愛によって知る 2010年9月26日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 14章15節~24節
聖書の言葉
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。ヨハネによる福音書 14章15節~24節
メッセージ
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今朝はヨハネによる福音書第14章15節から24節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
15節から17節までをお読みします。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
イエス様は御自分を遣わされた御父のもとに行こうとしておられるのですが、ここでは父にお願いして、弟子たちのもとに別の弁護者を遣わしてくださると言われております。そして、その別の弁護者は永遠に弟子たちと一緒にいてくださるお方であると言うのです。ここで「弁護者」と訳されているギリシャ語は「パラクレートス」という言葉であります。パラクレートスとは文字通りに訳せば「傍らに呼ばれた者」となります。援助するために傍らに呼ばれた者、それがパラクレートスです。ですから、口語訳聖書と新改訳聖書は「助け主」と訳しております。また、「別の弁護者」の「別の」と訳されている言葉は「同じ種類の他の者」を表します。つまり、イエス様は御自分がパラクレートス、弁護者、助け主であることを前提として、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われるのです(一ヨハネ2:1参照)。イエス様は弟子たちの前から去って行くのでありますが、別の弁護者は永遠に弟子たちと一緒にいてくださるのです。そして、この方こそ、真理の霊なのであります。イエス様は、「世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言われるのでありますが、ここでは、別の弁護者である真理の霊が遣わされるのは、イエス様を愛し、イエス様の掟を守る弟子たちだけであることが言われおります。真理の霊、神の霊が与えられることは、旧約聖書に記されていた神様の約束でありました。例えば、エゼキエル書の第36章26節にはこのように記されております。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。しかし、イエス様は御自分を信じないユダヤ人たちに代表される世は真理の霊を受け入れることができず、御自分を愛する弟子たちだけに聖霊が与えられ、留まってくださると仰せになるのです。御父から遣わされたパラクレートスであるイエス様を受け入れない世は、別のパラクレートスである真理の霊を受け入れられないのであります。
18節から20節までをお読みします。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
イエス様は御父のもとへ行ったら、別の弁護者を遣わすようお願いしようと言われましたけども、18節では「あなたがたのところに戻って来る」と言われております。これは一体どういう意味でしょうか。大きく二つの解釈があります。1つは十字架に上げられたイエス様が、死から三日目に復活されて弟子たちのもとに戻って来るという解釈であります。またもう一つは、弟子たちに遣わされる真理の霊において戻って来るという解釈であります。18節でイエス様は「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」と言っておりますから、ここでは真理の霊において戻ってくる。聖霊において永遠に弟子たちと一緒にいてくださるようになることを言っているのだと思います。では、19節はどうでしょうか。19節でイエス様は「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と言われております。ここではどうも十字架の死から三日目に復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださったことを言っているようでありますね。イエス様を信じない世、その代表者であるユダヤ人たちは、イエス様を十字架につけるという仕方でイエス様を見なくなります。よく「顔も見たくない」と言いますけども、世はイエス様の顔を見たくないゆえに、イエス様をこの地上から抹殺してしまったわけです。それゆえ、世は自分の願い通りにイエス様をもう見なくなるわけです。しかし、十字架の死から復活されたイエス様は弟子たちに現れてくださいました。このことはイエス様がおっしゃていたように、イエス様が復活であり、命であることを示すことでありました。それゆえ、弟子たちもイエス様を信じて、この復活の命に生きるようになると言うのです。それでは20節はどうでしょうか。20節でイエス様はこのように言われております。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。ここで「かの日」とありますが、これは復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださった日とも、弟子たちに聖霊が遣わされた日とも読むことができます。そして実際、ヨハネによる福音書を読み進めて行くと、復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださった日と弟子たちに聖霊が与えられる日は同じ日の出来事として記されているのです。第20章19節から23節までをお読みします。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
このように、ヨハネによる福音書において、復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださることと聖霊が弟子たちに与えられることは同じ日の出来事であるのです。では、第14章20節に戻りましょう。
イエス様はかの日、復活されたイエス様から聖霊を与えられる日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かると言われておりますけども、初めの「わたしが父の内におり」は、10節、11節でイエス様が弟子たちに教えられていたことであります。11節でイエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と言っておられましたが、復活のイエス様から聖霊を与えられる日には、弟子たちはそのことが分かるようになると言うのです。イエス様が御父の内におられるということだけではなくて、弟子たちがイエス様の内にいることとイエス様が弟子たちの内にいることが分かるようになると言うのであります。そして、これこそ、19節でイエス様が「あなたがたも生きることになる」と言われた命、永遠の命であるのです。
21節から24節までをお読みします。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とありましたけども、ここでは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と言われております。そして、ここで注目したいのは、それに続けて「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される」と言われていることです。イエス様はすぐに「わたしもその人を愛して、わたし自身を現す」とは言われませんでした。御自分の愛をお語りになるまえに、御父の愛についてお語りになったのです。このことはイエス様を愛することがイエス様との愛の交わりにとどまらず、御父との愛の交わりへと至ることを私たちに教えているのです。御父の名によって来られ、御父の御心をいつも行うイエス様を愛する者たちを御父も愛してくださるのです。イエス様の「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」という言葉を聞いてイスカリオテでない方のユダが質問をするのでありますが、このユダはルカによる福音書によれば「ヤコブの子ユダ」と記されています(ルカ6:16)。なぜ、ヨハネによる福音書はヤコブの子ユダと記さずに、わざわざイスカリオテでない方のユダという言い方をしたのでしょうか。それは弟子が必ずしもイエスさまを愛している者ではないことを思い起こさせ、私たちに自分がイエス様を愛しているか、イエス様の愛を動機付けとしてイエス様の御言葉を守っているかを自己吟味させるためであると思います。そして、少なくともユダは、この時その自己吟味を怠っていたようです。ユダは「主よ、私たちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と質問しました。ユダはすぐに自分をイエス様の掟を受け入れる者、それを守る者、すなわちイエス様を愛する者と見なしたのです。このユダの質問は、「別の弁護者を遣わすという仕方で、世に御自分を現さないのはなぜですか」という意味です。そのようなユダの問いにイエス様は次のように答えられた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。イスカリオテでない方のユダが、弟子たちと世という区分によって語っているのに対して、イエス様は御自分を愛し、御自分の言葉を守る者と御自分を愛さないで、御自分の言葉を守らない者という区分を用いられます。そして、これこそが、イエス様の弟子たちと世の区分であると言えるのです。イエス様が24節後半で、「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」と言っておられますように、イエス様の掟を受け入れ、それを守る人は、御父の掟を受け入れ、それを守る人でもあるのです。それゆえ、その人はイエス様の内におられる御父を愛する者でもあるのです。そして、御父とイエス様はその人を愛するがゆえに、その人の所に行って一緒に住むと言われるのであります。愛する男女が結婚して一緒に住むことを願うように、御父とイエス様はその人を愛するゆえに、一緒に住んでくださるというのです。私たちの用いております新共同訳聖書は「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と記しておりますけども、ここで「父とわたし」と訳されている言葉はもとの言葉を見ると「私たち」と一人称複数で記されています。ですから、口語訳聖書、新改訳聖書を見ましても「私たち」となっています。イエス様は、「私たちはその人のところに行き、一緒に住む」と言われたのです。こう聞きますと、「父とわたし」でも「私たち」でもどちらでもいいではないかと思うかもしれませんが、わたしは「父とわたし」という翻訳では、イエス様が教えようとしておられることが誤解されてしまうのではないかと思うのです。「父とわたし」と聞きますと、わたしの抜きで御父だけがその人のところに行き、一緒に住むことがあり得るような印象を与えてしまうと思うのです。しかし、もとの言葉のとおりに「私たち」と翻訳するならば、イエス様を抜きにして御父がその人のところに行き一緒に住むことは考えられないわけです。御父はイエス様において、その人のところに行き一緒に住むのです。この「一緒に住む」と訳されている言葉は、直訳すると「住む所を造る」という言葉です。2節でイエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われましたけども、それを同じ「住む所」と訳される言葉がここで用いられているのです。すなわち、父の内にいるイエス・キリストが聖霊において私たちと共にいてくださることにより、私たちはこの地上にあって既に天国の祝福にあずかる者とされているのです。父の内におられるイエス・キリストが聖霊において私たちの内にいてくださるゆえに、私たちは御父と御子との愛の交わりに生かされているのです。