15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とあります。ここでの「わたしの掟」とは第13章34節に記されていた掟であります。そこでイエス様はこう言われておりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。私たちはイエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことを新しい掟として与えられているのですが、その掟を守る動機は、イエス様を愛する愛であることがここで教えられています。イエス様を愛しているならば、イエス様から与えられた掟、命令を守るはずであるわけです。また、21節にも「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」とありますけども、イエス様への愛は、イエス様の掟を受け入れ、守ることによって現されるわけです。そこで問題となるのは、イエス様が弟子たちのもとを離れていったあとも弟子たちはイエス様を愛することができるかということであります。イエス様が一緒にいてくださったときは、イエス様を愛することができるかも知れませんけども、イエス様が天におられる御父のもとへ行かれたとき、弟子たちはイエス様を愛し続けることができるだろうか。もし弟子たちがイエス様を愛することができなくなれば、当然イエス様から与えられた新しい掟は守られなくなるわけですね。また、もっと言えば、イエス様を肉眼で見たことのない後の世代の者たちがイエス様を愛し、イエス様の掟を守ることが果たしてできるのだろうかという問題もあるわけですね。ことわざに「去る者は日々に疎し」ということわざがあります。その意味は「親しかった人も、遠く離れてしまうとしだいに疎遠になる」という意味です。これと同じような意味の英語で「Out of sight, out of mind」という言葉があります。「目に見えなくなれば心から消えていく」という意味であります。イエス様が弟子たちのもとから去っていくことにより、弟子たちのイエス様への愛はしだいに消えていくのではないか。そして、イエス様の掟を守る者はだれもいなくなってしまうのではないだろうか。これが今朝の御言葉の背後にあります問題意識であります。この問題意識を念頭に置きつつ今朝の御言葉を読むとよりここでイエス様が教えようとしておられることが分かるのではないかと思います。なぜ、弟子たちはイエス様が去った後も、イエス様を愛し、イエス様の掟を守り続けることができたのでしょうか。また、イエス様を肉眼で見たことのない後の世代の人々がイエス様を愛し、イエス様の掟を守り続けることができたのでしょうか。その答えが16節に記されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。イエス様は十字架に上げられ、さらには復活して天へと上がられることによって弟子たちのもとを去って行くのでありますが、御父のもとへ行ったならば別の弁護者を遣わすことを御父にお願いしようと言われております。ここで「弁護者」と訳されている言葉は、もとのギリシア語ですと「パラクレートス」という言葉です。パラクレートスという言葉は「パラカレオー」という動詞の受動的な動形容詞であります。パラカレオーとは「傍らに呼ぶ」という意味の動詞です。ですから、「パラクレートス」とは文字通りには「傍らに呼ばれた者」と訳すことができます。それも「その人を支援するために」また「その人を援助するために」傍らに呼ばれた者を意味しているのです。パラクレートスという言葉を新共同訳聖書は「弁護者」と訳しておりますが、ここでは何より裁判の場面がイメージされております。この「別の弁護者」は17節では「真理の霊」と言われ、26節では「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われておりますように、聖霊なる神のことであります。パラクレートスという言葉はヨハネによる福音書に4回、ヨハネの手紙一に1回しか出てきません(ヨハネ14:16,26、15:26、16:7、一ヨハネ2:1)。けれどもマルコによる福音書において、裁判における聖霊の働きについて教えている個所があるのです。福音書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書がありますが、執筆された順番から言うと、マルコが70年頃に、マタイとルカが80年頃に、ヨハネが90年頃に記されたと考えられています。そして、後の時代に書かれたものほど聖霊のお働きについて詳しく教えられているわけです。それではマルコによる福音書は聖霊のお働きについて教えていないかというとそうではないのです。マルコによる福音書の第13章9節から11節までにこのように記されています。終末の徴について教えている個所でありますが、イエス様はそこでこう言われています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何をいおうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられたことを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。このように福音書の中ではじめに執筆されたマルコによる福音書においても、聖霊が弟子たちを弁護する者として描かれているのです。先程わたしは、パラクレートスという言葉は、ヨハネによる福音書に4回とヨハネの手紙一に1回しか出てこないと申しましたが、ヨハネの手紙一もやはり裁判の場面がイメージされています。ヨハネの手紙一第1章9節から第2章2節までをお読みします。この個所は私たちが罪の告白の勧告として主の日ごとに聞いているところでありますが、こう記されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです」。ヨハネはここで私たちには御父のもとにイエス・キリストという弁護者がいるのですから、その方が私たちの罪を償ういけにえとして御自身をささげてくださったのですから、罪の赦しを受けるために罪を告白しましょうと呼びかけております。ここで「弁護者」、「パラクレートス」という言葉が出てくるのですが、ここではイエス・キリストが弁護者、パラクレートスと呼ばれております。それゆえ今朝の御言葉で、イエス様は父に「別の弁護者」を遣わしてくださるようにお願いしようと言われたわけです。イエス様は御自分が弁護者として御父から遣わされていることを前提として、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われたのです。ここで「別の」と訳されている言葉は、「同じ種類の他の者」を表す言葉です。地上でイエス様が弟子たちにしてくださったのと同じ働きをしてくださる別の弁護者、それが真理の霊であり、イエス・キリストの御名によって遣わされる聖霊なのです。イエス様が弟子たちを弁護されたことがマルコによる福音書の第2章23節以下に記されています。「安息日に麦の穂を摘む」という所でありますが、このようにあります。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない備えのパンを食べたではないか。』そして更にいわれた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。このようにイエス様は弟子たちをファリサイ派の人々の非難から弁護しておられたわけです。しかし、今朝の御言葉に出てきますパラクレートスというギリシア語は「弁護者」という翻訳だけでは現しきれない豊かさを持つ言葉であります。そのことはイエス様の弟子たちに対するお働きが弁護するだけではなかったことを考えるならば明かであります。それで口語訳聖書と新改訳聖書は「パラクレートス」を「助け主」と翻訳しているわけです。またある英訳聖書では、「フレンド」、「友」と訳しているものもあるそうです。イエス様の時代、裁判において弁護してくれるのは必ずしも法律の専門家ではなくて、むしろその人のことをよく知っている友が弁護してくれたのです。イエス様は第15章で、弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっていますが、別の弁護者として遣わされる真理の霊も、私たちの友として私たちの傍らに来てくださり、私たちを弁護し、助けてくださるお方なのです。
ヨハネによる福音書は第14章から第16章にかけて、イエス様のいわゆる告別説教を記しております。イエス様は御自分がイスカリオテのユダの裏切りによって、数時間後にユダヤ人たちに捕らえられ、ついには十字架に上げられることをご存じでありました。そこでイエス様は御自分が十字架に上げられ、さらには天へと上げられることがどのような意味を持つのかを弟子たちに教えられたのであります。今朝は第14章15節から24節までを読んでいただきましたが、この所は内容が豊かな所でありますので、今朝と次週の2回に渡ってお話ししたいと思います。
15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とあります。ここでの「わたしの掟」とは第13章34節に記されていた掟であります。そこでイエス様はこう言われておりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。私たちはイエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことを新しい掟として与えられているのですが、その掟を守る動機は、イエス様を愛する愛であることがここで教えられています。イエス様を愛しているならば、イエス様から与えられた掟、命令を守るはずであるわけです。また、21節にも「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」とありますけども、イエス様への愛は、イエス様の掟を受け入れ、守ることによって現されるわけです。そこで問題となるのは、イエス様が弟子たちのもとを離れていったあとも弟子たちはイエス様を愛することができるかということであります。イエス様が一緒にいてくださったときは、イエス様を愛することができるかも知れませんけども、イエス様が天におられる御父のもとへ行かれたとき、弟子たちはイエス様を愛し続けることができるだろうか。もし弟子たちがイエス様を愛することができなくなれば、当然イエス様から与えられた新しい掟は守られなくなるわけですね。また、もっと言えば、イエス様を肉眼で見たことのない後の世代の者たちがイエス様を愛し、イエス様の掟を守ることが果たしてできるのだろうかという問題もあるわけですね。ことわざに「去る者は日々に疎し」ということわざがあります。その意味は「親しかった人も、遠く離れてしまうとしだいに疎遠になる」という意味です。これと同じような意味の英語で「Out of sight, out of mind」という言葉があります。「目に見えなくなれば心から消えていく」という意味であります。イエス様が弟子たちのもとから去っていくことにより、弟子たちのイエス様への愛はしだいに消えていくのではないか。そして、イエス様の掟を守る者はだれもいなくなってしまうのではないだろうか。これが今朝の御言葉の背後にあります問題意識であります。この問題意識を念頭に置きつつ今朝の御言葉を読むとよりここでイエス様が教えようとしておられることが分かるのではないかと思います。なぜ、弟子たちはイエス様が去った後も、イエス様を愛し、イエス様の掟を守り続けることができたのでしょうか。また、イエス様を肉眼で見たことのない後の世代の人々がイエス様を愛し、イエス様の掟を守り続けることができたのでしょうか。その答えが16節に記されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。イエス様は十字架に上げられ、さらには復活して天へと上がられることによって弟子たちのもとを去って行くのでありますが、御父のもとへ行ったならば別の弁護者を遣わすことを御父にお願いしようと言われております。ここで「弁護者」と訳されている言葉は、もとのギリシア語ですと「パラクレートス」という言葉です。パラクレートスという言葉は「パラカレオー」という動詞の受動的な動形容詞であります。パラカレオーとは「傍らに呼ぶ」という意味の動詞です。ですから、「パラクレートス」とは文字通りには「傍らに呼ばれた者」と訳すことができます。それも「その人を支援するために」また「その人を援助するために」傍らに呼ばれた者を意味しているのです。パラクレートスという言葉を新共同訳聖書は「弁護者」と訳しておりますが、ここでは何より裁判の場面がイメージされております。この「別の弁護者」は17節では「真理の霊」と言われ、26節では「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われておりますように、聖霊なる神のことであります。パラクレートスという言葉はヨハネによる福音書に4回、ヨハネの手紙一に1回しか出てきません(ヨハネ14:16,26、15:26、16:7、一ヨハネ2:1)。けれどもマルコによる福音書において、裁判における聖霊の働きについて教えている個所があるのです。福音書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書がありますが、執筆された順番から言うと、マルコが70年頃に、マタイとルカが80年頃に、ヨハネが90年頃に記されたと考えられています。そして、後の時代に書かれたものほど聖霊のお働きについて詳しく教えられているわけです。それではマルコによる福音書は聖霊のお働きについて教えていないかというとそうではないのです。マルコによる福音書の第13章9節から11節までにこのように記されています。終末の徴について教えている個所でありますが、イエス様はそこでこう言われています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何をいおうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられたことを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。このように福音書の中ではじめに執筆されたマルコによる福音書においても、聖霊が弟子たちを弁護する者として描かれているのです。先程わたしは、パラクレートスという言葉は、ヨハネによる福音書に4回とヨハネの手紙一に1回しか出てこないと申しましたが、ヨハネの手紙一もやはり裁判の場面がイメージされています。ヨハネの手紙一第1章9節から第2章2節までをお読みします。この個所は私たちが罪の告白の勧告として主の日ごとに聞いているところでありますが、こう記されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです」。ヨハネはここで私たちには御父のもとにイエス・キリストという弁護者がいるのですから、その方が私たちの罪を償ういけにえとして御自身をささげてくださったのですから、罪の赦しを受けるために罪を告白しましょうと呼びかけております。ここで「弁護者」、「パラクレートス」という言葉が出てくるのですが、ここではイエス・キリストが弁護者、パラクレートスと呼ばれております。それゆえ今朝の御言葉で、イエス様は父に「別の弁護者」を遣わしてくださるようにお願いしようと言われたわけです。イエス様は御自分が弁護者として御父から遣わされていることを前提として、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われたのです。ここで「別の」と訳されている言葉は、「同じ種類の他の者」を表す言葉です。地上でイエス様が弟子たちにしてくださったのと同じ働きをしてくださる別の弁護者、それが真理の霊であり、イエス・キリストの御名によって遣わされる聖霊なのです。イエス様が弟子たちを弁護されたことがマルコによる福音書の第2章23節以下に記されています。「安息日に麦の穂を摘む」という所でありますが、このようにあります。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない備えのパンを食べたではないか。』そして更にいわれた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。このようにイエス様は弟子たちをファリサイ派の人々の非難から弁護しておられたわけです。しかし、今朝の御言葉に出てきますパラクレートスというギリシア語は「弁護者」という翻訳だけでは現しきれない豊かさを持つ言葉であります。そのことはイエス様の弟子たちに対するお働きが弁護するだけではなかったことを考えるならば明かであります。それで口語訳聖書と新改訳聖書は「パラクレートス」を「助け主」と翻訳しているわけです。またある英訳聖書では、「フレンド」、「友」と訳しているものもあるそうです。イエス様の時代、裁判において弁護してくれるのは必ずしも法律の専門家ではなくて、むしろその人のことをよく知っている友が弁護してくれたのです。イエス様は第15章で、弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっていますが、別の弁護者として遣わされる真理の霊も、私たちの友として私たちの傍らに来てくださり、私たちを弁護し、助けてくださるお方なのです。
17節でイエス様は「この方は、真理の霊である」と明言されております。真理とは神様を現す言葉であり、またイエス様をも現す言葉であります。なぜなら、イエス様は6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰ていたからです。真理の霊、それは真理であるイエス・キリストの霊でもあるのです。それゆえ、イエス様は18節で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われるのです。イエス様は御父のもとへ行かれるのでありますが、そのようにして目に見える仕方では弟子たちのもとを去って行くのでありますが、別の弁護者である聖霊において弟子たちのもとへ帰って来てくださる。十字架の死から復活され、天へと上げられたイエス・キリストは別の弁護者である聖霊において、現代の日本に生きる私たちとも一緒にいてくださるのです。その一緒にいてくださるあり方が、17節の後半にこう記されています。「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。ここに「あなたがたの内にいるからである」とありますが、この「いるから」と訳されている言葉は、しばしば言及します「留まる」とも訳される言葉であります。10節でイエス様は「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」と仰ていましたが、「わたしの内におられる父」の「おられる」と訳されていた言葉がやはり「留まる」と訳される言葉でありました。ということはですね、イエス様のうちに御父がおられるのと同じ仕方で、イエス様は私たちの内に一緒にいてくださるということであります。イエス様の内に御父がおられたように、イエス様は私たちにも別の弁護者である聖霊を遣わしてくださって、その聖霊において私たちと一緒にいてくださる。私たちを御自分との愛の交わりに生かして、生かし続けてくださる。それゆえ、私たちはイエス様をこの肉眼で見たことはありませんけども、イエス様から愛されていることを聖霊における交わりの中で知り、イエス様の掟を守り続けることができるのです。
ペトロの手紙一の第1章8節に次のような御言葉があります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。ここでペトロは驚いています。なぜ、あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれているのか?その答えを今朝の御言葉をもって答えるならば、十字架の死から復活し、今も生きておられるイエス・キリストが別の弁護者を遣わすという仕方で私たちと永遠に一緒にいてくださるからです。それゆえ、私たちは十字架に示されたイエス・キリストの愛をまさに私たちへの愛として受け取り、その愛で、互いに愛し合う者たちとされているのです。
もし、十字架からよみがえられたイエス様が天に昇らないで、ユダヤの地に留まられたならば、私たちがイエス様と一緒にいるためにユダヤの地へ行かなくてはなりません。もしそうならば、私たちがイエス様と一緒にいるのはほとんど不可能です。けれども、イエス様は御自分を遣わされた御父のもとへ行ってくださいました。そして、御父に願って別の弁護者を遣わし、永遠に私たちと一緒にいることができるようにしてくださったのです。聖霊において、私たちは日本におりながら、私たちの内におられると言われるほどの親しい交わりを持つことができるのです。私たちに別の弁護者である真理の霊が遣わされたことによって、私たちはこのように霊と真理からなる礼拝をささげることができるのです。