悲しみは喜びに変わる 2010年11月21日(日曜 朝の礼拝)
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悲しみは喜びに変わる
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 16章16節~24節
聖書の言葉
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ヨハネによる福音書 16章16節~24節
メッセージ
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今朝はヨハネによる福音書第16章16節から24節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
16節から18節までをお読みします。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』と言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しているのか分からない。」
ここにはイエス様の御言葉に対する弟子たちの困惑が記されています。イエス様は数時間後にはユダヤ人たちに捕らえられ十字架に上げられるのでありますが、弟子たちはそのことを知りません。ですから、彼らはイエス様の御言葉を聞いても理解することができなかったのです。12節でイエス様が「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とありましたように、真理の霊を与えられて初めてイエス様の御言葉を理解することができるようになるのです。
では「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という御言葉はどのようなことを言っているのでしょうか?分かりやすい一般的な解釈は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは数時間後にイエス様は捕らえられ、十字架に上げられ、墓に葬られてしまうことを指している。そして「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とは、墓に葬られたイエス様が三日目に復活して弟子たちに現れてくださることを指しているという解釈です。しかし、もう少しヨハネによる福音書の文脈に則して見ると17節で、弟子たちは16節の「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という御言葉と10節の「父のもとに行く」という2つを取り上げています。これはやはり意味があると思います。すなわち、ここで福音書記者ヨハネは「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」とは「父のもとに行く」ことを意味していると告げているのです。そして「またしばらくすると、わたしを見るようになる」という御言葉は、イエス様の御名によって御父から遣わされる聖霊において見ることを意味しているのです。16節に「見る」という言葉が二度でてきますが、元のギリシャ語を見ますと、別の言葉で記されています。初めの「見る」「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが」の「見る」はセオレオーという動詞で、現在形で記されています。現在形ですから、これは今弟子たちが目の前にイエス様を見ているように弟子たちはもう見なくなるということです。それは十字架に上げられることによって、さらには復活し天へと上げられることによって、イエス様が「父のもとに行く」からです。
二つ目の「見る」「またしばらくすると、わたしを見るようになる」の「見る」はホラオーという動詞で、未来形で記されています。これは物質的に見るというよりも、「信仰によって見る」、「霊的に見る」という意味で使われています。少し飛んで22節に「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」とありますが、ここで「会い」と訳されている言葉は、2番目の「見る」「またしらばらくすると、わたしを見るようになる」の「見る」ホラオーの未来形であります。ここでは十字架の死から復活したイエス様が弟子たちの前に現れてくださることが言われておりますが、それは聖霊においてイエス様が私たちに会ってくださることと重ね合わせて記されているのです。
16節後半の「またしばらくすると、わたしを見るようになる」、また22節の真ん中の「わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」が、十字架の死から復活されたイエス様を見る、あるいはイエス様と会うことだけを指すならば、私たちは「あなたがたは心から喜ぶようになる」と言われる喜びにあずかることができません。けれども、それが聖霊において御臨在されるイエス様を信仰の眼をもって見るということであり、聖霊において人格的に会うことであれば「あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われる喜びは私たちにも与えられているのです。イエス様は天の父なる神の右に座しておられますから、私たちはイエス様を肉眼において見ることはできませんけども、しかし聖霊において御臨在してくださるイエス様を信仰の眼によって見、そして、心から喜ぶ者とされているのです。私たちは復活されたイエス様の聖霊を与えられているゆえに、どのようなときも喜ぶことができるのです。
19節から22節までをお読みします。
イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
イエス様は尋ねたがっている弟子たちに、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。ここでイエス様は御自分が十字架に上げられることを背景として語っておられます。イエス様が十字架に上げられるとき、弟子たちは泣いて悲嘆に暮れますけれども、世は喜びます。ここでの「世」とは神の御子であるイエス様によって造られたものでありながら、神の御子イエス様を受け入れない世のことであります。世はイエス様を十字架につけることによって喜ぶ。世の行っている業は悪いと証ししているイエス様がいなくなって、世は喜ぶわけです(7:7参照)。しかし、弟子たちの悲しみは、喜びに変わるとイエス様は言われます。そのことをイエス様は女性の出産に譬えてお語りになりました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。弟子たちの喜び、悲しみが喜びに変わると言われる喜びは、このような命の誕生になぞらえることのできる根本的喜びなのです。そして、この出産の譬えはイエス様が十字架の死から復活することによりメシア、救い主として誕生することを暗示しているのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙第1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」と語っておりますが、イエス様は、十字架の死から復活されることによって、さらには天へ上げられることによって全人類のメシア、キリスト、救い主となられたのです(使徒2章参照)。イエス様はこれまで生まれつき目の見えない人を見えるようにしたり、ラザロを死から4日目に甦らせたりして、御自分が神の御子であり、救い主であることを示してこられました。そしてイエス様は十字架の死から三日目に栄光の体で復活されることによって、御自分が神の御子、救い主であることを弟子たちにお示しになるのです。それゆえ、今、弟子たちは悲しんでおりますけれども、イエス様が十字架の死から復活されて弟子たちと再び会ってくださるゆえに、弟子たちは心から喜ぶことになるのです。復活のイエス様との再会によって、弟子たちの悲しみは喜びに変わるのであります。しかも、その喜びを奪い去ることは誰にもできないのです。
ここには二つの喜びがでてきます。それは「世の喜び」と「弟子たちの喜び」であります。「世の喜び」はイエス様を無き者にしたことから生じる喜びであります。イエス様の死に根ざす喜び、暗い喜びであります。他人の失敗を喜ぶようなそのような暗い喜びです。そして、このような喜びはすぐに消えてしまう喜びであります。それに対して「弟子たちの喜び」はイエス様が復活されたことから生じる喜びであります。イエス様の命、永遠の命に根ざす喜びです。赤ちゃんが生まれたことを喜ぶ、そのような明るい喜びであります。そして、この喜びを弟子たちから奪い去ることは誰にもできないのです。なぜなら、イエス様はただよみがえられただけではなくて、栄光の体で復活し、弟子たちに聖霊を注いでくださったからです。ヨハネによる福音書の第20章19節以下を読みますと、復活されたイエス様が弟子たちに現れたその日に、弟子たちに聖霊をお与えになったことが記されています。復活されたイエス様は父のもとへ行きますけれども、聖霊において弟子たちの内におられるのです。私たちが「イエス・キリストの復活を信じる」と言うときもそうだと思います。私たちが「イエス・キリストの復活を信じる」という言うとき、それは今からおよそ2000年前に十字架に死んだイエス・キリストが三日目に復活されたことだけを信じているのではなくて、復活されたイエス・キリストが今も生きておられ、目には見えないけれども、聖霊において私たちと共にいてくださる。ここまで信じているのです。さらには、今天におられるイエス・キリストがやがて誰の目にも見える仕方で、栄光の主として来てくださることを信じているのです。復活の主イエス・キリストが聖霊において私たちに会ってくださり、そればかりか私たちの内に住まいを設けてくださっている。それゆえに、「その喜びを奪い去る者はいない」のです。
23節、24節をお読みします。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
「その日」とは復活のイエス様によって聖霊を与えられる日のことであります。なぜなら、13節にありましたように、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」からであります。
イエス様は20節に続いてここでも「はっきり言っておく」と言われています。これは元のギリシャ語を直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。イエス様は神の御子の権威をもって、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と言われるのです。この「わたしの名」とは、世の罪を取り除くために十字架に死に、三日目に復活し、天へと上げられた「わたしの名」のことであります。そのようなイエス様の名によって、私たちが何かを父に願うならば、父は与えてくださるのです。私たちは聖霊を与えられることによって、神様を「アッバ、父よ」と呼び、イエス・キリストにあって神の子として願うようになるのです。ですから、私たちがイエス様の御名によって、「天の父なる神様」と呼びかけて願うとき、神様は私たちの父として願うものを与えてくださるのです。
24節でイエス様は「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった」と言われていますが、それはイエス様がまだ父のもとへ行ってはいなかったからでありますね。十字架の死から復活し、天への上げられたイエス様は私たちの弁護者として(一ヨハネ2:1参照)、また大祭司として(ヘブライ7章参照)、私たちの祈りを御父に執り成してくださるのです。
私たちが自分の名前でお祈りしても神様は聞いてくださらないでしょう。なぜなら、私たちは罪人だからです。けれども、十字架の死から復活され、神の右に座しておられるイエス・キリストの名によって祈るとき、神は私たちの父としてその願いを聞いてくださるのです。それゆえ、イエス様は「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われるのです。ある人が「喜びに満たされるという約束が祈りを背景としていることを見落としてはいけない」と言っていました。私たちが喜びで満たされるのは祈りにおいてなのです。「祈りをして、しばらくして願っていたものが与えられ、それで喜びに満たされる」というのではありません。イエス様の御名によって祈っている、その祈りの中で、与えられることを確信して、喜びに満たされるのです。
今朝は最後にヨハネの手紙一第5章13節から15節までを読んで終わりたいと思います。
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心にかなうことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事が何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
私たちが十字架の死から復活されたイエス様の御名によって祈るとき、神様は父として私たちが願うものを与えてくださいます。このイエス様の約束のゆえに、私たちの願ったことがすでにかなえられていることを信じて、喜びで満たされるのです。悲しみに打ちひしがれて祈り始めたとしても、私たちは喜びに満たされて祈りを終えることができるのです。復活したイエス・キリストの御名によって祈るとはそういうことであります。