イエスの守り 2010年12月26日(日曜 朝の礼拝)
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ヨハネによる福音書 17章11節~19節
聖書の言葉
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。ヨハネによる福音書 17章11節~19節
メッセージ
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先週はクリスマス礼拝でルカによる福音書からお話ししましたが、今朝から引き続きヨハネによる福音書より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。ヨハネによる福音書第17章には大祭司の祈りと呼ばれるイエス様のお祈りが記されています。第17章に記されているイエス様のお祈りは第13章から第16章までに記されていたいわゆる告別説教の結びであり、同時に第18章以降に記されている御受難の序章であります。何度か申したことですが、このイエス様のお祈りは大きく三つに区分することができます。第一の区分は1節から5節までで「イエス様御自身のための祈り」が記されています。第二の区分は6節から19節までで「弟子たちのための祈り」が記されています。第三の区分は20節から26節までで「弟子たちの言葉によって信じる人々のための祈り」が記されています。今朝は第二の区分である6節から19節までを読んでいただきましたが、先々週の礼拝で10節までお話ししましたので、今朝は11節以下を御一緒にみていきたいと思います。
11節から13節までをお読みします。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
世を去って御父のもとに行こうとしているイエス様が祈られたのは、世に残される弟子たちのことでありました。イエス様は「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つになるためです」と祈っておられます。「わたしに与えてくださった御名」、これは神を啓き示す啓示的な表現であります。第1章18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とありましたけれども、神様はイエス・キリストにおいて御自身を示されました。これが「イエス様に与えられた御名」の意味することころであると思います。私たちが神様を間違いなく呼ぼうとすれば、「私たちの主イエス・キリストの父なる神様」となるように、イエス様はただ「御名によって守ってください」とは言わずに「あなたがわたしに与えてくださった御名によって彼らを与えてください」と祈られたのです。「あなたに与えてくださった御名」が極めて啓示的な表現であることは、その前のイエス様の祈りからも確認することができます。6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました」と記されていました。「彼らは御言葉を守りました」。ここにすでに「守る」という言葉がでてきています。また7節、8節には次のように記されておりました。「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」。今朝の11節の御言葉はこのような文脈の中で語られたものであります。すなわち「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とは「わたしによって現わされた御父を彼らが知り続けることができますように」という願いであるのです。3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と記されておりましたけれども、11節でイエス様は「わたしが世を去ってからも弟子たちが永遠の命に生き続けることができますように、彼らをあなたとわたしとの交わりの内に守ってください」と祈り願っているのです。
イエス様が弟子たちと一緒にいる間は、イエス様が御父から受けた言葉を伝えることによって、彼らを御父と御子との交わりの内に守ってきました。それゆえ弟子たちはイエス様の御言葉を御父のものであると受け入れ、イエス様が御父のもとから出て来たことを本当に知り、御父がイエス様をお遣わしになったことを信じたのです。けれども、その弟子たちの中に一人例外がおりました。それが「滅びの子」と呼ばれているイエス様を裏切ったイスカリオテのユダであります。イエス様は弟子たちの足を洗い終えて「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われた後でイスカリオテのユダについてこのように言われました。「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」。イエス様はイスカリオテのユダが御父と御子との交わりから落ちてしまったのは、ユダが自らを滅びに引き渡したためであり、聖書が実現するためであったと語るのです。すなわち、イスカリオテのユダは御父が「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」の中に入っていなかったのです。よってイエス様が弟子たちと一緒にいる間、イエス様は御父から与えられた人々を一人も失うことなく御父と御子との交わりの内に守られたのであります。
イエス様は第16章28節で「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとへ行く」と言われましたが、ここでもイエス様は御自分が世から去ることを前提に祈っておられます。イエス様は御自分が弟子たちの前でこのように語るのは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られるのです。イエス様が地上におられたとき、弟子たちはイエス様によって御言葉を聞き、御父と御子との交わりの内に守られました。けれども、イエス様が世を去った後、弟子たちには「これから自分たちはどうなるのだろうか」という不安があったと思います。この不安はイエス様から「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたときから付きまとっていた不安でありました。そのような弟子たちに対して、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じない」とお語りになりました。また「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われ、もう一人の弁護者である真理の霊、聖霊を遣わすことを約束されたのでありました。そして今朝の御言葉では、御自分が世を去った後も聖なる父が弟子たちを御父と御子との交わりの内に守ってくださることを弟子たちの前で祈ることによって、彼らがイエス様の喜びに満ちあふれるようにされたのです。私たちはイエス様が世を去って御父のもとへ行かれた後に弟子となったのでありますが、そのような私たちが御父と御子との交わりである永遠の命に生きることができておりますのは、このイエス様の祈りによるものであります。すなわち、御父は十字架の死から復活して今も生きておられるイエス・キリストにおいて御自分を私たちに示してくださっているのです。私たちはもう一人の弁護者である聖霊によってかつて語られたイエス様の御言葉を今私たちに語られているイエス様の御言葉として聞き、イエス・キリストに与えられた御名を知る者たちとされたのです。私たちはイエス・キリストの御父である唯一のまことの神を知ることができた。そして、イエス・キリストにあって神の子とされ、御父と御子との交わりにあずかる者とされているのです。イエス・キリストの父なる神は私たちを御父と御子との交わりに生かし続けるために、私たちを主の日の礼拝へと招いてくださるのです。また週の半ばに祈祷会へと招いてくださるのです。イエス・キリストの父なる神は私たちを御父と御子との交わりの内に守られるために、私たちに聖霊と恵みの外的手段である御言葉と礼典と祈祷を与えてくださっているのです。
14節から16節までをお読みします。
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
イエス様は第15章18節、19節でこうおっしゃっていました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。世とは神様によって造られた被造物というよりも、神様に敵対する悪しき勢力のことであります。その世の具現者とも言えるユダヤ人たちにイエス様は第8章23節でこう言われました。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたがたはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」。はじめの人アダムが神の掟に背いたことにより、アダムから普通の仕方で生れてくる全人類は悪魔の支配のもとに生れてきます。けれども、永遠の神の御子でありつつ人となられたイエス様はそうではありません。イエス様は上に属する者であり、この世には属さない者であるのです。そして、このことはイエス様の御言葉を受け入れて、イエス様が御父のもとから出て来たことを本当に知り、御父がイエス様をお遣わしになったことを信じた弟子たちにも言えることなのです。なぜなら、弟子たちは霊によって上から生れた者たちであるからです。イエス様は第3章でニコデモに「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。弟子たちは神の霊によって新しく、上から生まれた者たちであるのです。それゆえ、彼らはイエス様が世に属していないように、世に属していないのです。イエス様の願い、それは弟子たちを世から取り去ることではなく、弟子たちが世にありながら、世に属さないことであります。そのためにイエス様は「悪い者から守ってください」と願われるのです。このイエス様の御言葉は私たちに主の祈りの第六の祈願「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」を思い起こさせます。弟子たちに「祈るときにはこう祈りなさい」と教えられたイエス様が御父に私たちを悪い者から守ってくださいと祈られたのです。私たちはこのイエス様の祈りをなぞるようにして、主の祈りをささげているのであります。
17節から19節までをお読みします。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
弟子たちが世にありながら世に属さないでいられるために、イエス様は彼らを真理によって聖なる者としてくださいと願います。悪い者たちから守られることと、真理によって聖なる者とされることは一つのことの両面であります。「真理によって彼らを聖なる者としてください」、この祈りはイエス様が御父を「聖なる父よ」と呼びかけたことと対応しています。聖とは神様の絶対的な尊厳を現わす言葉で、被造物との隔たりを現します。聖と訳される言葉の元々の意味は「分離」であると考えられています。神様のために取り分けること、それが聖なる者とする、聖別するということであるのです。聖なる者となるとは聖なる神様のものとして分かたれることであるのです。イエス様は「真理であるあなたの御言葉によって、弟子たちを聖なる者としてください」と祈っておられます。第17章のイエス様の祈りにはもう一人の弁護者・パラクレートスである聖霊について直接言及されることはないのですが、その働きが前提とされております。イエス様が御父のもとから遣わされる聖霊は「真理の霊」とも呼ばれていました。それはイエス様の名によって遣わされる聖霊が、弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせるお方であるからです。聖霊はかつて語られたイエス様の御言葉を今私たちに語りかける生きた御言葉として語るお方であるのです。それゆえ、イエス様が「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」とお語りになるとき、そこには御言葉と共に働く聖霊のお働きが前提とされているのです。私たちを世から分かち、神の御用のために聖なる者とするのは、イエス様の名によって遣わされる真理の霊であり、イエス様において語られた真理の言葉であるのです。第15章3節でイエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃいましたけれども、私たちはイエス様において語られた御父の御言葉によって世にありながら、神に属する聖なる者たちとされているのです。そして、それは私たちが内輪で楽しむためではなくて、世を去られるイエス様のお働きをこの地上で行うためであるのです。イエス様が御父から聖なる者とされて世に遣わされたように、私たちはイエス様によって聖なる者とされて世に遣わされるのです。そして、そのためにイエス様は自分自身をささげられるのであります。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも真理によってささげられた者となるためです」。ここで「ささげます」と訳されている言葉は17節で「聖なる者とする」と訳されていたのと同じ言葉です。ですから19節は次のようにも訳すことができます。「彼らのために、わたしは自分自身を聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者となるためです」。ちなみに口語訳聖書は19節を次のように訳しています。「また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別します」。このように聞いて、それはおかしいのではないかと思われる方もいらっしゃるかも知れません。なぜなら、イエス様は聖なる父と同じ本質を持つ神の御子であられるからです。確かにイエス様は神の性質(神性)から言えば聖なる者でありますけれども、おとめマリアから取られた人間の性質(人性)から言えば聖なる者と言いきれないのです。イエス様はイザヤ書第53章に預言されている主の僕として自らをささげることにより、私たちと同じ人として御自身を聖なる者とする必要があったのであります。イエス様が御父の御心に従って十字架で御自分の命をささげて、人性においても聖なる者となることにより、イエス様を信じる私たちが聖なる者とされる道が開かれたのであります。永遠の神の御子でありつつ、罪を他にして私たちと同じ人となってくださったイエス様が十字架において自らをささげてくださったことにより、私たちも真理によって聖なる者、ささげられた者となることができたのです。そのようにして私たちはイエス・キリストにおいて御自身を現わされた御名を宣べ伝える者たちとされたのであります。十字架の死から三日目に復活されたイエス・キリストは私たちに真理の霊と真理の言葉を与えてくださいました。それゆえ、私たちは聖なる者たちとして、今、聖なる神の御前に礼拝をささげることができるのです。