イエスに与えられた人々 2010年12月12日(日曜 朝の礼拝)

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イエスに与えられた人々

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章6節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。ヨハネによる福音書 17章6節~10節

原稿のアイコンメッセージ

小見出しに「イエスの祈り」とありますように、ヨハネによる福音書第17章はイエス様のお祈りが記されています。前回申したことでありますが、新共同訳聖書はイエス様のお祈りを三つの段落に分けています。第一の段落は1節から5節までで「御自分のための祈り」が記されています。第二の段落は6節から19節までで「弟子たちのための祈り」が記されています。第三の段落は20節から26節までで「弟子たちの言葉によって信じる人々のための祈り」が記されています。先程は第二の段落にあたる6節から19節までを読んでいただきましたが、今朝は6節から10節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 6節をお読みします。

 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。

 ここで「人々」また「彼ら」と呼ばれているのはイエス様の周りにいる弟子たちのことであります。イエス様は弟子たちのことを「御父が世から選び出して与えてくださった人々である」とお語りになるのです。弟子たちとは御父がイエス様に与えられた者たちであることは第6章37節でイエス様がおっしゃていたことでもあります。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのもとに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。また第6章44節でイエス様はこうおっしゃいました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」。

 前回3節の「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」という御言葉について学びました。御父が遣わされたイエス・キリストを知ることなしに、唯一のまことの神であられる御父を知ることはできません。なぜならイエス様は第14章6節、7節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われているからです。そして同時に、イエス様を遣わされた御父が引き寄せてくださらなければ誰もイエス様のもとへ行くことはできないのです。私たちが「キリスト者」「キリストのもの」とされたのは、私たちが御父からイエス様に与えられた者たちであるからなのです。

 「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」。このイエス様の御言葉の背後にあるのは旧約聖書のイザヤ書第53章の御言葉であります。イザヤ書第53章にはいわゆる「苦難の僕の預言」が記されています。キリスト教会はここにイエス様の十字架の死と復活、イエス様の受難と栄光が預言されていると読んできたのでありますが、8節にこう記されています。「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」。ここでの「わたしの民」とは「主なる神の民」のことです。主の僕が命ある者の地から断たれるのは「主なる神の民」の背きのゆえであるのです。

 また11節、12節にはこのように記されています。「彼は自らの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」。御父が御自分の民をイエス様にお与えになるのはなぜでしょうか?それはイエス様がイザヤ書第53章の預言を成就する主の僕として彼らの罪を自ら負われるからです。イエス様は十字架にあげられることによって悪魔に勝利するがゆえに、御父は御自分の民を戦利品としてイエス様にお与えになるのです。

 ではヨハネによる福音書に戻りましょう。

 イエス様は「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」とお語りになりました。ここでの「御名」は「神様の御名前」のことでありますが、「御名を現す」とは「神様の御人格を現す」ことを意味しています。ことわざにも「名は体を表す」とありますように「御名を現す」とは「神様の御人格を現す」ことであるのです。イエス様は「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」と言われておりますが、イエス様は御自分を信じないユダヤ人たちに対しても御名を示して来られました。しかしユダヤ人たちはイエス様が御父について話しておられることを悟ることができませんでした。ですからイエス様が本当の意味で御名を現すことができたのは、御父が世から選び出してイエス様に与えてくださった弟子たちだけに対してであったのです。

 続けてイエス様は「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」と言われました。ここでの「わたし」は神の永遠の御子でありつつ人となられたイエス・キリストであります。第1章1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とありました。また同じ第1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」とありました。イエス・キリストは肉となった言、人間の性質を取られた永遠の神の御子であられるのです。そのまことの神でありつつまことの人であるイエス・キリストに、御父は御自分の民を与えてくださったのです。

 弟子たちはイエス様から御名を現していただいたゆえに御言葉を守りました。そして、この「御言葉」は御父からイエス様に与えられたものであったのです。7節をお読みします。

 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。

 イエス様は「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」とこれまで何度も語ってこられました(7:16、8:28、12:49)。ユダヤ人たちはそのように主張するイエス様を悪霊に取りつかれていると言い、神を冒涜するものとして石で打ち殺そうとさえしました(10:33)。しかし今、弟子たちはイエス様の御言葉を御父からのものであることを知っているとイエス様は言われるのです。そして、それはこれまでのイエス様のお働きに基づくものであったのです。 

 8節をお読みします。

 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。

 イエス様のお働き、それは御父から与えられた御言葉を彼らに与えるという啓示の業でありました。ここで「受けた」と「伝え」と訳されている言葉はどちらも「与える」という動詞です。ですから元の言葉から直訳すると「わたしはあなたから与えられた言葉を彼らに与え」となります。イエス様のお働きは御父から与えられた言葉を御父から与えられた御自分の民に与えることであるのです。そしてイエス様は弟子たちが御自分の御言葉を御父の言葉として受け入れ、御自分がみもとから出て来たことを本当に知り、御父が御自分を遣わされたことを信じたと祈られるのです。

 この7節、8節の御言葉は弟子たちが「私たちはこのようなものです」と誇らしげに語ったものではありません。イエス様が御父に祈りをささげておられる中で、弟子たちについて語られた御言葉であります。このことが7節、8節の御言葉を正しく読み解く鍵であると思います。第16章29節で弟子たちは「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と誇らしげに言いました。けれども、それに対してイエス様は「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とおっしゃいました。新共同訳聖書は「今ようやく、信じるようになったのか」と皮肉まじりに訳しておりますが、元の言葉を直訳すると「今、あなたがたは信じているのか」となります。イエス様は必ずしも弟子たちに皮肉を言っているのではなくて、現時点での弟子たちの信仰を確認しておられると読むことができるのです。けれども弟子たちの信仰は散らされて自分の家に帰ってしまい、イエス様をひとりきりにするような不完全な信仰であったのです。しかしイエス様は第17章にの祈りの中で「彼らは御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」と言われるのです。イエス様は祈りにおいて、弟子たちをそのような者たちとして御父に紹介されるのです。この弟子たちについての御言葉は弟子たちの現状からすれば分不相応の御言葉であります。ほめすぎではないかと思うのです。しかしイエス様は御父への祈りにおいて弟子たちを御言葉を守った者たち、イエス様がみもとから出て来たことを本当に知り、御父がイエス様をお遣わしになったことを信じた者たちであると御父に言われるのです。

 前回私は4節の御言葉「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」についてお話ししたとき、ここでの「業」は「十字架に上げられること」であり、イエス様は既に十字架に上げられ、復活した者のように祈っておられることを指摘しました。ヘブライ人への手紙第11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが、イエス様はそのような信仰をもって御父に祈りをささげておられるわけです。それゆえイエス様は御父への祈りの中で、弟子たちが「御言葉を守りました」と語り、「本当に知り、信じた」と語られるのです。イエス様は「御言葉を守り、本当に知り、信じた」弟子たちの姿をはっきりと想い描きながら、この祈りをささげておられるのです。イエス様は別の弁護者である聖霊が与えられた弟子たちの姿を望み見ながら御父に祈りをささげておられるのです。聖霊を与えられてイエス様を信じている私たちを、イエス様は「御言葉を守り、本当に知り、信じた」者たちと御父の御前で言ってくださるのであります。

 9節、10節をお読みします。

 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

 ここでイエス様は御自分が世のためではなく、御父から与えられた人々である弟子たちのために願うことを明らかにされます。ここでの「世」は神様によって造られた被造物というよりも、神様に敵対する勢力を指しています。イエス様の弟子たちは御父から与えられた人々であるがゆえに、御父のものでもあるのです。すなわちイエス・キリストの弟子たちは唯一のまことの神の民であるのです。なぜなら御父と御子イエス・キリストは「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」という親しい交わりに生きておられるからです。

 イエス様は第5章23節で「子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」とおっしゃいました。しかし、弟子たちはイエス様が御父から与えられた御言葉を受け入れて、イエス様がみもとから出て来たことを本当に知り、御父がイエス様をお遣わしになったことを信じることによって、イエス様の栄光を現したのです。「わたしは彼らによって栄光を受けました」。この御言葉の背景にはイエス様を神の御子、罪人の救い主として礼拝していたヨハネの教会の姿があるのではないかと考えられています。私たちもイエス様を神の御子、罪人の救い主と信じ礼拝をささげております。私たちは御父ばかりではなく、御父から遣わされたイエス・キリストを主として礼拝しているのです。そしてそのような者たちだけが唯一のまことの神の民であるのです。第16章2節、3節でイエス様は「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」と弟子たちにおっしゃいました。ユダヤ人たちはイエス様の弟子たちをなぜ会堂から追放し、神の名によって殺すことさえするのでしょうか?それは神の御言葉とイエス・キリストの御言葉を別のものと考えるからです。神の民とイエス・キリストの民を別のものと考えるからであります。ユダヤ人たちはイエス・キリストを信じる者たちを神を冒涜する滅ぼすべき異端と見なすのです。しかし繰り返しになりますけれども、イエス様が御父から与えられた御言葉を受け入れ、イエス様がみもとから出て来たことを本当に知り、御父がイエス様をお遣わしになったことを信じる者たちが神の民であるのです。天地創造の前から選ばれていた神の民であることがイエス・キリストを信じることによってあらわとなるのです(エフェソ1:3~7参照)。また御父から遣わされたイエス・キリストを神の御子、罪人の救い主として礼拝することによってのみ唯一のまことの神に栄光を帰すことができるのです。

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