義のための道具として 2017年1月08日(日曜 朝の礼拝)
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義のための道具として
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 6章1節~14節
聖書の言葉
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
6:7 死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。ローマの信徒への手紙 6章1節~14節
メッセージ
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今年もローマの信徒への手紙を御一緒に読み進めていきたいと思います。
パウロは6章1節で、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と記しました。これは、5章20節の御言葉、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という御言葉から予想される反論を記したものであります。「罪が増したところに、神の恵みがいっそう満ちあふれるなら、罪にとどまったほうがよいではないか」。「神の恵みをいただいくために、罪の中にとどまろう」と言う者たちがいたのです(3:8参照)。パウロは、そのような者たちを想定して、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と問い、「決してそうではない」とそのような考え方を断固として退けるのです。パウロが「決してそうではない」と記す理由、それは私たちが罪に対しては死んだ者たちであるからです。恵みを受けてイエス・キリストに結ばれた私たちは罪に対して死んだのです。ですから、なおも罪の中に生きることはできないのであります。そのことをパウロは、イエス・キリストに結ばれる洗礼によって説明するのです。イエス・キリストの名による洗礼を受け、キリストに結び合わされた私たちは、その死にあずかるものとなったのであります。なぜなら、私たちが洗礼によって結ばれたキリストは私たちのために、私たちの身代わりとして十字架の死を死んでくださった御方であるからです。それゆえ、洗礼によってイエス・キリストに結ばれた私たちはキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となったのです。そればかりか、私たちはキリストの復活にもあずかる者となったのであります。私たちが洗礼を受けたのは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、新しい命に歩むためであったのです。
私たちはイエス・キリストの名による洗礼によってキリストと結びつけられたのですが、それは木に枝が接ぎ木されて、一つの命に生きる有機的、生命的な結び付きであります。それゆえ、私たちはキリストと一体とされ、その死の姿と復活の姿に似た者となるのです。私たちは洗礼によってキリストと結び合わされ、その死にあずかることにより、私たちのアダムに結びついた古い自分は死にました。そのようにして、私たちは罪に対して死んだ者となりました。また、私たちは洗礼によってキリストと結び合わされ、キリストに結ばれた新しい自分として生きる者となりました。そのようにして、私たちは神に対して生きる者となったのです。キリストが死なれたのはただ一度私たちの罪のために死なれたのであり、もはや、死はキリストを支配しません。キリストは御父によって朽ちることのない栄光の体に復活させられたからです。そのキリストと結ばれている私たちは、罪に留まることは決してできないのであります。もし、そう考えるならば、それは思い違いをしているのです。私たちは、自分のことをイエス・キリストに結ばれて、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者と考えるべきであるのです。
ここまでは、昨年二回に渡ってお話ししたことの振り返りであります。今朝は12節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
12節から14節までをお読みします。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
ここには、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である私たちがどのように生きるべきかが記されています。パウロは、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」と記します。このパウロの言葉は、私たちが罪に支配されてしまう恐れがあることを前提としています。このことは、私たちが体験としてよく知っていることであります。私たちはイエス・キリストに結ばれる洗礼を受けて、罪に対しては死んだ者となり、神に対しては生きる者となりました。しかし、だからと言って、罪を全く犯さないようになったのではありません。私たちが主の日の礼拝ごとに、罪の告白をしているように、私たちは、日ごとに罪を犯してしまうのです。このことはパウロもよく知っていたことであります。ですから、パウロは7章で、「内在する罪の問題」について記すわけです。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対しては生きているのだと考えなさい」と記したパウロが、そこではこう記しています。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:19,20)。私たちのうちにはなお罪が残っている。アダムから受け継いだ神の掟に背く性質、いわゆる腐敗が残っているのです。しかし、今朝、私たちがはっきりと弁えたいことは、私たちの内に罪が残っていることは、私たちが罪に対して死んだ者であることと矛盾しないということです。私たちには罪が残っており、日ごとに罪を犯してしまいますけれども、それは、私たちがイエス・キリストに結ばれて罪に対して死んでいるという事実を無効にするものではないのです。私たちに残っている罪の問題について、ある神学者は、戦争のたとえを用いて説明しております。私たちは罪に対して、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって決定的な勝利をおさめています。しかし、それで私たちと罪との戦いが終わったわけではない。主イエス・キリストによって勝利は決定的なものとなりましたが、完全な勝利がもたらされるまで、局地戦が行われているというのです。それが、私たちの内に残る罪との戦いであると言うのであります。私たちの体は「死ぬべき体」と言われているように罪や弱さがあります。しかし、私たちは死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはならないのです。ここでは、「罪」と「体の欲望」が同義語のように用いられています。誤解のないように申しますが、聖書は、霊は善であり、肉体は悪であるという霊肉二元論を教えておりません。では、ここでパウロは何を言っているのでしょうか。それは、罪は体の欲望を刺激して、唆すという仕方で私たちを従わせるということであります。最初の人アダムの罪は、「善悪の知識の木の実を食べる」という食欲と結びついていました。アダムはお腹が空いていたからこそ、禁じられていた木の実を食べたのです。また、姦淫の罪は性的な欲望を満たそうとする性欲と結びついています。そして、その欲望はどちらも目で見ることによって刺激されるのです。アダムに禁じられていた木の実を手渡したのは女でありましたが、聖書は、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と記しています(創世3:6)。また、ダビデ王がウリヤの妻バトシェバと姦淫の罪を犯したのは、彼女が水浴びをしている所を見たからでありました(サムエル下11:2参照)。ダビデはバトシェバの裸を目に留めて、欲望を刺激され、その欲望を満たすために姦淫の罪を犯したのです。私たちが生きている現代社会は、私たちの欲望を刺激し、唆すもので満ちております(テレビ、インターネットなど)。それゆえ、私たちはそのようなものから遠ざからねばならないのです。ヨブは「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに/どうしておとめに目を注いだりしようか」と語りました(ヨブ31:1)。そのように私たちも自分の目を、体の欲望を刺激し、唆すものに注いではならないのです。目に入らないようにすることはできなくても、目を注ぎ続けないことはできるわけですね(マタイ5:28、29参照)。悪魔は私たちの体の欲望を刺激し、唆して、私たちに罪を犯させます。それゆえ、私たちは体の欲望を刺激し、唆すものから自らを遠ざけるべきであるのです。
また、パウロは、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」と命じます。パウロは罪を私たちの体において犯される具体的な罪として考えております。新共同訳聖書は「罪に任せてはなりません」と訳していますが、元の言葉では、「罪にささげてはなりません」と記されています。「罪にささげないで、神にささげなさい」と記されているのです。パウロが、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪にささげてはならない」と記すのは、私たちが罪に対しては死んだ者であるからです。かつて、私たちはアダムに結ばれていた者として罪の奴隷でありました。しかし今や、私たちはイエス・キリストに結ばれて罪に対しては死んだ者となった。そのようにして、罪という主人からは解放されたのです。そのことは、私たちのうちに罪が残っておりましても変わりません。罪に対して死んだ私たち、罪から解放された私たちが自分の五体を不義のための道具として罪にささげてはならないのです。それは、罪という主人のもとに自ら戻ることであり、イエス・キリストの十字架の贖いの死を無意味なものとしてしまう行為であるからです。「五体」とは体の部分のことであり、具体的に言えば手や足のことです。パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と記しておりますが、これは自分の五体を罪にではなく、神にささげるようになった具体例と言えます。私たちの手は、盗みを働くこともできるし、働いて収入を得て、人に施すこともできるわけです。同じ手でありながら、不義のための道具として罪にささげるか、あるいは、義のための道具として神にささげるかによって、その用い方は大きく異なるのです。また、パウロは、エフェソの信徒への手紙の中でこのようにも記しています。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。聖書において言葉は舌の働きと考えられています。私たちは舌を用いて悪い言葉を語ることもできれば、聞く人に恵みが与えられる、人を造り上げるのに役立つ言葉を語ることもできるのです。それは、私たちが舌という体の部分を、不義の道具として罪にささげるか、あるいは、義の道具として神にささげるかによって決まるわけです。それゆえ、パウロは、「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神にささげなさい」と記すのです。パウロが「自分自身を死者の中から生き返った者として」と記すとき、それはイエス・キリストに結ばれた者として罪に対しては死んだ者であることが言われております。私たちはイエス・キリストのように、実際に死んで、復活したわけではありませんが、イエス・キリストと結び合わされ、一体とされているゆえに、死んで、生き返った者たちであるのです。アダムと結びついた古い自分に死んで、イエス・キリストに結びついた新しい自分に生きる者となったのです(二コリント5:17参照)。そのような者として、私たちは五体を義のための道具として神様にささげることが命じられているのです。
パウロは、私たちが五体を義のための道具として神にささげるように命じておりますが、その理由を14節にこう記しています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです」。ここで「支配」と訳されている言葉は、「主人として支配する」という言葉であります。パウロは、「罪は、もはや、あなたがたを主人として支配することがない」と語ります。これは、パウロがこれまで語ってきたことの結論であります。洗礼によってイエス・キリストと結ばれたあなたがた、木と枝のように生命的にキリストに結ばれているあなたがたを、罪が主人として支配することはない。私たちの体には罪が残っており、日ごとに罪を犯してしまうのでありますが、しかし、私たちの主人は、罪ではなくて、私たちの罪のためにただ一度死なれ、復活させられたイエス・キリストであるのです。罪はしぶとく、厚かましいのですね。罪は私たちの主人ではないのに、主人のような顔をして私たちを従わせようとするのであります。しかし、私たちの主人は罪ではなく、イエス・キリストであられます。それゆえ、私たちは自分の五体を義のための道具として神様にささげるよう命じられているのです。
パウロは14節の後半で、「あなたがたは律法のもとではなく、恵みのもとにいるのです」と記していますが、「律法のもとにいる」とは「律法を守って自分の力で神様に義としていただこうとする人間のあり方」、「アダムと結びついた人間のあり方」を意味しています。他方、「恵みのもとにいる」とは「イエス・キリストへの信仰によって神様に無償で義としていただいた人間のあり方」、「キリストに結びついた人間のあり方」を意味しています。私たちが五体を義のための道具として神様にささげるのは、それによって神様に義としていただくためではありません。私たちは恵みによって義とされた者であるゆえに、喜びと感謝をもって、自らの五体を義のための道具として神様にささげるのです。