一人の従順によって 2016年11月20日(日曜 朝の礼拝)
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一人の従順によって
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 5章12節~21節
聖書の言葉
5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。ローマの信徒への手紙 5章12節~21節
メッセージ
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前回、私たちは、アダムと私たちとの結び付きについて、また、キリストと私たちとの結び付きについて学びました。アダムと私たちとの結び付き、それはアダムの子孫として生まれてくる出生によるものであります。私たちはアダムの子孫であるゆえに、アダムの罪責と腐敗をもって生まれてくるのです。そして、自らも日ごとに神様の御前に罪を犯しているのです。私たちはアダムと出生によって結び付いているゆえに、罪を犯し、死に至るのです。他方、キリストと私たちとの結び付きは、信仰による結びつきであります。キリストと私たちとは信仰によって、また聖霊によって結びついているのです。それは言い換えれば、神の恵みによってキリストと私たちは結び付けられたと言うことであります。私たちは神の恵みによってキリストと結び付けられているゆえに、すべての罪を赦され、命に至るのです。
神様の御前には二人の人がいる。それはアダムとキリストでありますが、その二人は人類を代表する契約の頭でもあります。アダムを契約の頭とする人は、罪によって死に至ります。他方、キリストを契約の頭とする人は、義によって命に至るのです。人は、アダムかキリストかのどちらかを契約の頭としているのです。私たちキリスト者も、イエス・キリストを信じる前は、出生という結び付きによってアダムに属する者でありました。けれども、神様の恵みによって、キリストと信仰によって結び合わされ、キリストに属する者とされたのです。それゆえ、私たちは、義によって命に至る者とされたのです。私たちは一人のイエス・キリストを通して生き、支配する者とされているのです。
ここまでは前回お話したことの振り返りでありますが、今朝は18節、19節を中心にして学びたいと思います。
18節、19節をお読みします。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
18節に、「すべての人」という言葉が2回出てきますが、その意味する内容は異なっています。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように」の「すべての人」はアダムから普通の仕方で生まれてきた全人類を指しております。他方、「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」の「すべての人」は、イエス・キリストと信仰によって結び合わされたすべてのキリスト者を指しています(17節「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」参照)。また、19節の「多くの人」も同じであります。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように」の「多くの人」はアダムの子孫である全人類を指しています。他方、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」の「多くの人」はイエス・キリストを信じるすべてのキリスト者を指しているのです。聖書において、「すべての人」と「多くの人」は、ほとんど同じ意味であるのです。
パウロは、これまで、イエス・キリストを信じる信仰によってすべての人が神様の御前に義とされると記してきました。そして、これがパウロが宣べ伝えてきた福音であったのです。どうして、そのようなことが言えるのか?それは、アダムのことを考えればよく分かる。アダムのことを考えれば、キリストによってすべての人が義とされ、命を得ることが分かると、アダムのことを記したのであります。アダムとキリストにおいて起こったことは、どのようなことか?それは、「一人の罪によってすべての人が有罪の判決を下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」ということであったのです。「一人の罪」これは最初の人アダムの罪のことであります。アダムはエデンの園において、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられておりました。しかし、アダムは禁じられていた木の実を食べてしまったわけです。そのアダムの罪によって、アダムの子孫である全人類に有罪の判決を下されました。なぜなら、アダムは全人類を代表する契約の頭であったからです。アダムに与えられた掟は、それを守るならば命を得るという契約でもあったのです。他方、パウロが、「一人の正しい行為によって」と記すとき、その「一人」とは、「イエス・キリスト」のことであります。パウロが「イエス・キリストの正しい行為」によってと記すとき、それはイエス・キリストの人生のある出来事を指しているのではなくて、全生涯を指しています。イエス・キリストは、神の御心に適った正しい人生を送られたのです。そのことは、19節で、アダムの罪が「不従順」と言い換えられ、キリストの正しい行為が「従順」と言い換えられていることからも分かります。アダムの罪、それは禁じられていた木の実を食べたことでありました。アダムは何も知らないで、善悪の知識の木の実を食べてしまったのではありません。女の口から蛇の言葉を聞いて、神のようになろうとして、禁じられた木の実を食べたのです。アダムの罪は神様への不従順であった。もっと言えば、神様への反逆であったのです。しかし、キリストはその全生涯において、神様の御心に従順であられました。キリストは、悪魔から荒れ野で誘惑を受けられたときも、また、十字架につけられたときも、父なる神様の御心に従い抜かれました。アダムは不従順であったが、キリストは従順であられた。このアダムとキリストとの対比を歌い上げているのがフィリピ書の2章に記されている、いわゆるキリスト賛歌であります。フィリピの信徒への手紙2章6節から11節までをお読みします。新約の363ページです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿であらわれ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べ伝えて、父である神をたたえるのです。
この所は、パウロが当時の教会で歌われていた讃美歌を引用したのではないかと言われております。それで、キリスト賛歌と呼ばれるわけです。ある研究者は、このキリスト賛歌はアダムと対比するときによく分かると指摘しています。アダムは人の身分でありながら、神と等しい者であることに固執して、不従順の罪を犯し、堕落しました。けれども、キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、人と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であられたのです。そして、神は、そのようなキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の280ページです。
パウロが「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」と記すとき、私たちは、イエス・キリストは、神の御子が人となられた御方であるから、たやすかったのではないかと考えてはなりません。福音書を読みますと、イエス様が十字架につけられる前の夜に、ゲツセマネの園において祈られたことが記されています。イエス様は、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と三度祈られました(マルコ14:36)。「この杯」とは、イエス様がこれから死のうとしておられる十字架の死であります。ここでイエス様は、十字架の死をできれば避けたいと願っておられます。けれども、イエス様はその願いを父なる神に押しつけることはいたしません。自分の意志よりも父なる神の意志を優先させられるのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈るのです。そのような祈りの中で、イエス様は父なる神の御心を自分の心とされたのです。このことについて、ヘブライ人への手紙5章7節、8節は次のように記しています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。キリストは神の御子であるから、たやすく従順な人生を送ることができたのではありません。キリストは神の御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれたのです。ゲツセマネの祈りに見られるように、祈りによって、父なる神の意志を御自分の意志として歩まれたのです。
では、なぜ、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従順であられたのでしょうか?それは、イエス・キリストが御自分の従順によって多くの人が正しい者とされるということをご存じであったからです。「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。このパウロの言葉は、実は、旧約聖書のある箇所を下敷きにして記されています。それは、イザヤ書53章であります。ここでは、イザヤ書の53章9節から12節までをお読みします。旧約の1150ページです。
彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。神は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびたただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
パウロは、ローマ書において、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」と記しました。それはイザヤ書53章において預言されていたことであったのです。そして、それは父なる神と子なる神との間に取り交わされていた契約であったと考えられおります(贖いの契約)。神の永遠の熟慮による決定である聖定において、父なる神と子なる神との間に、アダムが罪を犯した場合のことが決められていたのです。神様はエデンの園において、罪を犯したアダムと女に、「女の子孫が、悪魔の頭を打ち砕く」という約束(原福音)を与えてくださいました。それは、神様がその時、思いついて口にされたことではなく、前もって、すなわち、永遠の聖定において、父なる神と子なる神とで決めておられたことであったのです。すなわち、父なる神と子なる神との間に契約が交わされており、アダムが罪を犯した場合は、子なる神が人となって遣わされること、そして、十字架の死によって悪魔の頭を打ち砕くことが決められていたのです。永遠の聖定において父なる神と子なる神との間に結ばれた契約、それはイザヤ書の53章によれば、罪のない一人の人が主の御心に従って多くの人の罪を担って死ぬこと。そして、主はその報いとして、一人の人を高く上げ、多くの人を戦利品として与えるという契約であったのです。前々回の説教で、イエス様は「最後のアダム」としての自覚を持っておられたと申しました。イエス様は御自分の従順、十字架の死に至るまでの従順が何をもたらすのかをはっきりと知っておられたのです。イエス様は、御自分が「悪魔の頭を打ち砕く女の子孫」であることを、また、多くの人を正しい者とするために、彼らの罪を自ら担う「主の僕」であることをご存じであったのです。もちろん、私たちは、イエス様のお心の内にあることを完全に知ることはできません。ましてや、永遠の聖定において父なる神と子なる神とが結ばれた契約について完全に知ることはできません。けれども、神様は、御自身の救いの計画については、聖書において、十分に示してくださっています。「一人の従順によって多くの人が正しいとされる」。そのことは、神様がイザヤ書53章において示された救いの計画の核心(心臓部)であります。神様の救いの計画は、イエス・キリストの従順によって、多くの人を正しい者とし、その多くの人をイエス・キリストの民とすることでありました。そして、イエス・キリストは十字架の死に至るまでの従順によって、私たちを正しい者、御自分の民としてくださったのであります。