イエスの友 2010年10月31日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの友

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章9節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」ヨハネによる福音書 15章9節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 先程はヨハネによる福音書第15章1節から17節までを読んでいただきました。前回は1節から8節までをお話ししましたので、今朝は9節から17節までを中心にしてお話しをいたします。

 9節をお読みします。

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 ここでイエス様は御自分の愛の源を打ち明けてくださっています。イエス様は御父から愛されたその愛をもって、弟子たちを、私たちを愛してこられたのです。そしてイエス様はその愛にとどまりなさいと弟子たちに、私たちに言われるのです。そうは言ってもイエス様の愛にとどまるにはどうすればよいのでしょうか。何をもって私たちはイエス様の愛にとどまっていることを確認できるのでしょうか?イエス様は続けてこうおっしゃいました。

 10節をお読みします。

 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。

 御父から愛されたイエス様が、今も御父の愛にとどまっていると言えるのはイエス様が御父の掟を守っていることによります。それと同じように、弟子である私たちがイエス様の掟を守っているならば、私たちもイエス様の愛にとどまっているのです。そして、私たちはイエス様の愛にとどまることによってのみ、御父の愛にとどまることができるのです。なぜなら、御父の愛はイエス・キリストを通して世に示されたからです。

 11節をお読みします。

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 「これらのこと」は1節から10節までに記されていることを指しています。イエス様は御自分をぶどうの木に、弟子たちをその枝に譬えて、御自分と弟子たちが命の交わりにあることを教えられました。また、イエス様につながるということは、イエス様の愛にとどまることであることを教えられました。そしてここに至って、これらのことをイエス様が弟子たちに話された目的が語られるのです。イエス様につながり、イエス様の愛にとどまることは、イエス様の喜びを私たちの喜びとし、その私たちの喜びが満ちあふれるためであるのです。正直に申しまして、私は11節を読んだとき、ある違和感を覚えました。なぜなら、イエス様はこれから十字架に上げられるからです。十字架を前にして、イエス様は喜びについてお語りになっている。そのことにある違和感を覚えたのです。けれども、イエス様の喜びが御父との愛の交わりに根差すものであることが分かったときに、その違和感が解消されました。イエス様の喜びが御父との愛の交わりに根差すものであるがゆえに、イエス様は十字架において喜んで自らの命を捨ててくださったのです。そしてそれこそ、イエス様が御父から受けた掟であったのです。第10章17節から18節でイエス様はこうおっしゃいました。

 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

 今朝の御言葉である第15章10節で、イエス様が「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように」と言われるとき、この掟を忘れてはいなかったはずです。イエス様は十字架において自ら命を捨てることによって、御父の愛にとどまるのです。それゆえ、十字架につけられる前夜であっても、イエス様は喜びについて語ることができたのです。イエス様の愛にとどまることによって、私たちはイエス様の喜びを私たちの喜びとさせていただけるのです。そして、その喜びが満たされるのが、イエス・キリストの名のもとに集い、ささげられる礼拝においてであるのです。私たちがイエス様の喜びにあずかれる場こそ、主の日の礼拝であるのです。

 第15章12節をお読みします。

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 イエス様が御父から受けた掟は「命を再び受けるために捨てる」というものでありました。他方、私たちに対するイエス様の掟は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というものです。10節の後半で、イエス様は「あなたがたも、わたしの掟を守るならば、わたしの愛にとどまっていることになる」と言われましたけども、この「わたしの掟」こそ「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟であるのです。このイエス様の掟は、イエス様が私たちを愛してくださったことが前提とされています。それでは、イエス様はどのように私たちを愛してくださったのでしょうか?

 13節から14節までをお読みします。

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 イエス様は、御自分の命じることを行う私たちを友と呼んでくださり、その私たちのために命を捨ててくださいます。友のために自分の命を捨てるというこれ以上ない大きな愛で私たちを愛してくださっているのです。ここでイエス様はこれから御自分が死なれる十字架の死が御自分の友のための死であることを明らかにしてくださいました。イエス様の十字架の死は、父の掟を守るという御父との愛の交わりに基づくものでありました。イエス様が御父の掟に従って十字架の死を死なれるということは、御父への最高の愛の表現であったわけです。イエス様は御父への愛から旧約聖書のイザヤ書第53章に預言されている苦難の僕としての道を歩まれるのです。そして同時にイエス様の十字架の死は友である私たちへの愛に基づくものであったのです。イエス様は友であるあなたがたのためにわたしは自ら命を捨てるのだと言われるのです。このようなイエス様の御言葉を聞くと、私たちは驚くのではないでしょうか。なにゆえ神の御子であるイエス様が私たちのようなものを友と呼んでくださるのであろうか?そのように不思議に思うのです。ちなみに、聖書において神の友と呼ばれているのはアブラハムだけであります(イザヤ41:8、ヤコブ2:23)。けれども、神の御子であるイエス様は私たちを友と呼んでくださるのです。そして「友であるあなたがたのためにわたしは命を捨てるのだ」と言われるのです。

 なぜイエス様は「あなたがたはわたしの友である」とおっしゃってくださるのか?その答えが15節に記されています。

 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 第13章にイエス様が弟子の足を洗うお話しが記されていました。そこではイエス様が主人であり、弟子たちは僕であると言われていました(ヨハネ13:13,16)。しかし、ここでイエス様は「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と言われます。なぜなら、イエス様は父から聞いたことをすべて弟子たちに知らせてくださったからです。イエス様が言われるように、僕は主人が何をしているか知りません。なぜなら、主人は僕に自分の心の内を打ち明けないからです。しかし、イエス様は弟子たちに、また私たちに父から聞いたことをすべて知らせてくださいました。それは、イエス様が私たちを友としてくださったことを教えているのです。私たちがイエス様に、わたしの友となってくださいとお願いするのではありません。そもそも僕である私たちが主人であるイエス様にそのようなことを申し出ることは不遜極まりないことであります。私たちがイエス様の友となることができたのは、ただイエス様が一方的に父から聞いたことをすべて知らせてくださった恵みによるのです。それゆえイエス様は16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われるのです。私たちはだれかの友となるとき、まずわたしがその人を友として選んだと考えますね。しかし、イエス様が「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われるとき、それはイエス様の主権による一方的なことなのです。私たちがイエスさまを友として選んだのではない。イエス様が私たちを友として選んでくださったのです。しもべである私たちにイエス様は父から聞いたことをすべて知らせてくださって、私たちを御自分の友と呼んでくださる。これは身に余る光栄であり、もったいないことであるのです。

 イエス様は私たちを友として選び、私たちを愛して御自分の命を捨ててくださるのでありますが、その目的が16節後半に記されています。

 あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 イエス様が「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と言われるとき、その実とは弟子たちが行う福音宣教によってイエスさまを信じる者たちを指しています(ローマ1:13参照)宗教改革者ジャン・カルヴァンはその註解書で「その実が残るように」とは「この世界からキリスト教会がなくならないように」という意味であると解説しています。私たちがイエス・キリストの友として選ばれたのは、私たちも御父の御心に従って福音を宣べ伝え、この地にキリストの教会を形成するためであるのです。

 また、イエス様が私たちを友として選んでくださったのは、イエス様の御名によって御父に願うものは何でも与えられるようにしてくださるためです。私たちはお祈りをささげるとき、イエス様の御名によってお祈りをします。そのようなことが許されているのは、イエス様が私たちを友として選び、友である私たちのために命を捨ててくださったからであるのです。16節の最後に「わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。ここで「任命した」と訳されている言葉は「友のために自分の命を捨てる」の「捨てる」と訳されているのと同じ言葉(ティセーミ)です。そのことはイエス様が私たちを任命するために、御自分の命を捨ててくださったことを教えているのです。私たちがキリスト者として立てられる背後には、イエス様が私たちを友と呼び、命を捨ててくださった事実があるのです。

 先程、私は「イエス様が私たちを友と呼んでくださることを身に余る光栄であり、もったいないことだ」と申しました。それは私たちを友として任命するために、イエス様が御自分の命を捨ててくださったからなのです。繰り返しになりますけれども、本来、私たちからイエス様を友と呼ぶことは許されないことです。イエス様は主人であり、私たちはその僕であります。このことを弁えていないとイエス様が「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた言葉の重みが分からないと思うのです。イエス様は友である私たちを愛して御自分の命を捨ててくださいました。このような友が地上にいるでしょうか?イエス様こそ私たちの真の友であります。その真の友であるイエス様の御言葉として、私たちは17節に記されているイエス様の掟を聞きたいと思います。

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 私たちを友と呼び、命を捨ててくださったイエス様の愛に駆り立てられて、イエス様の掟を守り続けたいと願います。そのためにも私たちは主イエス・キリストの名によってささげられる礼拝を大切にしたいと思います。なぜなら「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の掟は弟子の群れである教会に与えられたものであるからです。ある人が16節の御言葉は福音宣教と礼拝を背景としていると解説していました。私もその通りだと思います。イエス様は私たちを友と呼び、私たちを愛して命を捨てることにより、互いに愛し合う者たちの群れをこの地上に創造されたのです。イエス様に注がれた御父の愛は、今、私たちにも注がれ、私たちも互いに愛し合う者たちとされているのです。

 御父がイエス様を愛され、イエス様がその御父の愛をもって私たちを愛し、私たちがイエス様の愛をもって互いに愛し合うことによって、神の愛は広がっていくのです。

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