アダムとキリスト 2016年11月13日(日曜 朝の礼拝)

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アダムとキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 5章12節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。ローマの信徒への手紙 5章12節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、はじめの人アダムが全人類を代表する契約の頭であったこと、それゆえ、全人類がアダムの罪の責任、罪責を負って生まれてくることを学びました。また、アダムの子孫である全人類はアダムのかたちに似ていること、罪に傾く性質、腐敗を持って生まれてくることを学びました。すべての人はアダムの罪責を負って、腐敗を持って生まれてくるゆえに、自らも神に背く罪を犯しているのです。すべての人が罪を犯したゆえに、死はすべての人を支配するようになったのであります。しかし、神様はそのような私たち人間を救うために、「最後のアダム」、イエス・キリストを遣わしてくださいました。パウロが12節で、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」と記しましたように、来るべき方イエス・キリストはアダムと同じ契約の頭であるのです。これまでパウロは、すべての人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされると記してきました。それは、イエス・キリストが、新しい人類を代表する契約の頭であるからです。最初のアダムの罪によってすべての人が死ぬことになったように、最後のアダムであるキリストの正しい行為によって、すべての人が生きることになるのです。アダムもキリストも、契約の頭であるという点においては同じですが、すべての人にもたらすものは正反対であります。アダムは罪と死をもたらし、キリストは義と命をもたらすのです。そして、パウロは、アダムによってもたらされたものよりも、キリストによってもたらされた神の恵みの方が比較できないほど豊かであると記したのであります。私たちは神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物を豊かに注がれて、神の御前に義とされ、神との平和を与えられ、神を親しく礼拝し、神の栄光にあずかる希望を誇りとしているのです。

 ここまでは、前回お話したことの振り返りであります。今朝は16節、17節を中心に学びたいと願っております。

 16節をお読みします。

 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。

 ここでパウロは、罪を犯したアダムによってもたらされたものと、イエス・キリストの賜物がどれほど異なっているかを記しております。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されます」。これはアダムを契約の頭とするすべての人が置かれている立場であります。ここでの「一つの罪」とは、「禁じられた木の実を食べたアダムの罪」を指すとも理解することができます。アダムを契約の頭とする人は、アダムの罪によって有罪の判決がくだされるのです。これは、かつての私たちの立場でもありました。しかし、恵みが働くとき、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストを契約の頭とする人は、いかく多くの罪があっても、無罪の判決がくだされるのです。これは、今の私たちの立場であります。イエス・キリストを信じる私たちも、神の掟に背いて日ごとに罪を犯しますけれども、神の恵みとイエス・キリストの義の賜物によって、無罪の判決がくだされるのです。

 17節をお読みします。

 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けいている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

 パウロは、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば」と記しておりますが、これは聖書が教えている事実であります。なぜ、神様が造られた良き世界に、罪と死があるのか?なぜ、すべての人が罪を持って生まれ、死んでいくのか?それは、最初の人であり、全人類を代表する契約の頭であるアダムが禁じられた木の実を食べて罪を犯したからであります。神様は、エデンの園において、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられました。このアダムに与えられた掟は、全人類を代表するアダムに与えられた契約でもあったのです。すべての人はアダムにあって罪を犯し、死すべきものとなった。アダムを通して、すべての人のうえに死が王として支配するようになったのです。だとすれば、「なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」とパウロは記すのです。ここでの「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けいている人」とは、イエス・キリストを信じて、神の御前に正しい者とされた私たちキリスト者のことであります。前回の説教の最後に、15節に記されている二つの「多くの人」という言葉について触れました。15節にこう記されておりました。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。一人の罪によって死ぬことになった「多くの人」とは、アダムから生まれてくるすべての人を指しています。他方、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とを豊かに注がれている「多くの人」はイエス・キリストを信じるすべての人を指しているのです。「多くの人」という同じ言葉が使われているのですが、その内容は異なるのです。そのことは、17節を読むとよく分かるわけですね。パウロは、17節で、すべての人が、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるとは記しませんでした。そうではなくて、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けいている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる」と記したのです。これは、アダムとの結び付き方と、キリストとの結び付き方が違うからであります。神様の御前には、二人の契約の頭、アダムとキリストがおられます。アダムと結びついている人は有罪の判決が下され死に至ります。しかし、キリストと結びついている人は義とされて命に至ります。では、人はどのようにアダムと結びついているのでしょうか?また、人はどのようにキリストと結びついているのでしょうか?私たちとアダムの結びつき、それは出生によるものであります。すべての人はアダムの子孫として生まれてくるゆえに、アダムの罪責と腐敗を受け継いで生まれてくるのです。では、私たちとキリストとの結びつきはどうでしょうか?これは出生によるものではなく、信仰によるものであります。もっと言えば、聖霊による結び付きであるのです。私たちは聖霊によってイエス・キリストを主と信じる信仰を与えられ、イエス・キリストに結ばれているのです。そして、この聖霊によるキリストとの結びつきは、出生によるアダムとの結びつきよりも強いわけです(マタイ10:37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」参照)。私たちはアダムの子孫であり、彼の罪責と腐敗を受け継いでいます。それゆえ、私たちは日ごとに罪を犯してしまうわけです。しかし、私たちの契約の頭はアダムではありません。私たちの契約の頭はイエス・キリストであります。それゆえ、私たちは罪を犯しながらも、罪赦され、神の御前に正しい者とされているのです。このことは、私たちが自分の力でしたことではありません。まさに、神の恵みであるのです。私たちは神の恵みによって、義という賜物を豊かに受けることができたのです。そのようにして私たちは、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。パウロは、「命が支配するようになる」とは記しませんでした。イエス・キリストの命に生かされている私たちが支配するようになると記したのです。それは、将来のことだけではありません。今、現在のことでもあります。神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配する者となっているのです。それは言い換えれば、神の御心に従って生き、この世界を治める者とされているということであります(創世1:28参照)。

 「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。このパウロの言葉を読むときに、本当かしら?と思われるかも知れません。と言いますのも、イエス・キリストを信じる人も肉体の死を経験するからです。イエス・キリストを信じる人も必ず死ぬではないか?それなのに、なぜ、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる」と言えるのか?そのような疑問を持つ人もおられるかも知れません。けれども、そのように思うのは、死を肉体の死だけに限定して考えているからです。聖書において死とは、命の源である神様との交わりを失っている状態を言います。創世記の3章を読みますと、善悪の知識の木の実を食べて罪を犯したアダムと女が、エデンの園から追放されたことが記されています。そのようにして、アダムと女は神様との親しい交わりを失ってしまったのです。そのようにして、人は霊的に死んだのであります。神様は、アダムに「善悪の知識の木から食べると必ず死んでしまう」と言われました。これは元の言葉では、「食べた日に必ず死ぬ」と記されているのです。アダムは善悪の知識の木を食べた日に塵に返るという肉体の死を死ぬことはありませんでした。しかし、その日に、エデンの園から追放される。神様との親しい交わりを失うという霊的な死を死んだのであります。そして、その霊的な死はアダムだけではなくて、アダムのすべての子孫にも及んだのです。人間の目からすれば、生きていても、神様の目からすれば、死んでいるということがあるわけです。イエス様は、ある人に、「わたしに従いなさい」と言われましたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。父を葬ることは息子としての義務ですから、当然、その人はイエス様が許してくれるだろうと思ったのです。しかし、イエス様はその人にこう言われました。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。ここでの「死んでいる者たち」とは、御自分を信じないで、神様との交わりを失っている人たちのことであります。彼らは、人間の目からすれば生きています。しかし、イエス様はその彼らを「死んでいる者たち」と言われたのです。また、パウロも、エフェソの信徒たちに、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と書き送っております。今朝の御言葉でいえば、私たちはアダムにあって死んでいた。命の源である神様との交わりから断たれていたのです。しかし、その私たちに神様はイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、イエス・キリストにあって生きる者、神様との親しい交わりに生きる者としてくださったのです。それは、アダムがエデンの園においてもっていた神様との交わり以上に、親しい交わりであります。私たちは、御子イエス・キリストの霊を与えられ、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ、父と子との最も親しい交わりに生かされているからです。ですから、私たちはパウロの言葉、キリストの恵みの賜物は、アダムによってもたらされたもとは比較できないほど豊かであるというパウロの言葉に、アーメン、その通りであると答えることができるのです。

 エデンの園において罪を犯したアダムと女は、神様を畏れて園の木の間に身を隠しました。けれども、イエス・キリストにあって、私たちは大胆に恵みの座に近づくことができるのであります。イエス・キリストにあってすべての罪を赦されて、神様との親しい交わりに、あずかることができるのです。何度も申しますように、礼拝は神様との交わりであります。礼拝は神様からの語りかけ(聖書朗読と説教)と神の民の応答(賛美と祈り)から成り立っているのです。

 「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。このパウロの言葉がよく分かるのは、礼拝においてであります。パウロはこの手紙を公の礼拝で読まれる手紙として記しました。それゆえ、私たちは礼拝においてこそ、このパウロの言葉を真実な言葉として聞くことができるのです。礼拝においてこそ、私たちは、自分たちが神の恵みと義の賜物とを豊かに受けていることを知ることができるのです。また、礼拝においてこそ、私たちは一人のイエス・キリストを通して生かされ支配する者とされていることを知ることができるのです。

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