律法と罪の関係 2017年1月29日(日曜 朝の礼拝)
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律法と罪の関係
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 7章7節~25節
聖書の言葉
7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙 7章7節~25節
メッセージ
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先程は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節までを読んでいただきましたが、今朝は7節から13節までをご一緒に学びたいと思います。新共同訳聖書は、7節から12節までを一つの段落としていますが、元の言葉を見ますと、7節から13節までが過去形で記されており、14節から25節までが現在形で記されています。今朝は過去形で記されている7節から13節を一つの区切りとして、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
パウロは7節前半で、「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない」と記しております。これは、パウロがこれまで語って来たことから予想される当然の質問であると思います。パウロは6章14節でこう記しておりました。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。ここでは、「罪」と「律法」が同義語のように用いられています。 また、パウロは6章22節と7章6節で、ほぼ同じ形で、罪からの解放と律法からの解放について記しました。6章22節、「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」。7章6節、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」。パウロは罪からの解放に続いて、律法からの解放を記しました。それも、同じような文体で記したわけです。そうしますと、「律法は罪であろうか」という疑問が湧いて来るわけです。しかし、パウロは、「決して、そうではない」と言って、そのような考えを断固として退けるのです。では、律法と罪はどのような関係にあるのか?パウロは7節後半でこう記しています。「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」。ここでの「わたし」は、パウロを含めたすべての人間を指しております。パウロは、キリストに結ばれた者として、かつてのアダムに結ばれていた「わたし」について記しているのです。パウロは、「律法は罪ではない」と言いましたが、「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」と記します。そして、その具体例として、「むさぼるな」という掟について語るのです。「むさぼるな」。これは十戒の最後の掟であります。出エジプト記20章17節にはこう記されています。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」。新共同訳聖書は「欲する」と訳していますが、口語訳聖書では「貪る」と訳されていました。「貪る」とは「ひどく欲しがる」ことであるのです。むさぼる欲望、これがすべての罪の源にあると考えられておりました。隣人のものを貪る思いが盗みや殺人を引き起こす。また、隣人の妻を貪る思いが姦淫の罪を引き起こす。神様のもの(栄光や主権)を貪る思いが偶像崇拝の罪を引き起こすわけです(コロサイ3:5参照)。その「むさぼり」という罪をパウロはどのように知ったのか?それは、神様から「むさぼるな」という掟を与えられた時であったと言うのです。掟を与えられる前、わたしの内にある罪は死んでいた。これは眠っていた。活動していなかったという意味です。アダムの子孫として普通の仕方で生まれてくるすべての人は罪を持って生まれてきます。いわゆる原罪があるのです。しかし、律法がなければ、私たちの内にある罪は活動しないのです。しかし、「むさぼるな」という掟が与えられると、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしたのでありました。8節に「罪は掟によって機会を得」とありますが、この「機会」と訳されている言葉は「軍事拠点」とも訳せる言葉であります。罪は律法を軍事拠点として、私たちのうちに支配を拡大していくわけです。
パウロは9節から11節でこう記しています。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして掟によってわたしを殺してしまったのです」。パウロは、7章7節から25節を「わたし」という一人称単数形で記しているわけですが、この「わたし」とは「パウロを含む、アダムに結ばれたすべての人である」と申しました。「わたし」と言えば、それはこの手紙を記しているパウロであると考えられるわけですが、そこに留まるのではなくて、アダムに結ばれたすべての人間について、キリストに結ばれた者の立場から振り返って記しているのです。この9節から11節までを読むとき、私たちは、創世記の2章、3章に記されているエデンの園の物語を思い起こすと思います。パウロが、エデンの園の物語を念頭に置きつつ、この所を記しているのは明かであると思います。この「わたし」は、わたしの内にいるアダムの言葉として読むことができるわけです。最初の罪は、どのように犯されたのか?それは神様が掟を与えることによってでありました。神様は最初の人アダムをエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようにされました(創世2:15参照)。その時、アダムは「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました」と言い得る状態であったわけです。しかし、そのアダムに神様は一つの掟を与えられました。神様はアダムに命じてこう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世2:16,17)。まさに「掟の登場」でありますね。この掟はアダムに与えられた特別な掟でありました。エデンの園には、見るからに好ましく、食べるに良いあらゆる木が生えている。そのすべての木から取って食べなさい。ただし、園の中央に生えている善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べる必ず死ぬ、そう神様は言われたのです。ここで、私たちは、掟と死が結び付いていることに注目したいと思います。神様が掟について語られたとき、その掟を破ったら「必ず死ぬ」と言われたのです。ここに罪は目をつけるわけです。エデンの園の物語で言えば、蛇はここに目をつけるわけです。誘惑者としての蛇が活動を始めたのはいつか?それは、神様が掟を与えられたときでありました。蛇は、アダムの助け手として造られた女に、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と話しかけるわけです(創世3:1)。神様は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。神様は、掟を破ったら必ず死ぬと言われましたけれども、それは裏を返せば、掟を守れば必ず生きる、命が与えられるということであります。エデンの園の中央には、二本の木が生えておりました。一本は、善悪の知識の木であり、もう一本は、「命の木」であります(創世2:9参照)。そして、「命の木」は、アダムが掟を守ったら与えられたであろう命を象徴していたわけです。神様の掟は、「善悪の知識の木から食べないならば、あなたは生きる、命を与えられる」という掟でもあったのです。神の掟は、生と死にかかわることであるのです。しかし、その掟が登場したとき、罪が生き返った。エデンの園で蛇が活動を始めたように、わたしの内にある罪が活動を初めて、わたしに罪を犯させ、わたしは死んだ。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かったのです(レビ18:5参照)。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。エデンの園において、女は蛇に欺かれたわけです。蛇は女を言葉たくみに誘惑しました。神様の言葉にさまざまな解釈を施し、神様の掟に背くように誘惑したわけです。蛇は女に、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」とさえ言ったのです(創世3:4)。その蛇の言葉を聞いた後で、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と聖書は記しています(創世3:6)。女の心の中は、禁じられた木の実を食べたいという「むさぼり」の思いで一杯であったのです。そしてそれは、「神のようになりたい」という「むさぼり」の思いでもあったのです。アダムも女の手から禁じられた木の実を受け取り、食べました。するとどうなったか?「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」のです(創世3:7)。これまでアダムと女は裸であっても、恥ずかしがりはしませんでした(創世2:25参照)。しかし、禁じられた木の実を食べたとき、二人は互いを恥じる者となったのです。そればかりか、二人は神様の顔を避けて、園の木の間に隠れたのでありました。禁じられた木の実を食べて目が開かれた二人は、自分たちが裸であることを知りました。彼らは神のようになるどころか、自分たちが神様の御前に立つことができない罪人であることを知ったのです。そして、「必ず死ぬ」と言われていたように、彼らはエデンの園から追放され、神様との親しい交わりを失い、霊的に死んだ者となったのです。このことをパウロはアダムに結ばれていた者として、「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」と言い表したわけです。「罪は掟によって機会を得た」とありますが、実は、罪そのものに私たちを殺す力はないのです。では、なぜ、「罪が支払う報酬は死です」と言えるのかと言えば、それはその背後に神の掟があるからなのです(ローマ6:23)。神の掟がなければ、罪は罪として認められない(ローマ5:13参照)。神様の掟がなければ、園の中央にある善悪の知識の木を食べても死ぬことはなかったのです。しかし、神の掟がありますから、アダムは善悪の知識の木の実を食べたときに、必ず死ぬ者となったのです。ある人は、木の実の一つぐらい食べてもよいではないかと申します。あるいは、アダムがすぐに謝ったら神様は赦してくださったはずだと申します。しかし、そのようなことはあり得ません。なぜなら、神の掟があるからです。
パウロは、12節で、「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」と記します。これまで、パウロは掟と罪を分けて記してきました。掟は罪ではない。罪が掟によって機会を得、わたしを欺き、罪を犯させるのであると記して来たわけです。律法は、神の掟でありますから、聖なるものであり、正しく、そして善いものであるのです。パウロは決して、律法を罪であるとは言っていないわけです。そうしますと、13節のような問いが当然湧き起こってくると思います。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか」。これは言い換えれば、「神様は私たちに死をもたらすために律法をお与えになったのか」ということであります。神様はアダムにあって堕落した人間に、とりわけ御自分の民とされたイスラエルに律法をお与えになりました。それは、私たちに死をもたらすためであったのか?パウロはそのような考えを、「決して、そうではない」と断固として退けます。そして、続けてこう記すのです。「実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした」。神様がアダムにあって堕落し、罪をもって生まれてくる私たちに掟を与えられたのは、掟を通して死をもたらす罪が、限りなく邪悪であることを私たちに示すためであったのです。それは私たちに、掟を通して死をもたらす限りなく邪悪な罪からの救いを求めさせるためであります。パウロは、24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と記しています。このような叫びは、律法を与えられなければ出てこない叫びであります。神様の聖なる、正しい、善い掟の前に立つとき、そして、その掟を通して働く罪に欺かれて、罪を犯してしまう自分であることが分かったときに、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆きの叫びを上げることができるのです。そのようにして、律法は私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導くわけです。パウロは、5章20節で、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と記しました。アダムによって堕落した人間に、神様が律法を与えられたのは、それを守って命を得させるためではありません。律法を通して死をもたらす罪が限りなく邪悪なものであることを示し、私たちを救い主イエス・キリストへと導くためであるのです。