わたしの中に住んでいる罪 2017年2月05日(日曜 朝の礼拝)

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わたしの中に住んでいる罪

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 7章7節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙 7章7節~25節

原稿のアイコンメッセージ

前回、私たちは、7節から13節までを中心にして、律法と罪の関係について学びました。パウロが先ず明かとしたことは、「律法は罪ではない」ということであります。律法は神の掟でありまして、聖であり、正しく、善いものであるのです。しかし、罪はその律法によって機会を得て、わたしを欺き、死をもたらしたのでありました。律法は聖であり、正しく、善いものでありますが、しかし、罪はその律法を用いて、わたしに罪を犯させ、わたしを殺してしまったのです。また、私たちは、神様がアダムにあって堕落した人間に律法を与えられた目的について学びました。なぜ、神様はアダムにあって堕落した人間に律法を与えられたのか?それは、律法によって罪が限りなく邪悪なものであることを示すためでありました。律法によって罪が限りなく邪悪であることを示し、救い主イエス・キリストへと私たちを導くためであったのです。

 今朝はその続きである14節から25節までを御一緒に学びたいと思います。

 14節に、「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています」と記されています。「律法が霊的なものである」とは、「律法が神様を源とするものである」ということです。律法は神様の御心の現れであり、神様がイスラエルの民にお語りになったものであるのです。律法は霊的である。しかし、それを与えられた「わたし」はどうか?パウロは、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と記します。この「わたし」については、前回の説教の時にも申しましたが、「パウロ個人に留まらない、アダムにあって堕落したすべての人間」を指しています。パウロが「わたしは肉の人であり」と記す「肉の人」とは神の霊、聖霊を与えられていない生まれながらの人間を指しております。アダムにあって良き創造の状態から堕落した人間、それが「肉の人」であります。また、パウロが「罪に売り渡されています」と記すとき、アダムにあって堕落したすべての人が罪の奴隷とされたことを意味しています。パウロは、6章で、「イエス・キリストに結ばれた者たちは、キリストの死にあずかり、罪に死に、罪の奴隷状態から解放されたのだ」と記しました。しかし、アダムに結ばれた人間は、罪に売り渡されている罪の奴隷であるのです。これは、キリストに結ばれた者として、振り返ったときに、初めて分かることであります。前回も申しましたが、パウロはキリストに結ばれた立場から、かつてのアダムに結ばれていた自分、さらにはすべての人間について記しているのです。肉の人であり、罪の奴隷であったときは、自分が肉の人であり、罪の奴隷にされているとは分からないのです。聖霊を与えられ、罪から解放された者として振り返って見るときに、かつての自分が肉の人であり、罪の奴隷であったということが分かるのであります。パウロは、イエス・キリストを信じる前の「わたし」を、なぜ、「肉の人であり、罪に売り渡されている」と言い切ることができるのでしょうか?それは15節にありますように、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。パウロが「自分の望むことは実行せず」と記すとき、その「望むこと」は霊的な律法が命じていることであります。12節によれば、律法は聖であり、正しく、善いものでありました。神様のかたちに似せて造られた人間は、神様の掟に命じられている正しく、善いことを望むことができるのです(ローマ2:14、15参照)。例えば、十戒の第九戒に「偽証してはならない」とあります。これは平たく言えば、「うそをついてはいけない」ということです。「うそをついてはいけない」。それは正しく、善いことだと分かる。そして、うそをつかないで生きて行きたいと望む。しかし、それを実行できるかと言えば、実行できない。かえって憎んでいることをしてしまう。この場合でしたら、うそをついてしまうわけです。16節に、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります」とありますが、これは意味のよく分からない言葉であります。通常は、善いものであると認めれば、そのとおりにいたします。誰かからアドバイスを受けて、善いアドバイスと認めれば、そのアドバイスどおりにします。ですから、律法を善いものとして認めるならば、律法を行うはずです。しかし、そうはならない。むしろ、律法に反することを行うことによって、律法を善いものとして認めるというのです。パウロは、「わたしは、自分のしていることが分かりません」と記しておりますが、律法に背く、望まないことを行うことによって、律法を善いものとして認めるということが起こるのです。パウロは、自分は望むことを実行せず、憎んでいることを行う。望まないことを行うことによって、律法が善いものであると認めていると記します。なぜ、そのようなことになるのか?それは、アダムに結ばれているわたしの中に罪が住んでいるからであるのです。パウロは、17節から20節でこう記しています。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。ここに描かれているのは、人間の内面、しかも二つに引き裂かれている人間の内面であります。わたしは、神の律法が正しく、善いものであり、それを行いたいと望んでいる。しかし、実際は、かえって神の律法に背く憎んでいることを行ってしまう。その現実を前にして、パウロは、「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と記すのです。これは責任の逃れの言葉ではありません。罪に支配されてしまっている人間の嘆きであります。「善をなそうという意志はあるが、それを実行できない」という現実に直面して、アダムに結ばれている自分の内には、善が住んでいないことを体験として知ったのです。創世記の6章に、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と記されています。また、同じ創世記の8章を見ますと、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という主の御言葉が記されています。このように、聖書はアダムにあって堕落した人間の心は悪に満ちていることを教えています。しかし、パウロがここで記していることは、自分のこととして、自分の肉には善が住んでいないことを体験として知ったということであるのです。「人間の思うことは幼いときから悪い」と聞きましても、「自分は違う」と考えるのが、私たち人間であると思います。「わたしだけは善い人間になろう」と考えるのです。そして、神の律法を実行しようとするのです。しかし、そこで体験として知ることは、「善をなそうという意志はあるが、それを実行できない」ということであります。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」ということです。そのような体験を積み重ねるとき、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と言わざるを得ないのです。

 「わたしは自分の望む善を行わずに、望まない悪を行っている」体験を重ねることによって、パウロは、ある法則を発見いたします。それは「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている法則」であります。22節に、「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」と記されています。「内なる人」とは「人間の内面」のことであります。「顔は無表情であっても、心の中では喜んでいる」ことがあるように、内なる人としては神の律法を喜んでいる。では、その喜んでいる神の律法を実行すればよいのでありますが、それを実行せずにかえって憎むことをしてしまう。それは、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているからです。パウロは「内なる人として神の律法を喜んでいる」ことを「心の法則」と呼び、「神の律法を実行せず、かえって憎むべきことを行ってしまう」ことを「罪の法則」と呼んでおります。心の法則とは、人間が神様のかたちに似せて造られたことに由来する、神の律法を行うように命じる法則であります。他方、罪の法則とは、アダムの堕落に由来する、神の律法に背くように命じる法則であります。その二つ律法・法則がわたしの内で激しく戦うのです。そして、罪の法則が必ず勝利を収め、わたしは罪の法則の虜、捕虜であることを発見するのです。これは、何度も申しますように、キリストに結ばれた者の立場から、アダムに結ばれていたかつての自分を振り返って記した者であります。肉の人であり、罪に売り渡されていたときは、律法に背くことをしていても、悩むことなどなかったのです。それこそ、自分はやりたいことをしている、自由であると思っていたのです。しかし、イエス・キリストを信じて、聖霊を与えられ、罪から解放されたときに、かつての自分が望むことをせず、かえって憎んでいることをしていた。自分は罪の法則の虜であったことが分かったのです。私たちもそのことが分かったからこそ、成人洗礼を受けたし、また、幼児洗礼を受けている人であれば信仰告白をしたのであります。成人洗礼を受けるとき、また、幼児洗礼を受けている人が信仰告白をするとき、六つの誓約をいたします。その二つ目は、次のようなものです。「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを、認めますか」。私たちは、「わたしは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを認めた」のです。それは今朝の御言葉で言えば、自分が罪の法則の虜であり、惨めな人間であると認めたということであります。そして、そのように私たちが認めることができたのは、私たちの心に聖霊が働いてくださったからであるのです。パウロは、24節で、「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、どれがわたしを救ってくれるでしょうか」と記しました。パウロが、「死に定められたこの体」と記したのは、神の掟に背くことが死をもたらすからです。神様の掟は、守れば命を与え、破れば死を与えるというものでありました。神様の掟を守るならば命が与えられる。それならば、神の掟を守ろうと思う。わたしの心はそれを望んでいる。しかし、実際にそれを行おうとすると、五体の内にある罪の法則によって、神の掟に背いてしまう。そのようにして、わたしは死ぬべき者となった。わたしはわたしを救うことはできない。まさに絶望であります。しかし、その絶望を突き抜けたところに、まことの希望があるのです。なぜなら、イエス・キリストが死に定められたこの体から、罪の法則から、わたしを救ってくださったからであります。それゆえ、私たちも、パウロと共に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言うことができるのです。パウロは、25節の後半で、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と記しました。これは、今朝の御言葉の要約とも言える言葉であります。アダムに結ばれていた、かつての自分を振り返るとき、わたしは心では律法に仕えていたが、肉では罪の法則に仕えていた。そして、罪の法則の虜とされ、神の掟に背く死すべき者であることが分かった。それはまことに深い絶望であります。しかし、この絶望を体験しなければ、イエス・キリストをわたしの救い主として信じ、受け入れることはできないのです。先程、六つの誓約の二つ目について申し上げました。そこで私たちは、「わたしは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを、認めます」と誓約したわけです。そして、続けて、こう誓約するのです。「わたしは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます」。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そのように嘆くのは、キリストに結ばれる前のことであります。なぜなら、8章2節にありますように、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」。イエス・キリストに結ばれている私たちは、もはや、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆く必要はありません。むしろ、私たちは、主イエス・キリストを通して救われた者たちとして、神様に感謝をささげて歩んで行きたいと願います。

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