イエスの祈り 2010年12月05日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。ヨハネによる福音書 17章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 ヨハネによる福音書の第17章にはイエス様の祈りが記されています。これほど長いイエス様の祈りが記されているのは新約聖書でここだけであります。大変貴重な、宝のような御言葉がここに記されているわけです。私たちが用いております新共同訳聖書をよく見ますと、3つの段落に分けられています。第一の段落は1節から5節までであります。第二の段落は6節から19節までであります。第三の段落は20節から26節までであります。この3つの段落に表題をつけると次のようになります。第一段落の1節から5節までは「御自分のための祈り」、第二段落の6節から19節までは「弟子たちのための祈り」、第三段落の20節から26節までは「弟子たちの言葉によって信じる人々のための祈り」となります。

 今朝は第一段落にあたる1節から5節より御言葉の恵みに御一緒にあずかりたいと願っています。

 1節の前半に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」と記されております。「これらのこと」とは第13章から第16章までに記されていた最後の晩餐の席でのいわゆる告別説教を指しております。イエス様の弟子たちへの教えは御父への祈りを持って閉じられるのです。イエス様が弟子たちに語っておられたとき、イエス様の眼差しは弟子たちへと向けられていたはずです。けれども、ここではイエス様の眼差しが天へと上げられる。眼差しばかりではなく、イエス様は天におられる御父に語りかけられるのです。「天を仰いで言われた」。これはユダヤ人の祈りの姿勢であります。旧約聖書の詩編第123編1節に「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ」とありますように、イエス様は天におられる御父に祈りをささげられるのです。それも弟子たちの前で、弟子たちに聞こえるように御父に祈られたのであります。それは弟子たちがイエス様から祈られていることを知り、平和を得るためであったと思います。昔からこのイエス様の祈りは「大祭司イエスの祈り」と呼ばれてきました。それはイエス様が弟子たちのために、さらには弟子たちの言葉によって御自分を信じる者たちのために執り成しの祈りをささげておられるからです。それゆえ、このイエス様の祈りは教育的な祈りであったと言うことができます。イエス様は御父への祈りを通しても弟子たちを教えられるのです。私たちも今朝イエス様のお祈りから多くのことを教えられたいと願います。

 1節の後半をお読みします。

 「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。ヨハネによる福音書は「イエス様の時」ということをこれまで何度も語ってきました。第2章に「カナでの婚礼」のお話が記されておりますが、母がイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエス様は母にこう言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。また第7章に兄弟たちがイエス様に「仮庵の祭りに上って行って、自分を公に示しなさい」と言うと、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない。しかしあなたがたの時はいつも備えられている」と言われました。福音書記者ヨハネも仮庵祭でイエス様がユダヤ人たちに捕らえられなかったのは「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と解説してきました(7:30、8:20)。第12章にイエス様がイスラエルの王としてエルサレムに迎えられた後、何人かのギリシャ人が会いに来たことが記されておりますけれども、そこでイエス様は次のようにおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。また福音書記者ヨハネは第13章1節で次のように記しておりました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。さらに前回学んだ第16章32節でイエス様は「見よ、あなたがたがた散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」と言われました。このようにイエス様が言われる「わたしの時」とは、イエス様が逮捕される時であり、イエス様が栄光を受ける時であり、一粒の麦として死ぬ時であり、世から御父のもとへ移る時であり、良い羊飼いであるイエス様が自ら命を捨てる時であるのです。そして、それは他でもないイエス様が十字架に上げられる時であるのであります。イエス様は神様を親しく「父よ」と呼びかけ、御自分の時が来たことを告げられるのです。「父よ、時がきました」この認識に立って「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られるのです。元のギリシャ語を見ますと「栄光を現す」と訳されている言葉と「栄光を与える」と訳されている言葉は同じ言葉、ドクサゾーという言葉です。ですから私は「栄光を現す」という翻訳で統一したほうが良いのではないかと思います。元の言葉、ドクサゾーを「栄光を現す」で統一しますと次のようになります。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子の栄光を現してください」。ちなみに新改訳聖書を見ますと「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子の栄光を現してください」と翻訳しています。この説教の始めに1節から5節までを第一段落として区分し「御自分のための祈り」という表題をつけましたけれども、イエス様が御自分の栄光が現れることを祈られるのは「御父の栄光を現すため」であるのです。イエス様は「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、あなたが子の栄光を現してください」と祈られるのです。ヨハネによる福音書は十字架において神の栄光が現れると記すのでありますけれども、その十字架を前にして、イエス様は「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、あなたが子の栄光を現してください」と祈られるのです。ヨハネによる福音書は第18章からイエス様の受難について記すわけですが、そのイエス様のお心を支えた祈りがこの祈りであったのです。第17章に記されているイエス様の祈りは告別説教の結びであると同時にイエス様の受難の序章とも言えるのであります。

 2節をお読みします。

 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのため、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。新共同訳聖書は2節を二つの文に分けて翻訳しておりますが、元の言葉は一つの文であります。口語訳聖書は2節を次のように訳しています。「あなたは、子に賜ったすべての者に、永遠の命を授けるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」。この口語訳聖書の翻訳のほうが元の言葉の意味を正しく伝えていると思います。新共同訳聖書は「父が子にすべての人を支配する権能をお与えになった」ことが先ずあって、その結果として「子が父からゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」と記されておりますけれども、元の言葉を見ますと口語訳聖書、あるいは新改訳聖書が翻訳しておりますように、「父は、子がゆだねられた人すべてに永遠の命を与えるため、子にすべての人を支配する権能を与えられた」のです。すなわち、御父が御子にすべての人を支配する権能を与えられたのには、御子に与えたすべての人に永遠の命を与えるという明確な目的があったのです。

 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」。ここで「すべての人」の「人」と訳されている言葉は直訳すると「肉」となります。「すべての肉」は「すべての人」を表すヘブライ的なものの言い方であります。また元の言葉には「支配する」と訳されている言葉はありません。ですから元の言葉を直訳すると「あなたは彼にすべての肉に対する権能を与えられた」と記されているのです。このイエス様の御言葉はマタイによる福音書第28章に記されている復活したイエス様の御言葉を思い起こさせます。復活したイエス様は弟子たちに近寄って来られ「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。けれどもここでイエス様は「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」と過去形で言われております。なぜなら「父よ、時が来ました」と告げる「時」は十字架に上げられる時だけではなく、死から復活し、天へと上げられる時でもあるからです。もちろんイエス様が十字架に上げられ、死から復活し、天へと上がられるのはこれからのことなのでありますけれども、イエス様はそのことが確実であるがゆえに、もう済んでしまったかのように祈られるのです。ヘブライ人への手紙第11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが、まさしくイエス様はその信仰をもって御父に祈っておられるのであります。それゆえイエス様の祈りは十字架を前にした祈りでありながら、すで死から復活し世に勝利された者の祈りであると言うことができるのです。 

 父が子にすべての人に対する権能をお与えになったのは、子に与えられた人すべてに永遠の命を与えるためでありました。私たちはこのことからイエス様が御父から与えられた権能が終末的な裁きの権能であることが分かります。すでに第3章35節、36節に次のように記されておりました。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。また第5章22節から24節でイエス様は次のようにおっしゃっていました。「また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。このようにイエス様は御父からすべての人を裁く権能を与えられたのです。そして、それは繰り返しますけれども、御父から与えられたすべての人に永遠の命を与えるためであったのです。2節の御言葉を読みまして、御父からイエス様に与えられなかった人はどうなるのだろうか?と疑問に思われるかも知れませんけれども、イエス様はそのことについてここでは触れておりません。イエス様がここで私たちに強調しておられることは、御父から与えられたすべての人に永遠の命を与えるために、わたしはすべての人に対する権能を与えられたのであるということであります。イエス様はここで滅びについてではなく、救いについてお語りになっているのです。第3章16節、17節に「神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありますように、御父がイエス様にすべての人に対する権能を与えられたのは、イエス様を信じるすべての人に永遠の命を与えるためであったのです。それでは「永遠の命」とはどのようなことを言うのでしょうか?3節に次のように記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。おそらく教会に来て間もない方が「永遠の命」と聞きますと死ぬことがない、何百年、何千年と生き続けるそのような命のことを連想されるのではなかと思います。不老不死というような意味で「永遠の命」というものを考えるのではないかと思うのです。しかし、聖書を学び始めると「永遠」とは「時間が無制限に続くこと」を表すばかりではなく「時間と空間を超越した神様の領域」を表すことが分かってきます。私たちは神様によって造られた被造物でありまして時間と空間という枠組みの中に生きております。けれどもすべてをお造りになられた創造主である神様は時間と空間とを超越した領域である永遠におられるのです。聖書において永遠と言えば神様だけです。その永遠である神様の命にあずかること、それが「永遠の命」なのであります。イエス様は「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とおっしゃいました。ここでの「知る」は単に知識を持っているということだけではなく、「交わりの中で人格的に知る」ということです。また、ここで「唯一のまことの神である父」と「父が遣わされたイエス・キリスト」が知る対象として二つ並べられているのではなく「唯一のまことの神である父」と「父が遣わされたイエス・キリスト」を知ることは一つのことであるのです。すなわち、永遠の命とは、唯一のまことの神をイエス・キリストを遣わされた方として知ることであり、イエス・キリストを唯一のまことの神である御父から遣わされた方として知ることであるのです。私たちは神様を天地万物をお造りになった創造主として知るだけでは不十分であります。なぜならイエス様を信じなかったユダヤ人たちも創造主なる神を信じていたからです。私たちは旧約聖書において御自分を表してこられた唯一のまことの神がイエス・キリストを遣わされたお方であることと信じるとき神を知っていると言うことができるのです。また、イエス・キリストを唯一のまことの神から遣わされたお方として信じるとき、私たちはイエス・キリストを知っていると言うことができるのです。私は先程「ここでの知るとは交わりの中で人格的に知ることである」と申しましたが、その点を強調するならば、聖霊において御子イエス・キリストを通して御父を礼拝することが「唯一のまことの神であられるあなたとあなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ること」であるのです(4:24参照)。イエス様の祈りを読むと分かるように、ここにあるのは父と子との親しい交わりであります。私たちは聖霊において御子イエス・キリストに結ばれて神の子供たちとされ、御父と御子との親しい交わりにあずかる者とされているのです。それゆえ私たちは今すでに永遠の命を与えられているのであります。私たちは礼拝においてこそ永遠の命に豊かにあずかることができるのです。

 4節をお読みします。

 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

 イエス様が地上で成し遂げられた業、それは御父から行うようにと与えられた業でありました。ここでの「業」は元の言葉を見ると単数形で記されています。ですからここでの「業」はこれまでイエス様が行われてきた生まれつきの盲人を見えるようにするとか、ラザロを死んでから4日目によみがえらせるといったもろもろ業のことではなくて、十字架にあげられるというただ一つの業のことを言っているのです。なぜなら、イエス様は十字架の上において「成し遂げられた」と言われるからです。このところからもイエス様の祈りは十字架にあげられ、死から復活したことが確実であることを信じすでに起こってしまたかのような揺るぎない信仰に基づく祈りであることが分かるのです。イエス様は十字架の贖いの御業を成し遂げた者として、イエス様は5節でこう祈られるのです。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。ここで「栄光を与えてください」と訳されている言葉は4節で「栄光を現しました」と訳されているのと同じ言葉、ドクサゾーであります。私は1節について語ったとき、同じ言葉には同じ訳語をあてたほうが良いと申しましたが、新共同訳聖書が「子が父の栄光を現す」「父が子に栄光を与える」と訳し分けたのも理由があってのことであります。それは子が「肉となった言」であるからです(1:14参照)。イエス・キリストは神性と人性を持つ、まことの神でありつつまことの人であられます。神性においては御父と等しいお方でありますけれども、人性においては御父より小さい者であるわけです。ですから、新共同訳聖書は「子が父の栄光を現す」と訳し、「御父が子に栄光を与える」と訳したわけです。永遠から御父と共におられた御子は、肉となる、人間の性質を取るという仕方でこの地上に遣わされました。それゆえ教父であるアウグスティヌスは5節のイエス様の祈りをイエス様の人性が永遠の栄光にあずかることを願う祈りであると言っているのです。ヨハネによる福音書の第1章1節から3節に次のように記されておりました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった」。イエス様が「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとでもっていたあの栄光を」と言われるとき、それは言として神と共にあった、まさに永遠の栄光のことであります。しかし、イエス様が「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください」と願う「わたし」は肉となった、人の性質を取られたまことの神でありつつまことの人であるイエス・キリストであるのです。そして、それは御父が行うようにと与えてくださった業を成し遂げる、十字架の死から復活されるイエス・キリストであるのです。このようにイエス様は十字架の先に永遠の栄光があることをしっかりと見据えておられる。御父から遣わされ、御父から与えられた業を成し遂げる御自分において、人間が神の栄光にあずかる道が開かれることをイエス様は確信して十字架の道を歩み出されるのです。

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