世から選び出した者たち 2010年11月07日(日曜 朝の礼拝)
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世から選び出した者たち
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 15章18節~16章4節
聖書の言葉
15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
16:3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
16:4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」ヨハネによる福音書 15章18節~16章4節
メッセージ
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今朝はヨハネによる福音書第15章18節から第16章4節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
18節をお読みします。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
ここに「世」という言葉がでてきます。ここでの「世」は神の御子によって造られたにも関わらず、神の御子を認めない人々のことであります(1:5参照)。世から憎まれる。これは単なる仮定ではなくて、この福音書が執筆された紀元90年頃にヨハネの共同体が置かれていた現実でありました。ヨハネの共同体に属する者たちは世から憎まれていたのです。では現代の弟子たちである私たちはどうでしょうか?私たちの国の憲法は信教の自由を保障しておりますから、私たちは露骨な仕方で世から憎まれることは少ないかも知れません。けれども、日本におけるキリスト教会の歴史を振り返るならば、キリスト者たちが世から憎まれ、迫害されてきたことが分かります。それゆえ、私たちは今朝の御言葉をまさに自分たちに語られている御言葉として心して聞かなければならないのです。
イエス様は、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを知りなさい」とおっしゃいます。ここでの「憎んでいた」はもとの言葉を見ると完了形で記されています。完了形は、ある動作が過去において完了して、その結果が現在に続いていることを表します。イエス様への憎しみは十字架によって最高潮に達するわけですが、世は今もイエス様を憎んでいるのです。
イエス様は続けてこうおっしゃいました。19節をお読みします。
あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
ここで「身内」という言葉がでてきますが、これは新共同訳聖書の意訳であります。直訳すると「自分のもの」となります。イエス様は「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを自分のものとして愛したはずである」と言われたのです。また、ここで「愛する」と訳されているギリシャ語はフィロス・友を語源とするフィレオーという言葉です。「身内」と訳してしまいますと血縁関係にある親族を連想させますけれども、世はあなたがたを自分の友として愛したはずであるとイエス様は言われているのです。
イエス様の「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」の言葉は、イエス様が私たちを御自分の友として世から選び出してくださったことを思い起こさせます。先週学びました15節から16節にこう記されていました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。私たちはイエス様の友として世から選び出されたゆえに、もはや世は私たちを友として愛することができないのです。ヤコブの手紙第4章4節に「世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか」とありますように、イエスの友でありつつ、世の友となることは出来ないのです。弟子たちはイエス様の友として世から選び出されたゆえに、世は私たちを憎むのです。
イエス様は続けてこうおっしゃいました。20節から21節をお読みします。
『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
「僕は主人にまさりはしない」、この言葉は第13章16節に記されておりました。ここでは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」という文脈の中で「僕は主人にまさりはしない」と言われておりました。「主人であるわたしが仕えたのだから、僕であるあなたがたはなお一層互いに仕え合うべきである」とイエス様は言われたのです。そして今朝の御言葉においては、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」という文脈の中で、「僕は主人にまさりはしない」という言葉が引用されるのです。主人であるイエス様が迫害されたならば、その僕である私たちも迫害されるのです。そしてこの言葉は同時に、僕である私たちにまさって主人であるイエス様が迫害に遭われたことを教えているのです(ヘブライ12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」を参照)。
「わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉を守るだろう」。このイエス様の御言葉は第13章20節を思い起こさせます。第13章20節でイエス様はこう言われました。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。ここに「遣わされた者は、その人を遣わした人自身である」という遣わされた者と遣わした者の一体性が教えられております。そして、その一体性は弟子たちの言葉を受け入れないという否定的な反応においても言えるのです。弟子たちの言葉を受け入れない者は弟子たちを遣わされたイエス様を受け入れない者であり、イエス様の言葉を受け入れない者はイエス様を遣わされた神様を受け入れない者であるのです。人々が弟子たちの言葉を守らずイエス様の名のゆえに弟子たちを迫害するのは、人々がイエス様を遣わされた神様を知らないからであるのです。そして、この「人々」とは他でもない神の民であると自負していたユダヤ人たちであったのです。神の契約の民であるはずのユダヤ人たちが、イエス様の名のゆえに弟子たちを迫害している。そのようなことがなぜ起こるのか?イエス様は「彼らがわたしを遣わされた神を知らないからだ」と言われるのです。イエス様の名のゆえに弟子たちを迫害することによって、ユダヤ人たちは自分たちが本当は神様を知らないことを暴露してしまっているのです。ユダヤ人たちだけではありません。人々がイエス様の名のゆえに私たちを迫害するならば、その人々は自分たちが本当の神様を知らないことを暴露してしまっているのです。
イエス様は続けてこうおっしゃいました。22節から25節までをお読みします。
わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行わなかったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
イエス様はこれまでユダヤ人たちに言葉と業によって、御自分が御父から遣わされた神の御子、救い主であることを世に示してこられました。けれども、ユダヤ人たちはイエス様の話を聞き、イエス様の業を見たうえで、イエス様を憎んだのです。そして、ここにユダヤ人たちに代表される世の罪深さが明らかにされたのです。イエス様が「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」と言われる「罪」とは、何よりイエス・キリストを信じないことであるのです(16:9)。神様は旧約聖書に記されている預言のとおりに、御自分の民であるイスラエルに救い主を遣わしてくださいました。それも神の独り子を世を救うために人として遣わしてくださったのです。そして、神様はイエス・キリストの言葉と業によって、イエス様こそ神の御子、救い主であることを世に示されたのです。けれども、世の代表者とも言えるユダヤ人たちはイエス様の話を聞き、イエス様の業を見たうえで、イエス様を信じない。信じないどころか、イエス様を憎むのです。そして、イエス様を憎む者はイエス様を通して語り、働いていおられるイエスさまの御父である神様をも憎んでいるのです。
なぜ、このようなことが起こったのでしょうか?聖書の専門家であるユダヤ人たちがイエス様の業に生ける神の働きを見ることができず、イエス様を憎むということがどうして起こったのでしょうか?イエス様はそれは彼らの律法の言葉が実現するためであると言われます。ここでイエス様が引用している『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』という御言葉は旧約聖書の詩編第69編5節の御言葉であります。詩編第69編はダビデの詩編でありますけども、かつての人々がダビデを理由もなく憎んだように、今の人々もイエス様を理由もなく憎んでいるのです。いや理由がなくもありません。イエス様は第7章7節で御自分を信じていない兄弟たちにこう言われました。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業を悪いと証ししているからだ」。何一つ罪のないお方、神の御心をいつも行う方が来られたことによって、神の御心に背く世の罪が明らかとなる。世は光の到来によって、自分が闇であることを思い知らされる。それゆえ闇である世は光として来られたイエス様を憎むのです。世はイエス様を十字架につけて殺してしまうほどに憎むのです。
22節に、「弁解の余地がない」とありますけども、ある人は「弁解の余地がなくなったので、ユダヤ人たちはイエス様を殺したのだ」と言っています。私たちが誰かと口げんかをする。互いに罵り合う。そして言葉につまるとどうなるか。今度は手がでる。そのようにユダヤ人たちは弁解の余地がなくなったので、イエス様を十字架につけて殺したと言うのです。人を殺してこの地上からその名を消し去ってしまうということは、憎しみの極みだと言えます。そのような憎しみをもってイエス様は御自分の民であるはずのユダヤ人たちから憎まれたのです。
イエス様は続けてこうおっしゃいました。26節から27節までをお読みします。
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
ここでイエス様は弁護者であり、助け主であるパラクレートスについてお語りになります。イエス様はこれまで2度、弁護者・パラクレートスについてお語りになりました。イエス様は第14章16節で、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とお語りになりました。また26節で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とお語りになりました。そして、今朝の第15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とお語りになるのです。別の弁護者・パラクレートスである聖霊のお働きは、イエス様が去って行かれた後に、イエス様のお働きを継続することにあります。イエス様は地上にいる間、御自分がどのようなものであるかを証しされました。そして、イエス様が去って行かれた後は、パラクレートスである聖霊がイエス様について証しをするのです。そして、その証しは初めからイエス様と一緒にいた弟子たちを通してなされるのです。弟子たちの内におられる聖霊が、弟子たちの口を通してイエス様について証しをするのです。そして、イエス様とはじめから一緒にいた弟子たちの証しが文書化されたものこそ、新約聖書であるのです。弁護者、助け主である聖霊は、初めからイエス様と一緒にいた弟子たちの証言である新約聖書を用いて、イエス様について証ししておられます(旧約聖書については5:39「聖書はわたしについて証しをするものだ」を参照)。さらには、イエス様を直接肉の目で見たことのない現代の弟子たちである私たちを通してイエス様がどのようなお方であるかを証ししておられるのです。聖霊は私たちのささげる礼拝を通して、とりわけそこで語られる御言葉の説教を通してイエス・キリストについて証ししているのです。
イエス様が去って行かれた後、世はイエス様に対する憎しみをイエス様の弟子たちに向けるようになります。けれども、イエス様は弟子たちに父のもとから別の弁護者を遣わしてくださると言うのです。父から出る真理の霊が弟子たちの内に住み込んでくださり、真理であるイエス・キリストを大胆に証しをさせてくださるのです。私たちの内にもイエス様が父のもとから遣わしてくださった弁護者、真理の霊がおられます。それゆえ、私たちは大胆に、確信をもってイエス・キリストについて証しすることができるし、すべきであるのです。
イエス様は続けてこうおっしゃいました。第16章1節から4節までをお読みします。
これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。初めからこられらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
イエス様が迫害を予告されたのは、弟子たちを怖がらせるためではありませんでした。イエス様が迫害を予告されたのは、弟子たちをつまずかせないためであったのです。「つまずく」とは言い換えれば「信仰を捨ててしまう」ことです。迫害の予告を聞かずに、イエス様の御名のゆえに世からの迫害に遭う。そうすると、その人はこんなはずではなかったとイエス様に対する信仰を捨ててしまう。「そのようなことがないように、わたしが一緒にいる今、これらのことを話しておくのだ」とイエス様は言われるのです。「会堂から追放される」。これはユダヤ社会から追放される、村八分にされるということです。また、弟子たちは神の御名によって殺されるのです。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考えるときが来る」。何たることかと思いますけれども、ここに記されていることは、この福音書を記したヨハネの共同体がまさに直面していた迫害であったのです。
このようなイエス様の御言葉を読みますときに、私たちが思い起こすのはイエス様ご自身が神の名によって十字架につけられ、殺されたお方であったということです。イエス様は第15章18節で、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言われましたけれども、イエス様御自身が自分は神に奉仕していると考えている大祭司に代表される最高法院によって殺されたのです。そして、イエス様は十字架にあげられることによって、「わたしはある」という神その方であることを世に証しされたのです(8:28)。
今朝は最後にテモテへの手紙一の第5章13節から14節までを読んで終わりたいと思います。
万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。
イエス様がローマの総督ポンテオ・ピラトの前でなされた証しは、万物に命をお与えになる神の御前でなされた証しであったのです。そのイエス様が聖霊において私たちと共にいてくださる。そして、私たちにも万物に命をお与えになる神の御前で立派な証しをさせてくださるのです。イエス・キリストにある復活の命を、私たちの命をもって証しをさせてくださるのであります。
私たちは今朝、迫害のさなかにあってもイエス・キリストを証しする心備えをしっかりとさせていただきたいと願います。