イエスが与える平和 2010年10月03日(日曜 朝の礼拝)

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イエスが与える平和

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章25節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」ヨハネによる福音書 14章25節~31節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 イエス様が十字架に上げられる前夜になされたいわゆる告別説教を学んでいます。イエス様は去って行かれる。そのイエス様に弟子たちの誰もついて行くことはできないのです。一番弟子と言えるペトロさえも、数時間の後にはイエス様との関係を三度否定してしまう事態が起こるのです。すなわち、イエス様は十字架に上げられるという仕方で天へと上げられるのです。十字架の死からの復活を経て御父のもとへ行かれるのであります。しかし、イエス様は御父のもとへ行ったならば、別の弁護者を遣わして、弟子たちと永遠に一緒にいるようにしてくださると言うのです。別の弁護者である真理の霊において、イエス様と御父が私たち一人一人の内に住まいを設けてくださると言うのです。イエス様は弟子たちの前から去って行かれるのでありますけども、そのことによって別の弁護者である真理の霊が遣わされ、聖霊において私たち一人一人と共にいてくださるのです。このようにして旧約聖書にある神様の約束、「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束が現実のものとなるのです(エゼキエル37:27)。

1.イエスの名によって遣わされる聖霊

 ここまでが前回までにお話ししたことでありますが、今朝は25節から31節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 25節から26節までをお読みします。

 「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 ここでは弁護者とも助け主とも訳されるパラクレートスが、「御父がイエス様の名によってお遣わしになる聖霊である」と明言されています。そして、そのお働きは「弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ことであるのです。御父が聖霊をイエス様の御名によって遣わすとは、イエス様を愛し、イエス様の掟を守る弟子たちに聖霊が遣わされるということであります。聖霊はイエス・キリストの弟子である私たちのもとに遣わされており、私たちは聖霊において、イエス・キリストを通して、神様を礼拝しているのです。聖霊はイエス・キリストを信じない世にではなく、イエス・キリストを信じる教会に遣わされたお方であることを先ず覚えていただきたいと思います。

 聖霊のお働きは、弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせることですが、ある人はここにヨハネによる福音書の成立事情が記されていると申しております。ヨハネによる福音書は使徒ヨハネとその教会によって、小アジアのエフェソで紀元90年頃に記されたと考えられています。イエス様がポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられたのが紀元30年頃ですから、ヨハネによる福音書はそれからおよそ60年の後に記されたことになるわけです。そして、そのようなことが出来たのは、聖霊がヨハネとその教会にすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださったからであると言うのです。ヨハネによる福音書が様々な資料を用いて執筆され、教会によって担われてきたことは明かでありますけども、そこにはイエスの名によって遣わされた聖霊のお働きがあったのです。そもそも、イエス様の言葉と行いはイエス様が栄光を受けて聖霊が遣わされて初めて正しく理解することができるのです。第2章21節から22節にこのように記されておりました。

 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 また第12章16節にもこのように記されておりました。

 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 このようにヨハネによる福音書自体が聖霊のお働きのもとに記された書物であるのです。

 それではですね。弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる聖霊のお働きは、新約聖書が成立するまでの限られたことなのでしょうか。もちろんそうではありません。礼拝の祈りの中で司式者が、聖霊なる神様が説教する者を強め、大胆に御言葉を語ることができるようにしてくださいと祈るように。また聖霊なる神様が説教を聞く者たちの心を開き、信仰をもって御言葉を受け入れることができるようにしてくださいと祈るように、聖霊は私たちの内にも働いてくださるお方なのです。私たちは内なる教師である聖霊の導きのもとに聖書を読んでいるのです。また、聖霊がイエス様の言葉をことごとく思い起こさせてくださるゆえに、私たちはイエス様の御言葉を今私たちに語りかける御言葉として聴くことができるのです。「思い起こさせる」とはただ忘れていたものを思い出させるというだけではなく、かつて語られたイエス様の御言葉を私たちに語られている言葉として聴かせてくださるということです。わたしは今、説教をしておりましけども、説教とはかつて弟子たちに語られたイエス様の御言葉を、現代に生きる弟子たちに語ることであります。なぜ、そのようなことが可能なのかと言えば、それは「すべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」聖霊のお働きがあるからなのです。それゆえ、イエス・キリストの名によってささげられる礼拝、イエス・キリストの名によって語られる説教そのものが、イエス・キリストの名によって遣わされる聖霊の御業なのであります。それゆえ礼拝において奉仕する説教者、司式者、奏楽者、礼拝当番は、聖霊なる主が用いられる器であると言えるのです。

2.イエスが与えるの平和

 27節から28節までをお読みいたします。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と行ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとへ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

 ここでの「平和」を口語訳聖書、新改訳聖書は「平安」と記しております。イエス様がお語りになる「平和」、「平安」の背景にあるのは、ヘブライ語の「シャローム」であります。シャロームは戦争のない状態ばかりでなく、あらゆる点において満ち足りている完全な状態を表します。それゆえ、シャロームは神様の救いと結びつけて用いられるのです。神様こそがシャロームの源であるわけです(ローマ15:33)。イエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言われるのですが、これはユダヤにおいて「シャローム」が出会いの挨拶であり、別れの挨拶でもあったことを知るとき、よくお分かりいただけると思います。ユダヤ人たちは出会うときも、別れるときも、「平和があなたにありますように」と互いに挨拶を交わしたのです。そして、イエス様も弟子たちのもとを去って行くにあたり、平和についてお語りになるのです。ただし、ここで注目すべきことは、イエス様が「わたしの平和を与える」と言われていることであります。先程わたしはシャロームは神様の救いと結びつけて用いられると申しましたけども、イエス様が「わたしの平和を与える」と言われるとき、その平和はイエス様が十字架に上げられることによって成し遂げられる救いと結びついているわけです。すなわち、ここでイエス様が与えると言われる「わたしの平和」とは、イエス様が十字架に上げられることによってもたらされる神様との和解、神様との平和であるのです。それゆえ、イエス様は「わたしはこれを世が与えるように与えるのではない」と言われるのであります。十字架の死から復活したイエス・キリストだけが与えることのできる平和。聖書の御言葉と聖霊のお働きを通して今私たちに与えられている平和であります。神様はイエス・キリストにあって私たちのすべての罪を赦し、私たちの父となってくださった。そのような魂の最も深い所に揺るぎなくある平和であります。ですから、イエス様は弟子たちに、また私たちに「心を騒がせるな。おびえるな」と言われるのです。聖霊においてわたしが共にいるのだから、あなたたちにはわたしの平和が与えられているのだから、心を騒がせ、おびえてはならないと言われるのです。

 28節の後半で、イエス様は「父はわたしよりも偉大な方だからである」と言われていますが、この所は解釈の難しい所であります。大きく2つの解釈があります。1つは、イエス・キリストは神でありつつ、まことの人でありますので、人性の面から、父はわたしよりも偉大であるとイエス様が言われたとする解釈です。そしてもう一つは、第13章16節のイエス様の御言葉、「遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」という御言葉からの解釈であります。つまり、遣わされた者と遣わした者という関係のゆえに、イエス様は父はわたしよりも偉大であると言われたと解釈するのです。わたしはとちらか一方の解釈を取るというよりも、両方の解釈が成り立つと思います。すなわち、イエス様は言が肉となったお方であるがゆえに、また御父から遣わされたお方であるがゆえに、「父はわたしよりも偉大な方である」と言われたのです。イエス様は弟子たちに「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとへ行くのを喜んでくれるはずだ」と言われましたけども、これは御父のもとにいくことによってイエス様が栄光をお受けになり、イエス様のお働き、救いの御業が完成されるからであります。イエス様が栄光をお受けになることを私たちの喜びとすること、それがイエス様が私たちに求めておられる御自分への愛であるのです。

3.事が起こる前に

 29節から31節までをお読みいたします。

 「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 ここでの「事」とは、イエス様がユダヤ人たちによって捕らえられ、十字架に上げられることを指しております。イエス様が世の代表者であるユダヤ人たちの手によって十字架刑に処せられることは、世の支配者である悪魔、サタンが勝利したように人の目には見えるわけです。けれども、イエス様は「世の支配者である悪魔はわたしをどうすることもできない」と言われるのです。それはなぜかと言わば、イエス様は罪のないお方、何一つ罪を犯したことのないお方であられるからです(「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」9:31参照)。聖書は「罪が支払う報酬は死です」と記しております(ローマ6:23)。しかし、イエス様は罪のないお方であり、何一つ罪を犯したことのないお方でありますから、本来は死とは無縁のお方であられたのです。けれどもそのイエス様が犯罪人の一人として十字架に上げられるのはなぜでしょうか?それはただイエス様が御父を愛して、御父の命じられたとおりに行うからなのです。イエス様はすでに第10章17節から18節でこうおっしゃていました。

 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 ここで「掟」と言われ、今朝の御言葉で「父がお命じになった」と言われておりますのは、旧約聖書のイザヤ書第53章に記されている「苦難の僕」の預言のことであります。イザヤ書第52章13節から第53章12節までをお読みいたします。

 見よ、わたしの僕は栄える。

 はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどまでに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 少し長く読みましたけども、これが御父がイエス様にお命じになった事であります。イエス様は「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われましたけども、イエス様ご自身が御父を愛するゆえに、御父から命じられた通りに私たちの罪を自ら負われたのです。それゆえ、御父はイエス・キリストを死から三日目に復活させ、天へと上げられて、栄光をお与えになるのです。イエス様が御父を愛して、御父が命じられたとおりに行うゆえに、十字架の出来事が起こったのです。

 イエス様は、「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを世は知るべきである」と言われました。この「世」は、第3章16節の「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われる「世」と重なるものであります。イエス様の御父への愛は、私たちに対する神様の愛を実現するものであることを世は知るべきである。私たちは知るべきであるのです。

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