もっと大きな業 2010年9月12日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 14章8節~14節
聖書の言葉
14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」ヨハネによる福音書 14章8節~14節
メッセージ
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先程はヨハネによる福音書第14章1節から14節までをお読みしていただきました。先週は1節から7節までを中心にお話ししましたので、今朝は8節から14節までを中心にしてお話しをいたします。
8節から11節までをお読みします。
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
弟子の一人であるフィリポはイエス様に「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言っておりますが、これは直前の7節のイエス様の御言葉を受けての発言であります。7節でイエス様は次のように仰せになっておりました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。ここに「知る」という言葉が三度でてきます。聖書において「誰々を知っている」と言うとき、それはその人についての何らかの情報を持っているということではなくて、交わりの中で人格的に知ることを意味しています。7節には「知る」という動詞が三度、「見る」という動詞が一度でてきます。一番目の「知る」は完了形で記されています。そして、二番目の「知る」は未来形で記されています。ですから、口語訳聖書はこの所をこう訳しています。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう」。ここでイエス様が「もし知っていたならば」と言われておりますように、まだこの時弟子たちはイエス様がどのようなお方であるかを知りませんでした。そして、そのような弟子たちにイエス様は「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われるのです。ここでの「知る」は現在形で、「見る」は完了形で記されています。「今から、あなたがたは父を知る」と言われるほど、これからのイエス様の教えは大切なことを私たちに教えてくださっているわけです。さらにはイエス様は「すでにあなたがたは父を見ている」とさえ言うのです。このようなイエス様の御言葉を受けて、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と発言したわけです。フィリポはイエス様から「すでにあなたがたは父を見ている」と言われたのですけども、自分たちは父を見ているとは思っていないわけです。ですから、イエス様に「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのです。そして、このフィリポの発言こそ、弟子たちがまだイエス様を知らなかったこを暴露しているのです。そして、イエス様はこのフィリポの発言をきっかけとして、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言える大切なことを教えてくださるのです。イエス様は「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と言われました。ここで「分かる」と訳されている言葉は「知る」と訳されていた言葉と同じです。ヨハネによる福音書において、これまでフィリポは三度登場してきました。第1章43節に、「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」と記されておりました。フィリポはイエス様の最初の弟子たちの一人であったわけです。また第6章に「5千人養い」の奇跡が記されておりますが、イエス様はそこでフィリポを試して、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われたこと。それに対してフィリポが「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えたことが記されておりました。さらには第12章で、イエス様を礼拝するために訪ねてきたギリシア人を取り次いだ弟子がフィリポでありました。イエス様は「こんなに長い間」と言われておりますけども、イエス様が弟子たちを召し出してからこれまで過越の祭りが二度あり(2:13、6:4)、今三度目を祝っているわけですから、おそよ二年半、イエス様は弟子たちと一緒におられた。それこそイエス様は弟子たちと寝食を共にし、生活を共にしてきたわけです。そうであれば、フィリポはイエス様がどのようなお方であるかを知っていても良さそうなものであります。しかし、そのフィリポでありましてもまだイエス様を知ってはいない。それゆえ、イエス様は御自分がどのようなお方であるのかを改めて弟子たちにお語りになるのです。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。そもそも御父である神は、霊でありますから肉の眼において見ることはできないお方であります。その御父をイエス様が「あなたがたは既に見ている」というとき、肉の眼において見ることを言っているのではなくて、心の眼において見る。信仰において見ることを言われているのです。イエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と二回も言っておられますが、これも目に見えない霊的なことであります。10節の後半に「わたしの内におられる父が」とありますが、ここで「おられる」と訳されている言葉は「留まる」とか「つながる」とも訳すことができます。すなわち、御父が聖霊においてイエス様の内に留まっておられるがゆえに、イエス様は「わたしのが父の内におり、父がわたしの内におられる」と仰せになるのです。イエス・キリストにおいて御自分をあらわされた神様は、父と子と聖霊なる三つにしてただ一人のお方でありまして、子なる神が肉をとってイエス・キリストとしてこの地上を歩まれたときも父と子との交わりは聖霊において保たれていたわけです。この福音書の第1章1節から3節に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と記されておりました。ここでの言は永遠から御父と共におられる、御父との愛の交わりに生きておられる独り子なる神であります。そして、その愛の交わりは言が肉を取った後も聖霊において続いているわけです。父と子との交わりは、子が肉となることによって一度断ち切られたのではなくて、霊において続いているわけであります。イエスというお方は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われる、私たちの知識や経験を超えたお方であられるのです。これは私たち人間には知り尽くすことのできない三位一体の神独自のあり方であります。私たち人間は時間と空間という枠組みの中で生きておりますから、時間と空間を超越しておられる三位一体の神様の交わりがどのようなものであるかを完全に把握することはできないのです。しかしそのような私たちにイエス様は、「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」と言われるのであります。ここでの「業」はイエス様が話した言葉であり、行われたしるしを指しています。イエス様はこれまでその言葉と行いにおいて御自分が何者であるのかを示してきました。弟子たちはそれを一番近くで聞き、見てきたわけですから、イエス様は「もしそれが信じられないならば、業そのものによって信じなさい」と言われたわけです。イエス様が話してきたこれまでの教え、またイエス様がなされてきた様々なしるしは、私たちが、「イエス様が父の内におり、父がイエス様の内におられる」ことを信じるためであったのです。
12節から14節までをお読みします。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 ここでイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もと大きな業を行うようになる」と言われています。イエス様が行う業、それは教えという言葉にせよ、しるしという行いにせよ、御自分こそ神の御子であり、救い主であることを世に示すためでありました。そのようなイエス・キリストがどのようなお方であるかを世に知らしめる業、それを御自分を信じる弟子たちも行うようになる。しかも、もっと大きな業を行うようになるであろうと言われるのです。このイエス様の御言葉は使徒言行録に記されている弟子たちの歩みを読むならばよく分かると思います。イエス様が天に昇られたとき、弟子たちの群れは百二十人ほどでありました(1:15)。しかし、約束の聖霊が降ったペンテコステの日のペトロの説教によって、三千人ほどの人が仲間に加わったのです。このように弟子たちはその影響力において、イエス様よりも大きな業をするようになるのです。また、イエス様のお働きの場がイスラエルに限られていたのに対して、聖霊を受けた弟子たちは、小アジア、ギリシア、さらにはローマへとイエス・キリストの福音を宣べ伝え、キリストの教会を立て上げていくわけです。このような意味で弟子たちはイエス様よりも大きな業をするようになるわけです。そして、今朝イエス様は私たちにも、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と仰せになるのです。こう聞きますと、私たちは当惑してしまうと思います。私たちにはそんなことはできないと思ってしまうのです。しかし、イエス様がそのように言われるのは、私たち自身にその資質があるからではないのです。なぜ、イエス様を信じる私たちがイエス様と同じ業を、さらにはもっと大きな業を行うようになるのか。それは、イエス様が父のもとへと行かれるからです。イエス様を信じる私たちがイエス様の名によって願うことを、イエス様御自身が行ってくださるからです。新共同訳は「かなえる」と訳しておりますが、元の言葉は「行う」と訳されていた言葉と同じです。ですから、イエス様は、「わたしの名によって願うことは、何でもわたしが行うであろう」と言われているわけです。そして、ここに、イエス様が御自分を信じる者たちが「もっと大きなわざを行うであろう」と言うことができる根拠があるのです。すなわち、イエス様は御名によってささげられる私たちの願いを行うことにより、私たちを通してもっと大きな業をしてくださっているのです。このことは使徒言行録の記述を丁寧に読むならば分かります。そこには使徒たちを通して働かれたイエス・キリストの御業が記されているわけです。ですから昔から、使徒言行録は聖霊言行録であると言われてきたわけですね。私たちは14節の御言葉、「わたしの名によって何か願うならば、わたしがかなえてあげよう」という御言葉をしばしば文脈から切り離して、自分の都合によく解釈するのでありますけども、そもそもの文脈は私たちがイエス様と同じ業をする、さらにはもっと大きな業をするであろうという文脈において語られたものであります。つまり、福音宣教において語られているのです。イエス様は弟子たちに御自分が弟子たちのもとから去って行くことをお語りになりました。そうすると、イエス様と弟子たちが行ってきた福音宣教はどうなってしまうのだろうか。終わりを迎えるのだろうか。そうではない。あなたたちはわたしと同じ業をすることになる。いやもっと大きな業を行うことになる。なぜなら、わたしが天に昇ることにより、あなた方がわたしの名によって願うことをわたし自身が行うことになるからだ。そうイエス様は言われているわけです。ここでイエス様が言っておられることは、わたしの名によって願うことは何でもかんでもかなう、まるで魔法の杖のようだということではありません。イエス様が私たちの願いを行ってくださるときに、そこには父は子によって栄光をお受けになるという目的に適う願いであるという前提があるわけですね。「父は子によって栄光をお受けになる」。これはイエス様が地上を歩まれたときの生活信条のようなものであります。私たちが神様の栄光をあらわすためにイエス様の御名によって祈るとき、イエス様はそれをなんでもかなえてくださる。イエス様ご自身が行ってくださると約束してくださっているのです。
主の兄弟ヤコブは、その手紙の中で次のように記しております。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。私たちはイエス様の御名によって祈っているのに願いがかなえられないとしばしば不平を言うのでありますが、それはヤコブに言わせれば、求める動機が間違えているからだと言うのです。神の栄光を求めないで自分の栄光を求めて祈っているからだと言うのです。この13節、14節は、弟子たちがイエス様と同じ業をする、福音宣教という文脈において語られていると申しました。しかし、わたしは、イエス様を信じる者が起こされますようにという祈りであっても、また教会に多くの人が集いますようにという祈りであっても、神の栄光を求めることを動機としてないで願うことがあるのではないかと恐れるのです。教会の先行きが不安だから、人が来ないと困るなぁ、じゃ伝道しましょう。そういう動機ですと、イエス様は私たちを通して働いてくださるだろうかと思うのです。もし、私たちの願いが神様の栄光が現れるようにという動機を失っているならば、父が子によって栄光を受けるために歩まれたイエス様に倣う者とならなければならないと思うのです。私たちはイエス様の「わたしの名によって願うことはなんでもかなえてあげよう」という御言葉を信じて、神様の栄光を求めて福音宣教に励むのです。そして、一人の人が救われたとき、私たちはそこにイエス・キリストの御業を見て、父なる神をほめたたえるのです。