神の栄光にあずかる希望 2016年10月09日(日曜 朝の礼拝)
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神の栄光にあずかる希望
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 5章1節~5節
聖書の言葉
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。ローマの信徒への手紙 5章1節~5節
メッセージ
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前々回、私たちは、アブラハムの信仰と私たちキリスト者の信仰が同じ信仰であることを学びました。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムが信じたように、私たちも死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じているのです。神様がイエス・キリストを死者の中から復活させられたと信じることは、神様を死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させるお方として信じることであるのです。よって、神様がイエス・キリストを死者の中から復活させられたと信じるならば、その人は神様の御前に正しいと認められるのです。事実、イエス・キリストは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられました。イエス・キリストは、十字架の死から三日目に栄光の体で復活されましたけれども、それは御自分を信じる私たちを義とするためであったのです。神様がイエス・キリストを復活させられたと信じること、それはイエス・キリストを信じる私たちが神の御前に義とされたことを信じることであるのです。イエス・キリストが復活させられたことは信じるけれども、私が義とされたことは信じられないということはありません。イエス・キリストが復活させられたと信じる者は、自分が義とされたことを信じるべきであるのです。なぜなら、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたからです」。
ここまでは、前々回にお話したことですが、今朝はその続きであります。
5章1節、2節をお読みします。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
ここでパウロは、信仰によって義とされた私たちがあずかるもろもろの祝福について記しています。信仰によって義とされた私たちがあずかるもろもろの祝福の最たるもの、それは「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」ということです。1章18節に、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とありましたが、私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、この神の怒りから解放されているのです。パウロが「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と語るとき、その「平和」とは、争いがないだけではなく、親しい交わりに生かされていることを意味します。ヘブライ語で平和のことを「シャローム」と言いますが、シャロームとは、満ち満ちた状態のことを意味します。信仰によって義とされた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神様との間に満ち満ちた交わりを持っているのです。それゆえ、私たちは、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられたのです。私たちが用いています新共同訳聖書は、「今の恵み」と翻訳していますが、新改訳聖書は「いま私たちが立っているこの恵み」と翻訳しています。元の言葉を見ましても、「私たちが立っているこの恵み」と記されています。パウロが、「キリストによって、私たちが立っているこの恵みに導き入れられた」と記すとき、「この恵み」とは何を指すのでしょうか?それは、私たちが今あずかっている恵み、神を礼拝している恵みのことであります。そのことは、パウロの手紙が礼拝の中で、公に読まれたことを思い起こすならばよく分かります。パウロはこの手紙を、ローマの教会でささげられる礼拝において公に読まれる手紙として記しているわけです。また、当時は立って礼拝をささげたといわれます。そうであれば、「私たちが立っているこの恵み」とは、まさしくイエス・キリストによって神様を親しく礼拝することのできる恵みであるのです。信仰によって義とされた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、キリストによって、神様を親しく礼拝することのできる恵みに導き入れられたのです。そして、そればかりか、神の栄光にあずかる希望を誇りにすることができるのです。これまでパウロは、「誇り」について何度か記してきました。例えば、パウロはユダヤ人が神を誇りとし、律法を誇りとしていることを記しました(2:17、23参照)。また、人の誇りは信仰の法則によって取り除かれたことを記しました(3:27参照)。アブラハムであっても、神の前では誇ることができないのです(4:2)。「誇る」とは「依り頼むこと」、「拠り所とすること」であります。神様の御前に、神様の裁きの座において、人は自分の行いを拠り所して立つことができるか?それはできないとパウロは語ってきたのです。人間同士であれば、いろいろな誇りを持つことができるでしょう。自分を他人と比較して、わたしはこの点においては優れていると誇り、そのことを拠り所とすることができます。しかし、神様の前では、誰も誇ることはできない。ユダヤ人は律法を行うことを拠り所として神の前に立つことができると考えましたけれども、パウロはそれはできない。人が神の前に義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ信仰によるのであると記してきたのです。しかし、そのように記してきたパウロが、今朝の御言葉で、誇りについて記すのです。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と記すのであります。信仰によって義とされた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、神様を親しく礼拝するという恵みに導き入れられました。私たちは、神様を親しく礼拝するという恵みにあずかっているからこそ、神の栄光にあずかる希望を誇りとすることができるのです。ここでの「神の栄光にあずかる希望」とは将来のことであります。この「神の栄光にあずかる希望」については、ヨハネの黙示録の21章に「新しい天と新しい地」の幻として記されています。ヨハネの黙示録21章1節から5節をお読みします。新約の477ページです。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
このように私たちは、義の宿る新しい天と新しい地において、神様とイエス・キリストとの全き交わりにあずかることができるのです。そのような仕方で、神の栄光にあずかることができるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の279ページです。
先程私は、「神の栄光にあずかる希望」とは将来のことであると申しました。では、私たちは今、神の栄光に全くあずかっていないかと言えば、そうではありません。私たちは、目に見えないお方をまるで見えるようにして礼拝することによって、この地上で今既に、神の栄光にあずかっているのです。ですから、イエス・キリストが再び来られる日に、神の栄光に完全にあずかる希望を誇りにすることができるのです。イエス・キリストを信じて義と認められ、神様との間に平和を得て、神様を親しく礼拝する恵みに導き入れられた私たちは、「神の栄光にあずかる希望を誇り」とすることができるのです。私たちはどのような時も、神の栄光にあずかる希望を人生の拠り所とすることができるのです。
3節、4節をお読みします。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
パウロは、神の栄光にあずかる希望ばかりでなく、苦難をも誇りとしますと記します。ここでの苦難はキリストに結ばれた者としての苦難、とりわけキリストのための苦難のことであります。パウロは、キリスト者として、また、イエス・キリストの使徒として、多くの苦難を体験してきました(二コリント11:23~29参照)。そのようなパウロが苦難をも誇りとすることができたのは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」知っていたからであります。キリストのための苦難は、キリストに留まり続ける忍耐を生み出します。そしてキリストに留まり続ける忍耐は、キリストに似た練られた品性を生み出すのです(新改訳参照)。さらに、キリストに似た練られた品性は神の栄光にあずかるという希望を生み出すのです。神の栄光にあずかる希望を本当に自分の誇り、拠り所とするには、キリストのために苦難を受け、キリストに留まり続け、キリストに似た品性を身につけなければならないのです。そのことをパウロは、「わたしたちは知っているのです」と記すのです。「わたしは知っているが、あなたたちはまだ知らない」と言うのではありません。「わたしたちは知っているのです」と記したのです。それは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということがキリスト者なら誰にでも当てはまることであるからです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストがそのような人生を歩まれたお方であるからです。
5節をお読みします。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ここでの「希望」は、「神の栄光にあずかる希望」であります。苦難と忍耐と練達を経て本当に自分の拠り所となった希望であります。そのような希望は、私たちを欺くことはないとパウロは記すのです。私たちには「こうなったらいいのになぁ」と言った希望がいくつもありますけれども、そのような希望は実現しないことが多いものです。けれども、「神の栄光にあずかる希望」、苦難と忍耐と練達を経て自分のものとなった希望は、実現しないことはない。失望に終わることはないのです。神の栄光にあずかるという希望をもって歩んできたのに、最後の審判において、罪に定められ、神の栄光にあずかることができないということはないのであります。なぜ、そのように言い切ることができるのか?それは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」です。この「神の愛」は私たちを愛する神様の愛のことであります。聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているゆえに、私たちは自分が神様から愛されていることが分かるのです。少し前の説教で、神の御言葉が語られてはじめて、信じることができると申しました。神様の約束の言葉をいただいてはじめて、私たちは信じることができるのです。それと同じように、神様が私たちを愛してくださってはじめて、私たちは神様を愛することができるのです。
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからです」とパウロが語るとき、その「聖霊」とは「御父の霊」であり、また「御子の霊」であります。また、「神の愛」とは、「御父の愛」であり、「御子の愛」でもあります。神様は、父と子と聖霊なる三位一体の神様でありますから、そのように言うことができるわけです。私たちは御父の霊によって御父の愛を注がれ、御子イエスを愛する者とされています。また、御子の霊によって御子の愛を注がれ、父なる神を愛する者とされているのです。「永遠の命」とは「御父と御子イエス・キリストとの聖霊における永遠の愛の交わり」のことであります。聖霊によって神の愛を注がれている私たちは、イエスを愛し、父なる神を愛する永遠の命の交わりに生かされているのです。ですから、私たちは、神の栄光にあずかる希望を人生の確かな拠り所とすることができるのです。希望の確かさの根拠が神の愛であるゆえに、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と私たちは言い切ることができるのです。