御子の命によって救われる 2016年10月23日(日曜 朝の礼拝)
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御子の命によって救われる
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 5章6節~11節
聖書の言葉
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。ローマの信徒への手紙 5章6節~11節
メッセージ
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先々週、私たちは、信仰によって義とされた私たちが主イエス・キリストによって神との間に平和を与えられ、神様を親しく礼拝できる恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとして与えられていることを学びました。神の栄光にあずかる希望とは、世の終わりに、イエス・キリストの裁きを通して実現する神様との全き交わりのことであります。私たちは、今、この地上で、見えない方を見えるようにして礼拝しておりますが、義の宿る新しい天と新しい地においては、顔と顔とを合わせて神様を礼拝することができるのです。ヨハネの黙示録の21章に、新しい天と新しい地の幻が次のように記されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。これこそ、私たちが拠り所とするところの希望であるのです。そして、この希望は、聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛を根拠とするゆえに、決して失望に終わることはないのであります。
ここまでは先々週の振り返りであります。今朝はその続きになります。
5章6節をお読みします。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
パウロは、直前の5節で、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と記しました。私たちが「神様はわたしを愛してくださっている」と分かるのは、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからであるのです。私たちの心に神の愛が注がれているゆえに、私たちも神様を愛することができるのです。しかし、それだけであるならば、神様の愛は抽象的なものになってしまいます。と言いますのも、聖霊は目に見ることも、手で触れることもできないお方であるからです。それゆえ、パウロは、イエス・キリストの十字架の死について記すのです。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。「定められた時に」とありますが、この言葉は、イエス・キリストの十字架の死が神の救いの計画の実現であったことを表しています。また、ここでの「弱さ」は「神の御前に善い業を何もすることができない無能力」を意味しています。私たちは神の御前に善い業を何もすることのできない弱い者でありました。そればかりか、神を神として認めず、神に背く不信心な者であったのです。しかし、イエス・キリストはその弱く、不信心な私たちのために、その私たちに代わって十字架の死を死んでくださったのです。
7節、8節をお読みします。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ここでは、人のために命を捨てることが、その人に対する最も大きな愛であることが前提とされています。パウロは、人間社会のことを考えて、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」と記しております。「正しい人」と「善い人」と何が違うのだろうかと思うのですが、ある人は「正しい人」とは「法を守る人」であり、「善い人」とは「親切な人」のことであると説明しています。パウロがここで言いたいことは、「正しい人や善い人のためであっても死ぬ者はほとんどいない」ということです。そして、人が他人のために死ぬとき、それはその人が自分の命を捨てるほどの価値があるかどうかにかかっているということです。しかし、キリストの場合はそうではありません。キリストは、わたしたちがまだ罪人であったとき、わたしたちのために死んでくださったのです。神様は私たちの罪人のために愛する独り子を十字架の死へと引き渡すことによって、私たちに対する御自分の愛を示されたのです。旧約聖書の創世記22章に、神様がアブラハムを試して、独り子イサクを焼き尽くしてささげるよう命じられたお話が記されています。アブラハムは神様の御言葉に従って、独り子イサクをほふろうとするのですが、そのとき神様からの「待った」がかかります。神様はアブラハムにこう言われるのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることをおしまなかった」。このように言われた神様が、罪人であった私たちのために、独り子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されたのです。神様は、私たちがまだ罪人であったころ、イエス・キリストを十字架の死に引き渡すことによって、私たちに対する愛を示されたのであります。また、イエス・キリストの十字架の死は、私たちに対する神の愛だけでなく、イエス・キリストの愛をも示しています。なぜなら、イエス・キリストは、父なる神の御心を自分の心として、自ら進んで十字架の死を死んでくださったからです。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。これはイエス・キリストの十字架の出来事の解釈であると言えます。残念ながら誰もが、イエス・キリストの十字架の死を、自分に対する神の愛のしるしであると受け入れるわけではありません。「イエス・キリストの十字架の死があなたのためであった。神は独り子を与えられたほどにあなたを愛しています」と言われたとしても、その人の心に聖霊が与えられなければ、キリストの十字架に示された神の愛を、自分に対する愛として受けとめることはできないのです。私たちがイエス・キリストの十字架の死によって示された神の愛を、自分に対する愛として受けとめることができたのは、神の霊である聖霊が与えられているからなのです。聖霊は、イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を、私たちに対する愛として、私たちの心に注いでくださるのであります。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの十字架に心を向けるとき、神様が私たちをどれほど愛してくださっているのかが分かるのです。
神様の愛、それは愛する対象に左右される愛ではありません。人間の愛はその対象に左右されます。ですから、自分に親切にしてくれた人のためであるなら死ぬ人もいるわけです。けれども、神様は私たちがまだ罪人であったとき、私たちを愛して、独り子であるイエス・キリストを私たちの救いのために十字架の死へと引き渡されたのです。神様の愛は無償の愛、アガペーであるのです。神様が私たちを愛されるのは、私たちにその根拠があるからではありません。神様が私たちを愛されるのは、神様の本質が愛であるからです。使徒ヨハネはその第一の手紙で「神は愛です」と記しています(一ヨハネ4:16)。神は愛であるからこそ、神は独り子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださったし、今も愛してくださっているのです。
9節、10節をお読みします。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
9節に「神の怒り」とありますが、この神の怒りは、「神が正しい裁きを行われる日」に示される「神の怒り」のことであります(2:5,8参照)。かつて私たちは罪人でありましたけれども、キリストの血によって義とされました。キリストは、私たちの贖いとして、また神の怒りをなだめる供え物として、十字架の死を死んでくださったのです。そして、このことは、私たちに対する神の愛によることであったのです。そうであれば、世の終わりの裁きにおいて、私たちが神の怒りから救われるのは、なおさらのことであるのです。
10節に「敵であったときでさえ」とありますが、これは私たちが神様に敵対していたというよりも、神様が私たちに敵対していたと考えるべきであります。神様は聖なるお方、正しいお方でありますから、罪人である私たちに敵対しておられたのです。しかし、驚くべきことに、神様は敵とも言える私たちのために、御自分の独り子を十字架の死へと引き渡し、私たちと和解してくださったのであります。パウロは、「和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」と記しておりますが、この「御子の命」とは、十字架の死から復活させられ、天に上げられ、父なる神の右の座に着かせられたイエス・キリストの命のことであります。私たちが救われるのはなおさらであると言うことができるのは、天におられ、今も活きておられ、やがて来られるイエス・キリストのゆえであるのです。十字架の死から三日目に栄光の体で復活し、天へとあげられ、今も活きておられるイエス・キリストこそ、私たちの救いの保証であるのです。その保証を、私たちはイエス・キリストの聖霊によって与えられているわけです。
11節をお読みします。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
パウロは、2節で、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と記しましたが、ここでは、「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と記しています。エレミヤ書の9章で、神様は次のように言われておりました。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを」。私たちは、主イエス・キリストによって、神様を私たちの誇り、私たちの拠り所とすることができるのです。なぜなら、私たちは、今やイエス・キリストを通して、神様と和解させていただき、神様との間に平和を与えられているからであるのです。
先々週と今朝の二回に分けて、5章1節から11節までを学びましたけれども、ここでパウロが繰り返し教えていることは、神様と私たちとの関係が、私たちの主イエス・キリストの仲立ちによるものであるということです。イエス・キリストのことを仲保者と言いますが、イエス・キリストは神様と私たちとの間の仲を保つお方であるのです。十字架と復活の主であり、今も活きておられ、やがて来られるイエス・キリストによって、私たちは神様と和解させていただくことができたのです。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストが、私たちに代わって神の掟を落ち度無く守り、私たちに代わって罪の贖いとしての十字架の死を死んでくださったゆえに、神様は私たちと和解してくださったのです。それゆえ、私たちはどのような時も、私たちの主イエス・キリストへと心を向けなくてはならないのであります。パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と記しましたけれども、そのすべてにおいて、私たちが心を向けるべきは、私たちの主イエス・キリストであるのです。なぜなら、私たちの罪のために死んでくださり、私たちが義とされるために復活させられたイエス・キリストに、私たちの救いの確かさがかかっているからです。私たちの主イエス・キリストこそ、私たちの誇り、私たちの拠り所であるのです。そして、イエス・キリストを私たちの誇り、私たちの拠り所とするとき、私たちは神様を私たちの誇り、私たちの拠り所とすることができるのです。