神の子とする霊 2017年2月26日(日曜 朝の礼拝)

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神の子とする霊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。ローマの信徒への手紙 8章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、イエス・キリストに結ばれている私たちの内には、神の霊である聖霊が宿っていること。聖霊は、キリストの霊でもあり、聖霊においてキリストが私たちの内におられ、私たちが神の御前に義とされ、神様との親しい交わり、永遠の命に生かされていることを学びました。さらには、聖霊はイエスを復活させた神の霊であり、その霊によって、私たちの死ぬはずの体も、イエス様と同じ朽ちることのない栄光の体に復活させられることを学んだのであります。

 今朝はその続きである12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 12節と13節をお読みします。

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。

 「肉」と「霊」については、5節から9節にこう記されておりました。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従い得ないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にいます」。ここでの肉とは、聖霊を与えられていない自己中心的な人間のあり方を言います。他方、霊とは、聖霊を与えれてイエス・キリストを信じる人間のあり方を言います。私たちは肉ではなく、霊の支配下におります。ですから、私たちの義務は、肉に従って生きなければならないという肉に対する義務ではありません。これは分かりきったことのようですが、しかし、パウロは、霊の支配下にある私たちが、肉に従って生きる恐れがあることを前提にしてこの所を記しています。パウロは、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」とさえ、警告するのです。これと同じようなことが、6章12節以下にも記されておりました。私たちはキリストによって罪の奴隷状態から解放されたのでありますが、故意に罪を犯し続けるならば、自らを再び罪の奴隷としてしまうことになるのです。それと同じように、聖霊の支配下にいる私たちが、肉に従って生きるならば、自らに死をもたらすのです。ここでの「死」は、永遠の滅び、永遠の死であります。パウロは、「義務」という言葉を用いましたが、神様から恵みをいただいた私たちは、その神様の恵みに応えて、神様の御心に適う者として生きていく義務があるのです。神様は私たちを義とするために、どれほどのことをしてくださったでしょうか?3節には、こう記されておりました。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。神様は、私たちの罪を罪として裁き、罰するために、御子を私たちと同じ人として遣わされました。そして、御子イエス様を十字架の死へと引き渡されたのです。また、イエス様も私たちの罪を自ら担って、十字架の死を死んでくださったのであります。そのイエス様の十字架の死によって、私たちは罪に定められることはない者とされたのです。さらに、神様は、イエス・キリストを復活させ、天へと上げられ、イエス・キリストを通して、聖霊を与えることによって、私たちを肉ではなく、霊の支配下に生きる者としてくださったのです。そのような私たちには、肉ではなく、霊に従って生きる義務があるのです。しかし、パウロはここで、「霊に従って生きるならば、あなたがたは生きます」とは記しませんでした。パウロは、「霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」と記すのです。ここで「断つ」と訳されている言葉は、「殺す」とも訳されます(口語訳、新改訳参照)。パウロは、「霊によって体の仕業を殺すならば、あなたがたは生きます」と言うのです。ここでの「断つ」「殺す」は、現在形で記されており、継続・反復を表します。私たちには、肉の思いが残っており、肉に従ってしまうことがあります。しかし、その肉の働き、体の仕業を聖霊によって殺すならば、私たちは生きるのです。ここで、パウロが教えていることは、霊に導かれるとは、肉の業を一切しないで歩むということではありません。霊に導かれるとは、霊によって肉に従う体の仕業を断ち続ける歩みであるのです。イエス・キリストを主と告白する私たちには聖霊が与えられている。私たちは肉ではなく、霊の支配下に置かれている。そうであれば、肉とかかわりなく生きていけるかと言えばそうではない。私たちの内には肉の欲望がある。その肉の欲望から生じる体の仕業を、聖霊によって断ち続けること。それが「霊によって導かれる」ということであるのです。

 このことは、パウロがガラテヤの信徒への手紙で記していることであります。5章16節から21節までをお読みします。新約の349ページです。

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明かです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前、言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 17節の後半に、「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」とありますが、ここでの「自分のしたいと思うこと」は聖霊が与えられる前の、肉の欲望のことを指しております。私たちの内には肉の思いと霊の思いがあり、その肉と霊が対立している。それで、肉の望むことができなくなっている。これが霊の支配下にあるということであり、その肉の望むところを殺し続けることが霊に導かれるということであるのです。ここでは、パウロが殺すように、命じていた「体の仕業」が「姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ・・・」と具体的に記されています。私たちは聖霊によって、このような体の仕業を断ち続けなければならないのです。神の霊を持っている。霊に導かれていると言いながら、このようなことを行うならば、神の国を受け継ぐことはできないのです。

 もう一箇所開きたいと思います。ヨハネの黙示録の21章1節から8節までをお読みします。新約の477ページです。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。乾いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

 黙示録の21章は、「新しい天と新しい地」の幻について記している慰めに満ちた箇所でありますが、8節には、警告とも言える御言葉が記されています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である」。これは、イエス・キリストを信じていない者たちについて言われているのではありません。イエス・キリストを信じておりながら、肉の望むところに生き続けた者たちのことが言われているのです。パウロは、「肉に従って生きるならば、あなたがたは死にます」と記しましたが、それは「肉に従って生きる者は、火と硫黄の燃える池に投げ込まれる」ということであるのです。ですから、私たちは、聖霊によって、肉に従う体の仕業を断ち続けなければならないのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の284ページです。

 14節と15節をお読みします。

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び畏れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 これまでパウロは、神の霊を、キリストの霊、キリスト・イエスを復活させた御方の霊と言い換えてきましたが、ここでは、「神の子とする霊」と言います。「神の子とする霊」とは「神の養子とする霊」であります。神様の御子、独り子は、イエス・キリストでありますが、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たち、あるいは、幼児洗礼を受けて信仰告白した私たちは、聖霊を与えられて神の養子、神の子とされたのです(ヨハネ1:12参照)。パウロが、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記すとき、そこでは、「この霊」が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊であることを教えています。ガラテヤ書の4章6節では、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と記されています。「アッバ」とはユダヤ人の日常語であるアラム語で、幼い子供が父親に呼びかけるときに使う言葉であります。「おとうちゃん」とか「パパ」と訳せる言葉です。ユダヤ人たちは、そのような言葉を神様に対して用いることはありませんでした。しかし、イエス様は、「アッバ、父よ」と神様に親しく呼びかけ、祈られたのです。マルコによる福音書14章36節を見ますと、イエス様がゲツセマネにおいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたことが記されています。パウロは聖霊を、キリストの霊とも言いましたけれども、私たちは御子キリストの霊を与えられて、「アッバ、父よ」と呼ぶ者たちとされたのです。ここで「呼ぶ」と訳されている言葉は、「叫ぶ」とも訳せます(ガラテヤ4:6では「叫ぶ」と訳されている)。御子の霊を受けた私たちは、口先だけで「アッバ、父よ」と呼ぶのではなく、心の底から、「アッバ、父よ」と叫ぶ、信頼する心を与えられたのです。神様をアッバ、父よと呼び、信頼する心をもって、私たちは祈る者とされたのであります。父と子との交わり、それは最も親密な交わりであります。私たちは神の独り子であるイエス様の聖霊を受けて、神様と最も親しい、父と子との交わりに生きる者とされたのです。

 パウロは、16節で、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と記しております。これは、聖霊を受けてからも、わたしがわたしであり続けることを教えています。私たちが神の霊を受けると、私が私でなくなってしまうというようなことはありません。いわゆる神がかりのような状態になるのではない。私の内に聖霊が宿っていても、私の霊はあるのです。その私の霊と聖霊が一緒になって、私が神の子であることを証ししている。私たちが「アッバ、父よ」と祈るときに、私たちの内にいる御子の霊も一緒に「アッバ、父よ」と祈っているのです。かつてイエス様は、ヨハネによる福音書7章17節でこう言われています。「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしなった父もわたしについて証しをしてくださる」。これと同じことが、私たちにおいても言えるわけです。私たちが「アッバ、父よ」と呼ぶとき、私たちの内におられるキリストの霊も「アッバ、父よ」と呼んでいる。そうであれば、私たちは確かに神の子とされているのです。

 17節をお読みします。

 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 パウロは、「神の子とする霊を受けた私たちは、神の相続人、しかもキリストと共同の相続人である」と記します。キリストに結ばれて神の子とされた私たちは、義の宿る新しい天と新しい地を、天の御国をキリストと共に受け継ぐ相続人とされたのです。これはまことに光栄なことであります。キリストと共に苦しむ私たちは、キリスト共に栄光を受けることができるのです。イエス様が十字架の苦しみを経て、天の栄光へ入られたように、私たちも天の御国を受け継ぐという栄光を受けるためには、苦しみを経なくてはならないのです。そして、それは、キリストのために苦しむ苦しみであるのです。パウロがこの手紙を記した時代、イエス・キリストを信じているゆえに迫害を受け、苦しむことがありました。イエス・キリストを信じるゆえに、仲間外れにされたり、悪口を言われたりすることがあったのです。現代の日本で、イエス・キリストを信じている私たちは、日本国憲法によって信教の自由が保障されていますから、公に迫害を受けることはないかも知れません。しかし、キリスト者として生きるときに、苦しみを受ける、不利益を被ることがあると思います。しかし、それはキリストと共に受ける苦しみであり、決して避けてはならない苦しみであるのです。なぜなら、「キリスト共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるから」であります。

 今朝は、最後にマタイによる福音書の5章10節から12節に記されているイエス様の御言葉を読んで終わりたいと思います。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。

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