キリストに結ばれる洗礼 2016年12月04日(日曜 朝の礼拝)

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キリストに結ばれる洗礼

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 6章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
6:7 死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。ローマの信徒への手紙 6章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ローマの信徒への手紙6章1節から14節までをお読みしましたが、今朝は1節から4節までを中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節から4節までをお読みします。

 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。これは、5章20節から予想される反論であります。パウロは5章20節でこう記しておりました。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。このパウロの言葉に対する反論を予想して、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と記しているのです。そして、実際に、パウロの福音、人は律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われるという福音に対して、このように反論する人たちがいたようであります(3:8参照)。「罪が増したところに、恵みが満ちあふれるならば、罪の中に留るべきだ」と言う人たちがいたのです。しかし、パウロはそのような考え方を「決してそうではない」と断固として退けます。パウロは、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と記すのです。パウロは、「私たちは罪の中にもはや生きることはできない。なぜなら、私たちは罪に対して死んだ者たちであるからだ」と記すのです。では、私たちはいつ、どのように、罪に対して死んだのでしょうか?それは、イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けたことによってであります。パウロは、私たちが罪に対して死んだ者であり、なおも罪の中に生きることはできないことを論証するために、私たちがイエス・キリストの名によって洗礼を受けたことを思い起こさせるのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」。洗礼は主イエス・キリストが定められた礼典の一つであります。新約の礼典は洗礼と主の晩餐の二つでありますが、洗礼については、マタイによる福音書の28章に記されております。新約の60ページです。

 十字架の死から復活されたイエス様は、弟子たちに近寄って来てこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活されたイエス様は、「すべての民をわたしの弟子とし、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」とお命じになりました。イエス様の弟子の群れである教会は、このイエス様の命令に基づき、イエス様を神の御子、救い主と信じた者たちに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けてきたのです。また、イエス・キリストを信じる親のもとに生まれてきた契約の子供たちに、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて来たのです。イエス・キリストを信じて、教会の一員とされた私たちは皆、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けた者たちであるのです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける」とは、「父と子と聖霊の名の中に洗礼を受ける」ということであります。私たちは洗礼という礼典によって、父と子と聖霊という三位一体の神の交わりの中へと入れられたのであります。

 マタイ福音書の28章で、復活されたイエス様は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」と弟子たちに命じておられますが、使徒言行録の2章を見ますと、聖霊に満たされたペトロは、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け」なさいと語っています。使徒言行録の2章36節から42節までをお読みします。新約の216ページです。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 ペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と言っております。洗礼とは水の洗いでありますが、私たちはイエス・キリストの名によって洗礼を受けることによって、イエス・キリストに属する者となったのです(一コリント10:3参照)。その具体的な表れとして、私たちはイエス・キリストの体である教会の一員とされているのです(一コリント12:12,13参照)。「洗礼を受けた者が教会の仲間に加わった」ことは、そのことを表しているのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、イエス・キリストに属する者とされた人は、イエス・キリストの体である教会に属する者とされるのです。「私はイエス・キリストに属しているけれども、教会には属していません」ということはあり得ません。イエス・キリストに属する者は、キリストの体である教会にも属する者となるのです。それゆえ、洗礼は、キリスト教会の一員となるための礼典でもあるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の281ページです。

 パウロが3節で、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」と記すとき、そこでは、ローマの信徒たちがイエス・キリストの名によって洗礼を受けたことを前提としています。彼らは皆、「イエス・キリストは主である」と公に告白し、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたのです。私たちは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けたのですが、内容としては同じことであります。私たちも「イエス・キリストは主である」と公に告白し、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたのです。そのようにして、私たちはイエス・キリストと霊的に結ばれたのであります。幼児洗礼を受けた人であれば、信仰告白によって、イエス・キリストと霊的に結ばれていることが確かなこととされたのです。ここで思い起こしていただきたいことは、5章12節以下に記されていた「アダムとキリスト」のことであります。そこで、パウロは、私たちはアダムに属する者ではなく、キリストに属する者であることを記しました。私たちはアダムの不従順によって罪人とされておりましたが、イエス・キリストの従順によって正しい者とされたのです。では、私たちはどのようにしてキリストに属する者とされたのでしょうか?それはイエス・キリストに結ばれる洗礼を受けたことによってであります。私たちはアダムに属する者ではなく、イエス・キリストに属する者であると、なぜ断言することができるのか?それは、私たちがイエス・キリストに結ばれる洗礼を受けた者たちであるからです。私たちはイエス・キリストの名によって洗礼を受け、イエス・キリストと霊的に結ばれた者たちとされているのです(ヨハネ15:1~10参照)。そして、実際、イエス・キリストの体である教会の一員とされているのです。

 私たちはイエス・キリストの名によって洗礼を受け、イエス・キリストに結ばれたわけでありますが、そのイエス・キリストは、私たちのために十字架の死を死なれ、葬られ、三日目に復活させられた御方であります(一コリント15:3,4参照)。それゆえ、パウロは、「私たちが、キリストの死にあずかるために洗礼を受けた」と記すのです。さらには、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と記すのです。パウロが、「イエス・キリストに結ばれるために洗礼を受けた私たちは、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」と記すとき、それは、キリストの死が私たちのための、身代わりの死であったからです。洗礼を受けてイエス・キリストに結ばれた私たちは、イエス・キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとされたのです。そのようにして、私たちは罪に対して死んだのです。イエス様の死、それは十字架に磔にされるという死でありました。十字架の死は、「木にかけられる」という律法の呪いの死でありました(ガラテヤ3:13参照)。イエス様は、御自分の民である私たちのために、律法の呪いの死である十字架の死を死んでくださったのです。そのイエス・キリストと洗礼によって結ばれたことにより、私たちは罪に対して死んだのであります。それゆえ、私たちは、なおも罪の中に生きることはできないのです。

 パウロは、私たちがキリストの死にあずかるものとなったのは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と記しています。洗礼によって私たちが結びつけられたイエス・キリストは、十字架の死を死んで葬られただけではなく、三日目に死者の中から復活させられた御方でもあります。私たちが洗礼によって結び合わされたイエス・キリストは十字架の主であるだけでなく、復活の主でもあるのです。私たちは御父の栄光によって死者の中から復活させられたキリストとも結ばれているのです。ここでパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられた」と記しておりますが、これは、キリストの復活が御父である神の栄光をあらわすものであったからです。御父は、キリストを死者の中から復活させることによって栄光をあらわされました。御父はキリストを死者の中から復活させることにより、御自分がイエス・キリストを信じる人を正しい者とする恵み深い神であることを示されたのです(ローマ4:25参照)。私たちは父なる神によって復活させられたキリストに結ばれることによって、神に対して生きる新しい命に歩む者とされております。復活されたイエス・キリストが御自分の名によって洗礼を授けるように命じられたのは、私たちが罪に対しては死んだ者となり、神に対して生きる、新しい命に歩むためであったのです。

 4節の終わりに、「新しい命に生きるためなのです」とありますが、元の言葉を見ますと、「命の新しさに歩むためなのです」と記されています(岩波訳「生命の新しさにおいて歩むためである」参照)。洗礼によってイエス・キリストと結ばれた私たちの命は新しくされたのです。私が私であることに変わりはありませんが、その私が新しくなったのです。そして、その変化は、「歩む」と言われているように、少しずつ、生涯に渡るものであるのです。私たちは御言葉と聖霊によって、少しずつ、キリストに似た者へと変えられていくのです(二コリント3:18、一ヨハネ2:6参照)。

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