互いに愛し合いなさい 2010年8月29日(日曜 朝の礼拝)
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互いに愛し合いなさい
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 13章31節~38節
聖書の言葉
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ヨハネによる福音書 13章31節~38節
メッセージ
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今朝はヨハネによる福音書第13章31節から38節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
31節、32節をお読みします。
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかもすぐにお与えになる。」
ここに「栄光」という言葉が四回でてきます。もとの言葉をみると実は五回でてきます。32節の後半に「しかも、すぐにお与えになる」とありますが、この所を丁寧に訳すと「しかも、すぐに栄光を与えになる」となるのです。31節、32節に五回、「栄光を与える」という動詞が記されていますが、最初の三つは過去形で、残りの二つは未来形で記されています。結論から申しますと、最初の三つ、「栄光を受けた」は十字架に上げられることを指しています。そして残りの二つ、「栄光を与えるであろう」は死から復活し天へと上げられることを指しているのです。イエスさまは、御自分をユダヤ人たちに引き渡すイスカリオテのユダが出て行ったことによって、今や人の子が栄光を受けたと言われたのです。ヨハネによる福音書において、十字架こそイエス・キリストの栄光でありました。これは他の福音書にはない考え方ですね。たとえばマルコによる福音書では十字架は神から見捨てられるという最も低い状態、いわばどん底の状態として描かれています。私たちが礼拝ごとに告白しているウェストミンスター小教理問答を見ても、十字架の死をイエスさまの低い状態であると告白しています。しかし、ヨハネによる福音書において十字架はすでに高い状態であるのです。ヨハネによる福音書は十字架を栄光として描くわけですが、それは十字架によってこそイエス・キリストの救いの御業が成し遂げられるからです。また十字架によってこそ、「わたしは羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの愛が世に示されるからです。またイエスさまが十字架に上げられることは神が栄光をお受けになることでもあります。なぜなら、イエス・キリストの十字架によって世を救うことは神様の永遠の御計画であるからです。またイエス・キリストの十字架は、独り子を世にお与えになった神様の愛を示すものであるからです。十字架の死に至るまで従順であれた人の子によって神様が栄光を受けたのであれば、神も御自身によって人の子に栄光を与えるであろうとイエス様は言われました。「人の子」とはイエス様が御自身について言うときの決まった言い回しですが、なぜ、わざわざイエス様は「わたし」とは言わずに、「人の子」と言われたのでしょうか。ここには旧約聖書が「人の子」について預言してきたことがイエス様において成就されることが教えられていると思います。すなわち、イザヤ書第53章に預言されている苦難の僕である「人の子」とダニエル書第7章に預言されている永遠の統治者である「人の子」の預言が、十字架によって栄光を受け、さらには死から復活し天へと上げられることによって栄光を受けるイエス様において成就されるのです。また「人の子」は永遠の神の御子が肉となられた、神の御子が人の性質をお取りになったことをも表していますから、イエス・キリストは私たち人間を代表する者として栄光をお受けになったこと、そして栄光をお受けになることが記されているとも読むことができます。私たちと同じ人となられたイエス・キリストが栄光を受けた。またすぐに栄光をお受けになるということは、私たち人間が神の栄光にあずかる道を指し示しているとも言えるのです。
神が御自身によって人の子にお与えになる栄光とは、死から復活し天へと上げられることであるゆえに、イエス様は続けて弟子たちにこう言われました。33節をお読みします。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたがと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
ここでイエス様は弟子たちに「子たちよ」と呼びかけています。ヨハネによる福音書で弟子たちを「子たちよ」と呼びかけるのはここだけですが、これはとても愛情のこもった呼びかけの言葉であります。また、イエス様はこれから御自分が去って行き、その間弟子たちがどのように過ごせばよいかをこれから教えようとしておられるのですから、「子たちよ」という呼びかけはふさわしい呼びかけであったと思います。ちょうど死におもむく父親が子供たちに語りかけるように、イエス様は弟子たちに語りかけておられるのです。
かつてユダヤ人たちに言ったという『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』という言葉は、第7章34節を指しております。第7章32節から36節までをお読みします。
ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
34節のイエス様の御言葉が、今朝の御言葉にも引用されているわけですが、弟子たちに対してイエス様は「見つけることがない」とは言われておりません。イエス様を捕らえて殺そうとしているユダヤ人たちに対して、イエス様は「あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがない」と言われましたけども、弟子たちに対しては、「見つけることがない」とは言われていないのです。また、イエス様を捕らえて殺そうとするユダヤ人たちはイエス様のいる所に来ることはできませんが、弟子たちは今は来ることができなくても、後になって来ることができるようになるのです。第13章33節の後半に、「今、あなたがたにも同じことを言っておく」とありますように、弟子たちがイエス様の行く所に来ることができないのは今という限られた期間であるのです。イエス様は十字架と復活と昇天を内容とする栄光を受けることによって、御自分を遣わされた御父のもとへお帰りになります。それによって弟子たちはイエス様と離ればなれになるわけです。主であり、師であるイエス様がおられないという状況に弟子たちは置かれようとしているわけです。そのような弟子たちにイエス様は新しい掟を、いわば遺言としてお与えになるのです。34節、35節をお読みします。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
イエス様を中心にして、その足もとに座り、教えを受けている姿はそこに集まる者たちがイエス様の弟子であることを目に見える形で表しています。また、イエス様を先頭にして、その後に従っていく姿は、その者たちがイエス様の弟子であることを目に見える形で表します。しかし、イエス様が御父のもとへ帰ってしまい、弟子たちだけが残されたときに、彼らはどのようにして自分たちがイエス・キリストの弟子であることを確認し、また世に証ししていけばよいのでしょうか。それはイエス様がお与えになった新しい掟を守ることによってであるのです。「互いに愛しないなさい」。これのどこが新しい掟なのかと思われる方もいらっしゃるかも知れません。「互いに愛し合うこと」が大切なことは、どこでも言われることではないか。小さい頃から互いに仲良くしなさいと躾けられてきたではないか。そのように思うかも知れません。ここでの「新しさ」を考えるとき、旧約聖書が命じている隣人愛についての掟と比べると分かりやすいと思います。旧約聖書で隣人愛を命じている代表的な個所はレビ記の第19章18節であります。そこには「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。自分が自分を愛するその愛をもって隣人を愛しなさいと命じられているのです。けれども、イエス様はそのようには言われませんでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたのです。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちは互いに愛し合うことが命じられているのです。それゆえ、このイエス様の掟は新しい掟なのであります。このイエス様の御言葉は、弟子たちの足を洗った後に言われた御言葉と重なるものであります。第13章14節以下でイエス様は、「主であり、死であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われました。足を洗うこと、それは後になって分かる意味では十字架の死を指し示すものであり、また今分かる意味では愛をもって仕え合うことでありました。弟子たちがイエス様から足を洗っていただいたことは、弟子たちがイエス様から愛されている者たちであることのいわば印しであったのです。そのイエス様の愛を考えますときに、ここで「自分自身を愛するように」という基準以上のことが求められていることは明かです。第15章12節以下に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますけども、私たちはそのイエス様の愛をもって互いに愛し合うことが命じられているのです。そもそも私たち人間は愛するということがどのようなことを言うのかを本当は知らない者たちであります。旧約聖書のレビ記にも「自分自身を愛するように」とありましたように、私たちの愛は自己中心的な、恣意的なものであるわけです。しかし、イエス・キリストにおいて、特にその十字架において愛するということがどのようなものであるかが世に示されたわけです。その愛をもって、互いに愛し合いなさい。そうすれば、わたしがあなたがたと共にいなくとも、皆があなたがたがわたしの弟子であることを知るようになるとイエス様は言われるのです。イエス様が私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うとき、私たちは私たちの交わりのただ中にイエス様が聖霊においておられることが分かります。先程わたしは、ユダヤ人に言われた「見つけることがない」という言葉が弟子たちには語られていないことを指摘しました。それは弟子たちがイエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うならば、その交わりの中にイエス様が聖霊において確かにおられることが分かるからです。イエス様が弟子たちに与えた新しい掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟を実行していくとき、私たちが忘れてはならないことは私たちにイエス・キリストの聖霊が与えられているということです。もし、生まれながら持っている私たちの愛で、イエス様が愛されたように互いに愛し合おうとしてもそれは無理です。イエス様はこの後、告別説教の中でもう一人の弁護者である聖霊を遣わすと仰せになりますが、私たちはイエス・キリストの聖霊を与えられているゆえに、イエス様が愛されたその愛をもって愛することができる者とされており、そのことが命じられているのです。それゆえ、私たちがイエス様から愛されたように互いに愛し合うとき、私たちのただ中に、目には見えませんがイエス様がおられることが分かるのであります。
レオン・モリスという神学者が『愛 聖書における愛の研究』という書物を記しており、それを日本語の翻訳で読むことができます。その書物の中で、レオン・モリスは、神の愛は創造的な愛である、私たちを愛する者へと創りかえる愛であると語っています。イエス・キリストの愛は、私たちを互いに愛する者へと創りかえる愛であるのです。生まれも育ちも違う、年齢も趣味も違う私たちが互いに愛し合っているのはなぜでしょうか。それはイエス様に愛された者として、私たち自身が愛する者へと造りかえられているからです。私たちは主の日の礼拝ごとに神の言葉、すなわち愛の言葉を聞き、愛の実を結ぶ聖霊を豊かに注がれることによって互いに愛し合う者たちへと創りかえられていくのです。私たちはそのようにして、自分たちがイエス・キリストの弟子たちであることを証ししてきたし、これからも証ししていかなくてはならないのです。
イエス様は弟子たちにいくつかの大切なことを教えられたのですが、ペトロの心にかかったのは何よりイエス様が自分たちのもとを離れてどこかへ行ってしまうということであったようです。36節から38節までをお読みします。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ここでペトロはイエス様に「あなたのためなら命を捨てます」と言っておりますが、このように記すのはヨハネによる福音書だけであります。「ペトロの離反を予告する」というお話しは四つの福音書全てに記されているのですが、「あなたのためなら命を捨てます」というペトロの言葉はヨハネによる福音書にしか記されておりません。これは明らかに第10章に記されていたイエス様の御言葉を反映ものであります。イエス様は第10章で「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せになりました。しかし、ペトロは、自分がイエス様のために命を捨てると言うのです。「命を捨てる」というのは、先程引用した第15章13節に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありましたように、愛の最大の表現であります。ですから、それはイエス様が弟子たちに与えられた新しい掟とも通じているわけです。ペトロは、イエス様に対して「あなたのためなら命を捨てます」と申しました。しかし、イエス様が予告されたように、実際には数時間後の鶏が鳴くまでに、イエス様との関係を三度否定するのです。それは当然のことなのです。ペトロが主イエスのために命を捨てることができるのは、イエス様がペトロのために命を捨ててくださった後です。十字架を通して、洗足の深い意味を悟り、イエス様にどれほど大きな愛で愛していただいているかを知り、そのイエス様の聖霊をいだだいて初めて、ペトロはイエス様の後をついていくことができるようになるのです。先程わたしは、もし私たちが生まれながらに持っている愛で、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合おうとしても無理であると申しました。そのことは、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロが数時間後にイエス様との関係を三度否定することからも明かであるのです。つまりペトロの離反の予告は、栄光を受けたイエス様から聖霊をいただかなくして、私たちは新しい掟を守ることができないことを教えているのです。それゆえ、私たちは自分が愛の乏しい者であることを認め、イエス様の愛をいただき、イエス様の愛に生きることを祈り求めなくてはならないのです。