私たちの内に宿る神の霊 2017年2月19日(日曜 朝の礼拝)

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私たちの内に宿る神の霊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。ローマの信徒への手紙 8章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、8章1節で、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と宣言いたしました。ここで「キリスト・イエスに結ばれている者」とは、「キリスト・イエスにある者」であります(口語訳参照)。また、2節に、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」とありますが、これも、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」となります。「命をもたらす霊」、「命の霊」とは、神の霊である聖霊のことであります。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた私たちは、キリストにある者たちですが、それはキリスト・イエスにある命の霊によって結び付けられたのです。そのようにして、私たちは罪と死との法則から解放されたのであります。また、パウロが、「キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることはありません」と断言することができたのは、神様が私たちの罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたからであります。イエス様は神の永遠の御子でありますが、罪を別にして私たちと同じ人となられました。そして、十字架のうえで、私たちの罪の裁きと刑罰を受けてくださったのです。私たちの罪の裁きと刑罰は、イエス様が十字架の上で受けてくださいましたから、今や、キリスト・イエスに結ばれている私たちは、罪に定められることがないのです。イエス様の十字架の死は、世の終わりの裁き、主の日の裁きの先取りであったのです。神様はイエス・キリストを十字架の死から復活させられ、御自分の右の座へと上げられました。そして、イエス・キリストを通して、その弟子たちに約束の霊、聖霊を与えてくださったのです。それは、旧約聖書のエゼキエル書の預言を実現するためでありました。エゼキエル書36章27節にはこう預言されています。「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」。神様がキリスト・イエスにある聖霊を与えてくださったのは、肉ではなく、霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求する正しさが満たされるためであったのです。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを義としてくださった神様は、イエス・キリストの聖霊によって、私たちを義に生きるものとしてくださるのです。

 ここまでは、前回の振り返りであります。今朝は、その続きの5節から11節までを御一緒に学びたいと思います。

 5節から8節までをお読みします。

 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の支配下にある者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 ここで、パウロは、「肉」と「霊」とを対比して記しています。肉とは、聖霊を与えられていない生まれながらの人間のあり方を言います。他方、霊とは、イエス・キリストにある聖霊を与えられ、新しく生まれた人間のあり方を言います。ここで、パウロは、人間は肉の支配に生きるか、霊の支配に生きるかのどちらかであることを前提にしています。肉に従って歩む者は肉に属することを考える。この地上の生活のことだけを考えて、自分の欲望を満足させることを追い求める。他方、霊に従って歩む者は、霊に属することを考える。神様に祈り、神様に喜ばれる生活を追い求める。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とあるように、肉と霊は、目指すところ、追い求めるところが全く異なるわけです。それにしても、なぜ、パウロは、「肉の思いは死である」と言い切ることができたのでしょうか?それは、「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」。いや、「従い得ないのです」。肉の思いとは、言ってみれば、自己中心の思いであります。自分を神とする思いであるのです。最初のアダムの罪がまさにそのような罪でありました。エデンの園において、アダムは禁じられた木の実を食べてしまいました。それは、助け手である女の口を通して、蛇の言葉を聞いたからです。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という言葉を真に受けて、アダムは禁じられた木の実を食べたのです。それは、自分を神とする反逆行為であったのです。ですから、神様は、アダムとエバをエデンの園から追放されたわけです。自分を神とする思い、自己中心的な思いこそ、肉の思いであるのです。その肉の思いに従う者は神様に敵対しており、神の律法に従っていない。いや、従いえないのであります。命の源である神様に敵対し、神様の律法に従っていない人間の行き着くところは、神の裁きとしての滅び、永遠の死であります。箴言の8章36節に、「わたしを見失う者は魂を損なう。わたしを憎む者は死を愛する者」とあります。神様に敵対して生きるならば、行き着くところは死、それも永遠の死であるのです。また、パウロは、8節で、「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」とも記しています。神様に敵対し、神様の律法に背いて罪を犯している者を、神様が喜ばれるはずはありません。なぜなら、神様は聖なる、正しい御方であるからです。

 9節、10節をお読みします。

 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。

 イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人、あるいは幼児洗礼を受け、信仰告白をした人の内には、神の霊が宿っております。パウロが第一コリント書の12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記しているように、イエス・キリストを信じる私たちの内には、聖霊が宿っておられるのです。ですから、私たちは、肉ではなく霊の支配下にいるのです。私たちが肉ではなく霊の支配下にいることは、私たちが今朝、教会に集い、イエス・キリストの名によって神様を礼拝をささげているという事実からも分かります。肉の支配下にある者は、日曜日に、教会に行って礼拝しようとは考えません。彼らにとって、日曜日は主の日ではなく、自分の日であるのです。しかし、私たちが週毎に教会に集い、礼拝をささげているのは、私たちが霊の支配下にあるからです。私たちはイエス・キリストの名によってささげられる礼拝において、永遠の命と神様の平和にあずかることができるのです。礼拝こそ、霊に属することを考える貴重な時間であるのです。

 パウロは、9節後半で、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と記しております。ここでは、「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。私たちの内に宿る神の霊は、キリストの霊でもあるのです。私たちはキリストの霊を与えられることによって、キリストに属する者、キリスト者とされたのです。これは、すべて神様がしてくださったことであります。私たちもかつては、肉に従う者でありました。パウロは、5章9節、10節でこう記しておりました。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。ここでパウロは、私たちが神の敵であったと記しています。なぜなら、イエス・キリストを十字架につけたのは、私たちであったからです。この手紙を書いたパウロは、キリストの弟子たちを迫害していたほどであったのです。しかし、その私たちに、神様はイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました。「イエスは主である」と告白する聖霊を与えてくださったのです。キリストの霊を与え、キリストに属する者としてくださったのであります。それは、神様の一方的な恵みによることであるのです。

 10節に、「キリストがあなたのがたのうちにおられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」と記されています。パウロは、9節で、「神の霊」を「キリストの霊」と言い換えましたが、10節では、「キリスト」と言い換えています。キリストの霊が私たちの内に宿っていることは、キリストが私たちの内におられるということであるのです。このことは、イエス様御自身が弟子たちに教えられたことでありました。ヨハネによる福音書14章15節から20節までをお読みします。新約の197ページです。

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが分かる。

 飛んで、23節をお読みします。

 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

 ここに記されているのは、イエス様の告別説教の一部であります。小見出しに「聖霊を与える約束」とありますように、イエス様は、御自分が御父のもとに帰られるに先立ち、もう一人の弁護者として聖霊を遣わすことを約束してくださいました。この聖霊によって、イエス様と弟子たちが永遠に一緒にいるようにしてくださると言うのです。イエス様だけではありません。聖霊において、父なる神様とイエス様が私たちの内に一緒に住んでくださるのです。このように、イエス様の名によって遣わされる聖霊により、私たちの内に、父なる神とイエス様が一緒に住んでくださるという命の交わりが実現するのです。そして、私たちは、今、イエス・キリストを通して聖霊を与えられたことにより、神様(父)とイエス様(子)との交わり、永遠の命に生かされているのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の284ページです。

 神の霊が私たちの内に宿っている。そして、その神の霊はキリストの霊であり、キリストが私たちの内におられるとも言える。そうであれば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっている、とパウロは記します。ここでの体は、私たちの存在そのものです。アダムの子孫として生まれてきた私たちには、生まれながらの罪があります。イエス・キリストに結ばれてからも、罪に傾く性質、腐敗は残っているのです。そして、実際に、私たちは日々罪を犯してしまうのです。しかし、パウロは、「霊は義によって命となっている」と語るのであります。ここでの霊は、私たちの内に宿る神の霊であり、キリストの霊のことであります。私たちの内に宿っておられるキリストは、私たちの罪のために十字架の死をしなれた御方であり、私たちを正しい者とするために復活させられた御方であります。復活されたイエス・キリストは、天へと上げられ、永遠に生きておられる御方であるのです。その御方の霊が、私たちの内に宿っている。そして、今既に、神の御前に正しい者とされ、神様との親しい交わり、父と子との交わりに生かされているのです。

 11節をお読みします。

 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 ここで、「神の霊」が「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言い換えられています。私たちの内に宿っている神の霊は、イエス様を死者の中から復活させられた神の霊でもあるのです。そうであれば、神様は、あなたがたの内に宿る霊によって、あなたがたをも復活させてくださると言うのです。パウロは、イエス・キリストの復活について、第一コリント書の15章で詳しく教えておりますが、そこで、イエス様の復活は、私たちの初穂であったと記しています(一コリント15:20参照)。初穂はその畑の収穫を保証するものです。ですから、イエス様を信じる人は、イエス様と同じように、朽ちることのない、栄光の体で復活するのです。しかし、それはイエス様と同じように、死から3日目ではありません。イエス・キリストが栄光の主として天から来られる日に、復活させられるのです。なぜ、私たちはイエス様と同じように復活すると言えるのか?それは、私たちの内に宿っている聖霊が、イエス様を復活させられた神の霊であるからです。

 ここに記されていることは、目に見えない信仰の世界であります。イエス様が言われたように、「世は、この霊を見ようとも受け入れようともしないので、受け入れることができません」(ヨハネ14:17)。肉の支配下にある人にとって、ここでパウロが記していることは、戯れ言のように思えるかも知れません。しかし、目に見えないものを信じることが信仰であるのです。目に見えるものだけで世界は成り立っているのではない。目に見えない世界を信じること、それが現代に生きる私たちにも必要なことであります。そして、そのような目に見えない世界、霊に属することを考えることができるのは、聖霊なる神様が、私たちの心に宿っていてくださるからです。

 パウロは、7章24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と記しました。その嘆きの答えが、8章11節に記されています。キリストを復活させた神様が、その霊によって、私たちの死ぬはずの体をも生かしてくださる。私たちもいずれは死んで、この地上の生涯を終えます。しかし、神様はその私たちを世の終わりに、イエス様と同じ栄光の体で復活させてくださるのです。

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