勇気を出しなさい 2010年11月28日(日曜 朝の礼拝)
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勇気を出しなさい
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 16章25節~33節
聖書の言葉
16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書 16章25節~33節
メッセージ
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ヨハネによる福音書は第13章から第16章に渡って最後の晩餐の席におけるイエス様の説教、いわゆる告別説教を記しております。今朝はそのイエス様の告別説教の最後の御言葉から御一緒に神様の恵みにあずかりたいと願っています。
25節から28節までをお読みします。
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
イエス様は「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とおっしゃいました。「これらのこと」とは弟子たちにこれまで話してきた、いわゆる告別説教全体を指しています。また「たとえ」とありますけれども、元の言葉を見ますと複数形で記されておりまして、一つのたとえというよりも、これまで話してきた話全体がたとえのようであったことが言われております。岩波書店から出版されている翻訳聖書はこのところを次のように訳しています。「これらのことを、謎めいたかたちであなたがたに語って来た」。18節で弟子たちが「『しばらくすると』と言っておられるのは何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と言っておりましたように、弟子たちにとってイエス様の告別説教全体が謎めいたものであったのです。けれどもイエス様は「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とおっしゃいました。これは別の弁護者である真理の霊、聖霊が遣わされる時のことであります。イエス様は十字架に上げられ、復活し、天へと上げられることによって聖霊を遣わし、御父について弟子たちにはっきり知らせてくださるのです。現代の弟子である私たちはイエス様の御名によって遣わされた聖霊を与えられて、はっきりと父について知ることができたのです。
さらにイエス様は「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」とおっしゃいました。イエス様が十字架に上げられ、復活し、天に上げられることによって父なる神の右にお座りになる。そのようなお方としてイエス様は私たちの祈りを父なる神に執り成してくださる。それゆえ、イエス様は前回学びました23節以下で「はっきり言っておく。あなたがたはわたしの名によって願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われたのです。別の弁護者である聖霊が遣わされる日、旧約聖書が預言するところの終わりの日には、弟子たちはイエス様の御名によって父に願い、与えられ、喜びに満たされる。そのような祝福に生きるようになるのであります。そして私たちは今、そのような祝福に生かされているのです。
26節後半の「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」という御言葉は少し解釈の難しいところだと思います。誤解のないように申しますが、この御言葉はイエス様が天において私たちの祈りを御父に執り成してくださることを否定するものではありません。ローマの信徒への手紙第8章34節に次のように記されています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。またヘブライ人への手紙第7章24節、25節には次のように記されています。「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになるのです」。このようなイエス様の執り成しがあるからこそ、イエス様の名によって何かを父に願うならば、父は与えてくださるわけです。それではイエス様の御言葉「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」とはどう言う意味なのでしょうか?次週学ぶことになる第17章には「イエス様の祈り」が記されています。その中でイエス様が弟子たちのために祈っている箇所があります。例えば15節には「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」というイエス様の弟子たちのための祈りの言葉が記されています。またルカによる福音書第22章31節でイエス様はシモン・ペトロのために「信仰が無くならないように祈った」と言われています。このような弟子たちに代わっての祈りをイエス様が御父のもとへ行き、聖霊が遣わされてからはなさらないとイエス様は言われているのです。それはもうその必要がないからであります。弟子たち一人一人に聖霊が与えられ、イエス様の御名によって祈ることができるからでありますね。24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって願わなかった」とありますように、弟子たちはイエス様の名によってこれまで祈ることをしませんでした。これまではイエス様が弟子たちのために祈っていた。けれども、イエス様が御父のもとへ行き、聖霊が遣わされると弟子たち一人一人がイエス様の御名によって祈ることができるようになる。イエス様の御名によって祈ることにより、「イエス様の父なる神」を「私たちの父なる神」と呼ぶことができるほどに親しい交わりに生きることができるようになる。ですから、イエス様は「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」という御言葉に続けて「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」と言われたわけです。そしてさらに続けて「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とイエス様は言われるのです。これはですね、御父が私たちをイエス様と同じように扱ってくださるということです。第1章12節に「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とありましたが、イエス様を愛し、イエス様が神のもとから出て来たことを信じている私たちを、神様はイエス様のように神の子として扱ってくださるのです。私たち改革派教会の源とも言えますジャン・カルヴァンは、私たちがキリストの名によって祈るとき「われわれはあたかも彼の口によって祈るようなものである」と語っております(ジュネーヴ教会信仰問答問252)。イエス様を愛し、イエス様が神様から遣わされたことを信じる私たちを御父は愛してくださり、私たちがイエス様の御名によってささげる祈りを喜んで聞き上げてくださるのです。それゆえ、私たち一人一人がまるでイエス・キリストのように御父に祈りをささげることができるのです。そのような特権と祝福を私たちキリスト者は与えられているのであります。
27節のイエス様の御言葉「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」は、私たちの側に神様から愛される根拠があるかのように読むことができます。私たちがイエス様を愛し、イエス様が神のもとから来られたことを信じたから、神様は私たちを愛してくださっている。神様の愛は私たち次第だと、そのように読むことができます。けれども、もちろんそうではありません。むしろ私たちがイエス様を愛し、イエス様が神のもとから来られたことを信じていること自体が、私たちが御父から愛されていることのしるしであるのです。今、祈祷会でエフェソの信徒への手紙を学んでおりますが、その第1章3節から5節には次のように記されています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。神様は私たちを天地創造の前から愛して、キリストにおいてお選びになりました。ですから私たちは御父から愛されているがゆえに、イエス様を愛し、イエス様が神のもとから来られたお方であると信じることができたのです。ヨハネによる福音書第17章26節で、イエス様は「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり」とおっしゃっています。私たちは聖霊によってイエス様に対する御父の愛をいただいて、イエス様を愛する者とさせていただいたのです。
29節から32節までをお読みします。
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」。
イエス様は御自分が御父のもとへ行き、聖霊を遣わす日に「はっきり父について知らせる時が来る」ことを告げられました。しかし弟子たちはどうも早とちりをしたようであります。弟子たちの言葉「あなたが何でもご存じで、だれも尋ねる必要のないことが、今、分かりました」は、イエス様がすべてのことを知っておられること、さらにはイエス様が人の心の奥底にあることをも見抜かれるお方であることが表明されています。19節に「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた」とありますように、イエス様は尋ねる前に答えることのできるお方であるのです。弟子たちは「今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と自信満々に言うのですが、イエス様は「今ようやく、信じるようになったのか」と答えられました。私たちが用いております新共同訳聖書はこのところを弟子たちへの皮肉を込めて翻訳しておりますが、元の言葉を直訳すると「今、あなたがたは信じているのか」となります。新改訳聖書は「あなたがたは今、信じているのですか」と翻訳しています。弟子たちは「今、分かった」「私たちは信じます」と言うのでありますけれども、イエス様は「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と言われるのです。32節の初めに「だが」とありますが、このような逆接の接続詞は元の言葉にはありません。元の言葉は「見よ」であります。弟子たちは「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言いましたけれども、イエス様が世を去って、父のもとに行く時がもうそこに来ているのです。30節の弟子たちの信仰が不十分であることは、彼らがイエス様が世を去り、父のもとへ行くことについて全く触れていないことからも明かであります。32節のイエス様の御言葉「見よ、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書が伝える、弟子たちの逃亡を指していると考えられます。共観福音書を見ますと、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまったと記されています。そのことをイエス様はここで暗示しておられると考えられるのです。けれどもわたしはここでイエス様は恨みがましく「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている」と言っておられるのではないと思います。なぜなら、ヨハネによる福音書は弟子たちがイエス様を見捨てて逃げたとは記していないからです(18:8参照)。32節で「散らされる」と訳されている言葉が第10章12節にもでておりました。第10章10節後半から12節までをお読みします。「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる-狼は羊を奪い、追い散らす」。12節のおわりに「追い散らす」とありますが、これは第16章32節の「散らされて」と訳されているのと同じ言葉です。良い羊飼いであるイエス様がおられるのに、その羊である弟子たちが散らされてしまうのはなぜでしょうか?それは羊飼いが命を捨てる時が来たからです。イエス様の御言葉、「見よ、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている」は、決して弟子たちへの当てつけでも皮肉でもありません。そうではなくて、羊飼いであるイエス様が命を捨てる時が来たことを弟子たちに告げる言葉であるのです。旧約聖書のゼカリア書第13章7節に「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」とありますけれども、羊飼いが撃たれる時が既に来ているのであります。けれども、イエス様は「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」とおっしゃいます。旧約聖書の詩編第23編は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と歌っておりますけれども、イエス様は十字架の死へと向かわれるその歩みにおいて、「わたしはひとりではない。父が共にいてくださる」とお語りになるのです。
33節をお読みします。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
この33節はイエス様のいわゆる告別説教の最後の言葉であります。ここにイエス様が告別説教を語って来た目的が端的に記されている、そのように読むことができます。イエス様が十字架に上げられる前夜に弟子たちに多くのことを語って来られたのは、弟子たちがイエス・キリストにおいて平和を得るためであったと言うのです。イエス様は第14章27節で「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」とすでにおっしゃっていました。イエス様によって与えられる平和、それは神様との平和、神様から与えられる平和であります。しかし、その平和は弟子たちに平穏無事な人生を約束するものではありません。むしろ、イエス様を信じる弟子たちは、世から憎まれ、世で苦難を経験するのです。けれどもイエス様は「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われるのです。イエス様は数時間後にはユダヤ人たちに捕らえられ、裁かれ、十字架にはりつけにされます。それは世の勝利であり、イエス様の全面的な敗北に見えます。けれどもそうではない。わたしは十字架に上げられることによって世に勝利するのだとイエス様はおっしゃるのです。なぜなら、十字架に上げられたイエス・キリストは死から三日目に復活するからです。栄光の体で復活し、天へと上げられ、すべての人の主となられるからです。十字架はイエス・キリストの敗北ではありません。十字架に上げられたイエス・キリストは復活して、今も生きておられる。聖霊において私たちと共におられるのです。復活したイエス・キリストは散らされて自分の家に帰ってしまった弟子たちを訪ねてくださり、一つの群れへと集めてくださる。今ここに集っている私たちばかりではなくて、私たちを通して信じる人々をも集めて、一つの群れとしてくださるのです。十字架によって世に勝利してくださったイエス様が私たちと共にいてくださるゆえに、私たちは勇気を持って雄々しく世を歩んでいくことができるのです。