセフを離れず、ヨセフはエジプトを治める者となったのです。神様はヨセフを通して、飢饉から多くの人の命を救われたのです。兄弟たちに身を明かしたヨセフは、次のように言いました。「わたしはあなたたちがエジプトに売ったヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(創世45:4~8)。また、父のヤコブが死に、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと思い、人を介して、赦しを乞うた後で、ヨセフはこう言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」(創世50:19~21)。ここでヨセフは兄たちが自分にしたことを、はっきりと「悪」と言っています。しかし、ヨセフがその兄たちの悪を赦すことができたのは、その悪が神様によって、多くの民の命を救うという善に変えられたからであるのです。神様は悪を善に変えることのできる御方であるのです。ですから、パウロが、すべてのことを働かせて益(善)としてくださると記すとき、その「すべてのこと」の中には、神様の御心に背く悪も含まれているのです。神様は人間の企てる悪をも、私たちのために益としてくださるのです。そのことがはっきり示されたのが、イエス・キリストの十字架の出来事でありました(使徒2:23、24参照)。人間は、正しい方、神の御子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。これはまさしく悪であります。しかし、神様はその人間の悪を用いて、救いの御業を成し遂げられたのです。神様は人間の悪い企てをも用いて、善をなされた。神様はイエス・キリストを十字架の死から復活させられ、イエス・キリストを信じる多くの人に永遠の命を与えられたのです。その永遠の命に私たちもあずかる者とされた。ですから、私たちは、パウロと一緒に、「私たちは知っています」と言うことができるのです。

 パウロが、「万事が益となるように共に働く」と記すとき、その「益」とは、何よりも私たちの霊的な救いのことを指しています。それゆえ、パウロは29節、30節でこう記すのです。

 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。

 神様は、私たちを前もって知っておられました。「知っていた」とは、選んでおられた、愛しておられたということです。神様は、私たちを御子の姿に似た者にしようとあらかじめ定めておられたのです。「御子の姿に似た者になる」とは、復活されたイエス・キリストのように、朽ちることのない栄光の体に復活するということでありますが、その内面においても神様の御心に完全に従う者とされるということであります。私たちは聖霊によって、今、この地上で御子イエス様に似た者となるようにと造りかえられているのです(二コリント3:18参照)。それは、イエス様が多くの兄弟姉妹の中で長子となるためであったのです。イエス様が多くの兄弟姉妹を持つ長子として栄光を受けるために、私たちは御子の姿に似る者として前もって定められたのです。パウロは、エフェソ書の1書で、神様が私たちを天地創造の前からイエス・キリストにあって選ばれたことを記しました。神様のイエス・キリストにある選びの目的、それはイエス・キリストが多くの兄弟姉妹を持つ長子となるというイエス・キリストの栄光にあるのです。私たちはイエス・キリストに似ている弟、また妹として、その栄光にあずかるのです。それがどのようにして実現していくのかを、パウロは30節で記しているのです。神様はあらかじめ定められた者たちを召し出し、イエス・キリストを信じる者としてくださいました。そして、召し出した者たちをイエス・キリストを信じる信仰によって義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。義とされた者たちに栄光をお与えになるのは、これは将来のことでありますが、ここでは過去形で記されています。そのことが確実であるゆえに、将来のことがすでに与えられたかのように過去形で記されているのです。私たちの救いは、神様が前もって定めておられたことであります。そして、神様はすべてのことを共に働かせて、その救いを私たち一人一人のうえに実現してくださるのです。世から召し出されて教会の一員となり、イエス様を信じたこと、イエス様を信じて義とされたこと、義とされた私たちが栄光を与えられること。それは、神様が前もって定めておられ、神様がすべてのことを働かせて実現させてくださる神様の御業であるのです。そして、ここに私たちの救いの確かさがあるのです。

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