義の奴隷 2017年1月15日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。
6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6章15節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ローマの信徒への手紙6章15節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 15節と16節をお読みします。

 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死にいたるか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

 「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」。この問いかけは、直前の14節を受けてのものであります。14節にこう記されておりました。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。「律法の下にいる」とは、自分で律法を守ることによって神様に正しい者としていただこうとする人間のあり方を指しています。他方、「恵みの下にいる」とは、イエス・キリストの信仰によって神様の恵みによって正しい者とされた人間のあり方を指しています。主イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守り、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって神様に義とされたのです。それでは、私たちは罪を犯してもよいのでしょうか?このパウロの言葉の背後には、パウロが宣べ伝えていた福音に対する誤解や中傷があります。イエス・キリストの信仰によって神様の御前に義とされるならば、罪を犯してもよいことになってしまうではないか?そのように主張する人々が実際にいたのです。パウロはそのような者たちを念頭に置きつつ、「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」と記しているのです。そして、そのような考え方を、「決してそうではない」と断固として退けるのです。なぜなら、罪を犯す人は、罪に仕える奴隷となってしまうからです。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。「あなたがたは、だれかの奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる」。これは、「知らないのですか」と言われているように、自明のこととして記されています。私たちは、イエス・キリストに結ばれて罪から解放されたのでありますが、故意に罪を犯し続けるならば、再び罪の奴隷となってしまうのです。このことは、ヨハネによる福音書の8章でイエス様がユダヤ人たちに言われたことであります。イエス様は、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われました(ヨハネ8:34)。また、このようにも言われました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この真理とは、イエス様御自身のことであります(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」参照)。イエス様によって、私たちは罪から解放されて自由な者とされたわけです。しかし、その私たちが、故意に罪を犯し続けるならば、再び自分を罪の奴隷としてしまうことになるのです。パウロが言っているのは、そのことであります。「神様の恵みによって罪を赦された。ああ、これで、安心して罪を犯せるぞ」と考えるならば、それは自分を再び罪の奴隷にすることであるのです。パウロは、「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と記しました。ここでパウロが言っていることは、人間は、罪に仕える奴隷か、神に従順に仕える奴隷かのいずれかの立場に身を置いているということであります。「私は誰の奴隷でもない」という人はいないのです。また、イエス様が「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われたように、罪にも、神にも仕えるということはできないのです(マタイ6:24参照)。私たち人間は、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかであるのです。そして、聖書は、最初の人アダムの罪によって、すべての人が罪の奴隷となり、死に至る者となってしまったことを教えているのです。

 17節と18節をお読みします。

 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。

 最初の人アダムが神の掟に背いて罪を犯すことによって、アダムから普通の仕方で生まれてくる全人類は、罪に仕える奴隷となりました。しかし、神様は、イエス・キリストにあって、私たちを罪という主人から贖い、御自分に従順に仕える奴隷としてくださったのです。それゆえ、パウロは、「神に感謝します」と記すのであります。私たちは、かつて罪の奴隷でありましたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになったのです。新共同訳聖書は、「伝えられた教えの規範」と翻訳していますが、元の言葉では、「あなたたちが渡されたところの教えの規範」と記されています。私たちに教えの規範が渡されたのではなくて、教えの規範に私たちが渡されたのです。私たちに従わせて、教えの規範を変えるのではなくて、教えの規範に従って、私たちを変えていただくのです。なぜなら、「教えの規範」とは、使徒たちの教えであり、イエス・キリストの福音であり、神の言葉であるからです(一コリント15:1~11、ヨハネ3:34参照)。私たちは、神様の恵みによって、教えの規範に渡されて、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになったのです。初代教会において、洗礼を受ける前に、「イエスは主である」と公に言い表すことが求められました(使徒8:37参照)。信仰を言い表してから、洗礼を受けたのです。私たちは第二主日の礼拝において「使徒信条」を告白しています。使徒信条も洗礼を受ける前に告白された信仰告白であったと言われています。私たちの教会でも、成人洗礼を受ける前に、あるいは幼児洗礼を受けた方が信仰告白をする前に、六つの誓約をいたします。その1から4までで、私たちは自分が渡されたところの教えの規範を言い表すわけです。「①わたしは、天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じます。②わたしは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを認めます。③わたしは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます。④わたしは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、決心し約束します」。これが、私たちが渡された教えの規範でありますね。その教えの規範に心から従うようにされて、私たちは罪から解放され、義に仕えるようになったのです。これは私たちがしたことではなくて、神様が恵みによってしてくださったことであるのです。

 19節から23節までをお読みします。

 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 パウロは、罪と私たちとの関係、また、神様と私たちとの関係を、主人と奴隷に譬えて語ってきました。当時、紀元1世紀のローマ社会は奴隷制度の上に成り立っていました。ですから、主人と奴隷の関係は、とても分かりやすい譬えであったのです。私たちは、かつて罪の奴隷でありましたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。主人が罪から義に替わったわけです。それゆえ、パウロは、「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言うのです。ここで注意したいことは、義の奴隷とされたからと言って、自動的に、聖なる生活を送るようにはならないということです。恵みの下にありながら、義の奴隷とされておりながら、罪を犯してもよいのではないかと考え、罪を犯し続けるならば、その人は実質的に罪の奴隷となってしまうのです。ですから、私たちは義の奴隷として、神様に五体を献げて、聖なる生活を送るようにしなければならないのです。聖なる生活とは、汚れと不法の反対の生活ですね。神様の掟に適った道徳的、倫理的に清い生活のことであります。神様によって罪赦された人は、罪に汚れることがないように自分を守る人でもあるのです。ウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、義認と聖化は一体的な関係にあるのです。義と認められて義の奴隷とされた人は、聖なる生活を追い求めるようになるのです。

 私たちも教えの規範に渡される前は、罪の奴隷であり、義に対しては自由の身でした。「義に対して自由の身であった」とは、「義という主人と縁がない者であった」ということです。では、そのころ、どんな実りがあったか。罪という主人に従っていたとき、私たちはどのような生活を送っていたか。それは、私たちが今では恥ずかしいと思うものであります(二ペトロ2:13~16参照)。そして、それらの行き着くところは、死にほかならなかったのです。しかし、私たちは、今や罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます(新改訳「清潔に至る実を得た」参照)。その行き着くところは永遠の命です。

 奴隷とは主人に仕える者でありますが、罪という主人と神という主人に仕えるとでは、その生活も、行き着く先も全く違うわけです。そのことをパウロは、23節ではっきりと記しています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。ここで、「報酬」と「賜物」が対照的に記されています。報酬は「働いた者に対する報い」であります。しかし、賜物は「働きとは関係なく、恵みとして与えられるもの」であるのです。罪という主人に仕えて働いても、その報酬は死であります。ここでの死は「永遠の滅び」のことです。しかし、神という主人に仕えるならば、働きとは関係なく、恵みとして、主イエス・キリストによる永遠の命をいただくことができるのです。それゆえ、私たちは罪を犯しつつも、義の奴隷として神様に仕えていくことができるのです。神様は賜物として、「わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命」をくださいます。ですから、私たちは、信仰と悔い改めをもって従順に仕え、聖なる生活を追い求めていきたいと願います。

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